幼女とテーラー
抜けるような青空の下、梶田さくらは、今日も元気だった。
「おかあさん、じゃあちょっと、おじいちゃんのところにおべんとうもっていってくるね!!」
アルミ製ドアの勝手口を開け、家の奥に向かって声を張り上げる麦わら帽子の幼女がそこにいた。
ドアの下には沓脱石代わりのコンクリートブロック。 これはさくらが産まれ、歩き出した時に、地面との段差を軽減するために設置されたものだ。
その横には、家人の靴や雪駄が揃えて置いてあった。
あと……誰も履かない、埃をかぶったローラーブレード(インラインスケート)も。
そこだけ見ると、ご家庭あるあるかもしれない。
しかし。
娘に【さくら】という名前を付けるセンス。
そしてその娘にローラーブレード(インラインスケート)を履かせようとする家族は、ある種の精神疾患を患っているに違いない。 豚、あるいは萌え豚という名の病を。
まあ、日本刀を持たせようとするよりはましかもしれないが……もし彼女が格闘技用グローブと日本刀を装備してインラインスケートで走り回ったなら、アルテミットキメラさくらとしか言いようがない。
「ああ、さくら。
じゃあ帰りにおじいちゃんに頼んで∀コープで、カレー粉とコーヒー買ってもらって来てー」
家の奥から、さくらの母親の声が聞こえる。
わりと高い、アニメアニメした萌え声だったのは、単に若いためか……そういう嫁を探し当てた父親の不断の努力の産物か。
カレーと聞いて、さくらはにーっと笑顔を浮かべた。
「はーい。
じゃあにもつがあるからテーラーにのっていってもいい?」
「しょうがないなあ……気を付けるのよ」
「やったあ! はーい」
そんなやり取りの後、さくらは勝手口から飛び出していった……耳元が見えないほど密度の高い、漆黒で長い髪が、ふわりと揺れる。
屋根付き駐車場替わりの納屋へ至る道……その両脇には、家庭菜園というには少し大きい畑。
そこには、普段使いの青物と……仕切り代わりの観賞用の植物が植えられていた。
「あっ、おじいちゃんのおべんとうわすれてた!!」
そう言ってきた道を引き返し、さくらはもう一度家の中に飛び込んでいった。
それは日本、主に農業が盛んな地域によくある光景、と言っていい光景だった。
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テーラー……それは別名、耕運機とか耕耘機、または管理機という。
フレームと一体構造になったハンドルと空冷エンジンの下に泥土用のタイヤが二つあり、ロータリー部(横に倒した円筒に刃のない曲がった鎌のような爪が付いていて、それを回転させることで土を耕す部分)がある。
左右のハンドルをまたぐ形で取り付けられたのはクラッチレバー、自転車で言うベルの位置に回転レバー式のアクセルがあり、同じく自転車の左右のブレーキの位置にあるのは右車輪用と左車輪用の独立したブレーキ、ハンドルの間にはマニュアル式のミッションレバー。
日本に何十万台あるかわからない、まさしくザ・耕運機ともいうべき基本的なタイプ。
ただ……駐車場を兼ねる納屋に飛び込んださくらの目の前にあったテーラーは、ロータリー部が取り外され、代わりに馬車と全く同じ構造の荷台が取り付けられていた。
言い換えれば、馬車の馬の代わりにロータリー部を外した耕運機が取り付けられているとも言うべき代物だった。
当然、運転席を含めた荷台部分にサスペンションなどない。
都会に住む人間は見たこともないかもしれないがそれは、農業地域の、主に年配層が好んで乗る移動手段、テーラー。
軽四トラックを使う程でもない、あるいは軽四トラックに乗れない場合に使用されるケースが多い。
公道を走るには小型特殊免許が必要だが……まあ実際問題、警察に検挙されたという話は聞いたことがない。 警察は何をやっとんねん。
さくらの目の前にあるのは、【遺跡】によく似た名前の、日本の農業機械メーカー製だった。
さくらは楽しそうにその御者台に飛び乗ると、クラッチを切ってから、右手をいっぱいに伸ばしてスタータースイッチを回した。 セルモーター付きとは……意外にも、リコイルやハンドル式ではない上位モデルであったらしい。
きっちりと整備されたエンジンは、セルモーターを一回回しただけで起動した。
基本的に農家の人間は、資格は持っていなくともエンジンの整備ぐらいは自分でできる。 あと溶接も。
ダッダッダッダッ……型は古いが、八馬力の頼もしいエンジン音と振動が、運転席のさくらの身体と声帯を振動させていた。
「し゛ゃ゛ー゛、し゛ゅ゛っ゛は゜つ゛し゛ん゛こ゛ー゛!」
それは古典芸能【ワレワレハウチュウジンダ】を軽く超える周期による変調だった。
そしてさくらは腕をいっぱいに使って大きなミッションレバーを操作してから、クラッチを繋いだ。
ベルトテンション式のクラッチのため、さくらの身体を一度がっくんと前後させてから、テーラーは発進した。
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「う゛わ゛ー、い゛い゛天゛気゛た゛な゛ー゛」
さくらは麦わら帽子の紐を締めながら、元気な声で呟いていた。
さくらを乗せた馬車モドキのテーラーは、エンジン音を響かせながら時速一二キロほどで農業用道路(農道)を走っていた。
これでもギアはトップギアである。
一応小型特殊車両は、最大時速一五キロ(農耕車両に限り三五キロ)の制限が付いているとはいえ……周囲を山々に囲まれたこの盆地の中を、それ以上の速さで走る意味はない。
ここはまさに、山を含む森の中を長い年月をかけて切り拓いて作られた土地であるらしかった。
住宅地を離れ、農道の両脇には用水路。
そして、見渡せる範囲は全部水田だ。
稲作中心の地域であるらしかった。
田植えの時期は大分過ぎ、青々とした稲が大きく丈を伸ばしつつある、そんな時期だ。
もう少ししたら、背負い式のエンジン付き散布機で農薬を散布する人が増えるだろう。
だが今は、割と広大な農地に人の姿は見えなかった。
当然、走っているテーラーも一台だけだ。
と……さくらの前方に、不意に人の後ろ姿が出現した。
農道から一段下がった用水路、それをしゃがんで清掃していたらしい。
さくらは一速に入れてから、そのままエンジンを切った。
「テンイのおばちゃん、こんにちわー!」
「あぁ、さくらちゃんかー。 今日も元気だねー」
さくらの元気な挨拶に、テンイのおばちゃんもまた笑顔で振り返っていた。
長靴に作業帽、かすり柄の完全防水のモンペという完全なる農業スタイルだった。
テンイのおばちゃんは、その笑顔を少し曇らせる。
「ふっ……おばちゃん、か。
私、まだ未婚の二〇代なんですけど……まあさくらちゃんにしたら私なんかおばちゃんか……。
……うう、こないだまで私、普通にOLやってたから、これくらい普通だったんですけど……ていうかこの歳で農業始めるなんて、思いもよらなかったんですけど……」
辛うじて二〇代のおばちゃんは視線を反らして静かにそう言うと、小さくため息をついてから、さくらに言葉をかける。
「で、どうしたの?
ああ、梶田さん……おじいちゃんにお弁当かあ。
さくらちゃん、えらいねー」
「うんっ!!」
頭を撫でられながら、さくらは元気にお返事していた。
「あのね、おじいちゃんね、いまね、カイコンしてるの!!
またむらにひとがふえてもいいように、そのぶんのとちをひろげないといけないんだって!!」
それはおそらく、こぼれ聞いた大人の会話をフィルターなしに伝えているのだろう……さくらの言葉に、テンイのおばちゃんは困ったような表情を見せた。
「……あはは……耳が痛いな。
私もここに入植した時はお世話になったからなぁ。
梶田さんにこの土地を貰って……余ってる土地だから気にすんなって言われたけど、後から聞いたらその分の土地を梶田さん、追加で別に開拓したらしいから。
まあ最初のうちは、初めての農業で、そんなことに気付く余裕もなかったけど。
ホント……頭が上がらないよ……」
そう言ってテンイのおばちゃんは顔を伏せていた。
「??????」
黙ってしまったおばちゃんを、さくらは心配そうに見上げていた。
その視線に気付き、テンイのおばちゃんは少し慌てたように取り繕った。
「あ、ああ、おじいちゃんは凄い人だって、そういう事よ。
そうそう、さくらちゃん、村の外れの開拓地に行くんだよね?」
テンイのおばちゃんの言葉に、さくらはおおきく、うん、と頷いた。
「じゃあ……危なくないように、私がおまじないしてあげるから」
そういうとテンイのおばちゃんは静かに目を閉じた。
すると……さくらの頭に伸ばしたままの手が、わずかに光を帯び始めていた。
「クラス【聖女】をアクティブへ……パッシブスキルを全開放」
その言葉と共に、光は……やがて目も眩むほどの勢いをもって周囲を照らしていった。
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二人の周囲には、光が満たされていた。
無言のままの二人……その周囲の空気が、急に神殿の中のように荘厳なものに変わってゆく。
周囲の虫の鳴き声や、水の流れる音が、急に遠くなっていた。
それは……御祓いか神事が行われているような、そんな厳粛さだった。
急に、神殿か神像の前に立たされたかのような……そんな錯覚さえ覚える。
そのまま彼女は、静かに呟く。
「クラス【聖女】のスキル一覧を展開。
【聖女の守護】を選択……防御力二五〇%上昇。回避率一七〇%上昇。全魔法耐性三〇〇%上昇。持続時間一時間。
【聖女の祈り】を選択……毒、麻痺、石化、魅了、気絶、病気、即死無効。持続時間六時間。
【聖女の祝福】を選択……幸運度一〇〇%上昇。ドロップ率一〇〇%上昇。日没まで有効。
【聖女の癒し】を選択……一〇秒ごとに体力一〇%自動回復。持続時間一〇時間。
選択したスキルを展開。
対象さくらに【奇跡】を実行する」
その瞬間……光は爆発するかのように一気に拡散し、そして……さくらの身体に吸い込まれていった。
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「……ふうう、こんなもんでいいかな?」
モンペを履いた【聖女】がそう言うと、さくらの頭に置かれたその手は急速に光を失った。
それに伴って……周囲の空間も元に戻る。
まるで神が降臨したかのような荘厳な空気から……ただの農業用道路へ。
静寂に包まれていた周囲に、いつの間にか虫の声や水の音が帰ってきていた。
それを確認してから、さくらはもう一度顔を上げ、にーっと笑顔を見せた。
「テンイのおばちゃん、ありがとう!!」
それは屈託のない……防御力二五〇%上昇、回避率一七〇%上昇、全魔法耐性三〇〇%上昇、毒および麻痺および石化および魅了および気絶および病気および即死無効、幸運度一〇〇%上昇、ドロップ率一〇〇%上昇のうえ一〇秒ごとに体力一〇%自動回復の、現時点でおそらく世界最強の幼女の笑顔であった。
悪意など微塵も見えない笑み。
それに、【聖女】ははにかんだような笑顔を見せた。
「まぁ……突然日本から異世界転移して、いつのまにか【聖女】なんてクラスを付与されて……この世界の神殿関係者に追い回されてたあたしだから、出来ることといったらこれくらいかな?
【聖女】……まあ農業に一切関わりがないんだけど。
けど。
私を【聖女】じゃなく……異世界日本人村、転移組の犀川洋子として平和に生きることができるようにしてくれた転生組の梶田さん……おじいちゃんには感謝してるから」
そう言ってテンイのおばちゃん、犀川はもう一度さくらの頭をぐりんぐりん撫でた。
「うーわー、やーめーてー」
笑いながらさくらは犀川の手から逃げる。
「あはははっ。
おじいちゃんがお昼、待ってるんでしょ?
気を付けていってらっしゃい」
「はーい!」
そう言ってさくらは、テーラーのエンジンを始動させた。
そしてそのまま、がっくんと走行を始める。
「い゛っ゛て゛き゛ま゛ー゛す゛!」
完全に両手を放し、運転席に立って振り返り、ブンブン手を振るさくら。 絶対あかん行為である。
その行動に……麦わら帽子が、頭の上から首の後ろ辺りまで滑り落ちる。
と……それまで隠れていたさくらの特徴的な形の耳元が露わになった。
ハーフかクォーターと思しき、少し短めのエルフ耳。
さくらのそれが、ピコピコと上下していた。
それを苦笑しながら見送る犀川は、その姿が見えなくなるまで手を振っていた。
やがて……犀川は、表情を真剣なものに改めていた。
そのまま、静かに呟く。
「ふむ……梶田さんと結婚したら、遺伝的にさくらちゃんみたいな元気な孫、セドリックさんみたいな美人さんの娘ができる訳か。
この世界じゃ珍しくないんだし……梶田さん、第二夫人とか募集してないかな……?」
【聖女】は静かに、そんなことをのたまっていた。
それはわりと、マジなトーンだった。