鍛冶屋アイダ&ウィウィ
アイダは憤っていた。
「クソッ、ザンクロウのアホがぁ!!」
ランタンのおぼろげな灯りが坑道を照らす中、振るわれるツルハシが光を鈍く反射して軌跡を描く。光を追いかけるように、採掘音が遅れて続いた。
「アタシャ、鍛冶屋だっつーの! 金属欲しいなら錬金術師に頼めやぁ!」
怒りと苛立ちを多分に含んだアイダの叫びが、坑道内に虚しく反響する。それでも、ツルハシを振り下ろす彼女の叫びは止まらない。
「鍛冶屋は金属ブッ叩くのが仕事であって鉱石掘り出すのが仕事じゃねーんだよぉ!」
「でも、姐さん。ザンクローが預けたお金、うっかり使っちまったのオイラたちだよ?」
怒りと共に掘削を続ける彼女の後ろから、小柄な狗人が声をかけた。小さな体躯と全身を覆うモフモフの毛もあいまって、その姿は二足歩行する犬を象ったぬいぐるみにも見える。
十代ほどの普人にしか見えない外見のアイダと並ぶと、まるでかわいらしい少女がぬいぐるみといっしょにいるかのような愛らしさであった。
しかしながら、彼女が握りしめているのはお花でもお菓子でもなく、無骨で重厚なツルハシだ。その道具を、アイダは見た目を裏切る豪快さで壁に叩きつける。
「んなこと分かってんだよ! 一番のアホは前金と勘違いして使っちまったアタシらだってことくらいはな!」
「じゃあ、ザンクローのせいにするのやめようよ」
「誰かのせいにしなきゃやってられっか!」
鍛冶職人である彼女たちがわざわざ迷宮に潜り、鉱石掘りに精を出しているのは、とある客の依頼が理由だった。
剣を一振り打って欲しい、というそれ自体はごくありふれた依頼だ。問題は、依頼人が材料となる金属の調達も同時に彼女たちに依頼したことであり、彼女たちが預かったその調達費を誤って使ってしまったことにほかならなかった。
「ずいぶんと気前がいいなとは思ったんだよ、ああ全く! あの時のお気楽な自分をぶん殴りたいね!」
金属を用立てるカネが無くなった以上、アイダたちが取れる手段は極めて限定された。
何せ組合を通して受理した依頼だ。知らぬ存ぜぬでは通らないし、相手が訴えれば普通に契約違反及び横領でお縄だ。事情を説明し謝罪しても、組合に睨まれれば商売ができなくなる。
何より職人としての矜持が許さない。引き受けた仕事をやり遂げずに何が職人だ。
「しかしそのためにまた冒険者の真似事する羽目になるとはね!」
「懐かしいね、姐さん。昔は開業資金貯めるためによく潜ってったっけ」
「思い出を懐かしんでる暇なんかあるか! とにかく目当ての鉱石掘り出すまで腕動かせ!」
地上で目的の金属は手に入らない。錬金術師に頼もうにも、あるいは冒険者に採取してきてもらおうにも、そのためのカネも無い。
ならば、道は一つだ。迷宮内部の鉱山に、自分たちで取りに行くしかない。護衛を頼む金銭的余裕もないので、二人だけでの強行軍で鉱石を採掘するのだ。幸い、二人にはかつて冒険者を名乗っていた時期もあった。鉱石のありそうな場所も、腕っぷしにも覚えがある。
一時的に鍛冶屋を休業してでも、鍛冶屋としての仕事を全うするのだ。矛盾するようだが、どんな手段を取ってでも引き受けた仕事を完遂するのが彼女の流儀である。流儀ではあるが……
しかしそれでも、悪態の一つぐらいつきたくなるというものだ。
「姐さん、いい方に考えようよ。道具も新調したんだし、きっとザンクローも満足する剣が打てるよ」
「ああ、そうだね! 鉱石探してもう何日もこの穴蔵で野宿してるっつう問題点さえなきゃね! 何せここときたら――」
「うわ!? 姐さん! 出たぁ!」
「ああもう言ったそばから!」
話を遮り、小柄な狗人は、ランタンの灯りがろくに届かない坑道の薄暗い一角を指差す。うんざりした表情を浮かべたアイダがその方向に顔を向けると、そこには壁から生える上半身のみの人影があった。
黒いローブのようなものを目深に被り、その顔は闇に包まれて判然としない。闇が渦巻くローブの隙間から伸びる手は細く、骨ばった指先から伸びる鉤爪が獲物を求めるように蠢いている。
亡霊である。
亡霊は壁を完全にすり抜けて全身を現わすと、ナメクジが這うよりは幾らか早い程度の速度で、宙を滑るように近づいてくる。
「ウィウィ、とっとと燃せ!」
「了解! 燃えろーっ!」
ウィウィと呼ばれた狗人が、肉球の上に小さな炎を灯らせた。燐寸ほどの大きさだった炎は、すぐに彼の頭を飲み込む大きさにまで膨張する。
手のひらの上で轟々と燃え盛る炎を、ウィウィは迫り来る亡霊に向けて解き放った。炎の奔流が坑道の闇を切り裂き、亡霊の虚ろな姿を赤く照らし出す。
「――――――――!」
激しい業火に襲われた亡霊は、声なき声で悲鳴をあげた。炎から逃れようと、空中で激しく身をよじる。
「火葬にされたくなきゃさっさと失せな!」
「もっぺんいくぞ! ホントだぞ!」
脅しを証明するように、ウィウィがもう片方の手に炎を宿し見せつける。亡霊は視線の読めない顔を二人に向けると、炎を恐れたのか身を翻して壁をすり抜け、その姿をくらました。
魔物が姿を消し、二人はようやく臨戦態勢を解く。
「ったく、亡霊に屍鬼に骸骨兵。そこかしこアンデッドだらけだ。何が『仄暗い坑道』だよ。墓穴の方がよっぽど似合ってるっつの」
アイダが面倒さを隠そうともしない表情で嘆息すると、ウィウィも手に灯した炎を振って散らしつつ賛同する。
「あいつら、いきなり出てくるもんね。やっぱり『結晶回廊』の方に行った方が良かったかな」
「いや、あっちはあっちで巨岩兵みたいな厄介なのが出るからね。簡単に追っ払えるだけ、こっちのがまだ楽だよ」
「巨岩兵は倒すまで追いかけてくるけど、あいつらは炎を怖がるもんな」
「あんたの炎の加護が頼りだ。任せたよ」
「任せろ! って言いたいとこだけど……姐さん、オイラそろそろお腹減ってきた……」
「だいぶ時間経ってるし、腹減ってきてもしゃあないね。そろそろメシにするかい?」
ウィウィがお腹をなだめるように手を当て、腹をさすりはじめる。その姿を見てとったアイダは、懐から時計を取り出した。針の位置を確認し再びしまいこむと、周囲を見回して転がっていた適当な石ころを手に取った。
アイダの種族は鉱人である。
外見上は普人によく似た種族だが、特徴がないのが特徴ともいわれる普人と比べ、鉱人には小柄で怪力という種族共通の特徴がある。さらに、男性は壮年、女性は少女の外見で容姿が固定されるため、鉱人の夫婦は全種族中で最も犯罪的な年齢差に見える夫婦とも言われるが、それは今は関係ない。
重要なのは鉱人と狗人に共通する、ある一つの特技である。
「ほら、メシ」
「ええー……また石?」
「我慢しな、手持ちの食料はもう尽きちまったんだから」
「じゃあ、仕方ないかあ……はあ、いただきまーす」
アイダが放り投げた石ころを受け取ったウィウィは、口を開けて石に噛みつく。ウィウィが食べ始めたのを確認してから、アイダも腰を下ろして自分の口に石を放り込んだ。
しばし、ガリゴリと咀嚼音にしては豪快過ぎる音が響く。
鉱石や金属の消化吸収。それがこの二種族に共通する特徴である。古くから洞窟や地下で暮らしていた彼女らの祖先は、日常的に鉱物を食べていた。その恩恵か、子孫の彼女らもまるでハードクッキーやロックケーキを食べる感覚で鉱石を噛み砕けるのだ。鉱人の歯は並の金属を凌駕する硬度を誇り、狗人の唾液は金属を軟化させる働きがある。
ただし、食べられるということとそれが美味しいというのは全く別の話である。
「ああ、相変わらずまずい……」
「うええ、口の中が金属の匂いでいっぱいだあ……」
もし、彼女たちと同じ体験をしてみたいならば、お手元に銅貨を用意し、口の中いっぱいに詰め込んでみればいいだろう。彼女たちのやるせない気持ちが幾らかでも味わえるはずだ。
独特の苦味は舌の上に残って不快感を醸し出し、鼻から抜ける金属臭は思わず顔をしかめたくなる。噛めば時たま口の奥で火花が散って、小指や肘をぶつけた時と似た痺れるような痛みが奥歯と歯茎に走り、舐め続けていると背筋に一過性の寒気も発生する。
金属の種類によって多少の味の違いはあるが、所詮は金属だ。鉄と銅の違いなど分かったところで、結局はどちらも金属でしかない。つまり、とにかく不味いことに変わりはない!
「ご先祖様が他種族の料理初めて食って、美味さで死にそうになったつうのも頷ける話だよ……当たり前だが、金属の味しかしやしない。不味い以外のなにもんでもないわ……」
「鉱石、早く見つかんないかな……もう、石やだよ……」
「ここまで難航するとはねえ……」
「姐さん、オイラそろそろお肉食べたい……」
「アタシだって野菜が食いたいよ……」
顔を見合わせ、二人は揃ってサビ臭いため息と弱音を漏らす。
悲惨な食生活に相当参っている様子である。食事とは毎日の活力の源だ、それが刑罰めいたものが続けば気が滅入ってしまうのも致し方ない。
「肉汁たっぷりのジューシーなお肉……カリカリに焼いたベーコン……パリッパリッの鳥の丸焼き……」
「やめな、余計に食いたくなる……」
「じゃあもう帰ろう? いったん帰ろうよ? 美味しいご飯食べてから、また来ればいいじゃない」
「賛成したいとこだけどね、そんな時間はないんだよ」
金属を採掘して終わりではないのだ。無事に持ち帰って初めて、そこから本業の鍛冶仕事が待っている。
地上までの往復にかかる時間を考慮すれば、食事のためだけに帰還する余裕ははっきり言ってなかった。
「いいかげん石以外が食べたい……そうだ! 次に骸骨兵が襲って来たら!」
「やめときな、それは」
相棒が魔物の骨を齧っている姿など見たくもない。屍鬼の腐肉を焼いて食う! などと言わないあたりまだマシなのかもしれないが――いや、マシか? どちらにせよマズイだろう、いろんな意味で。
基準が分からなくなりかけているあたり、彼女もだいぶ限界が近づいているようだった。空腹で倒れないように食事をしているのに、食事が原因で挫けそうになっている。いい加減にまともなものを食べねば、行動に支障をきたしかねない。
「背に腹は変えられない、か……しゃあない。ウィウィ、リュック取って来な」
「帰るの?」
「帰らないよ。中に干し肉が入ってるから、食いな」
「ホント!? いいの!?」
「食い過ぎんじゃないよ、帰り道の分なんだから」
喜び勇んでと表現するのがぴったりの様子で、服の隙間から垂れる尻尾をぶんぶん揺らし駆けていく相棒に、どこか微笑ましいものを感じてしまう。
本来なら帰りの行程のために残しておいた食料だったが、やむを得ない。どのみちまだ帰れないのだ。ならば、相棒の元気のもとになってもらった方がいい。彼の喜びようを見れただけで、それだけの価値はあったはずだ。
幸い、自分はまだ我慢できる。メシがわりの石を気合いで飲み込み、アイダは立ち上がった。不味いメシへの不満と自分の不甲斐なさへの怒りを原動力に変えると、ツルハシを強く握りしめる。
再び、客への恨み節十八番とともにツルハシを振り下ろそうとして――
「あっ!? おい待てドロボー!」
慌てた声に中断させられた。
「ウィウィ!? どした!?」
「あいつにリュック盗られた!」
「はあ!?」
返ってきた聞き捨てならない報告に驚いて、荷物を置いた場所に目を向けると、更に衝撃的な光景が飛び込んできた。
彼女らの荷物が宙に浮かんでいる。
いや、それは正しくない。正確には宙に浮く何者かの手によって、吊り下げられているのだ。坑道上部の闇に紛れるように潜んでいる、その手の主は――
「さっきの亡霊!?」
「おいコラ、返せ! もっかい燃やすぞ!」
浮かぶ荷物の下でウィウィが必死に騒ぎたてるが、亡霊は口元に不気味な笑みを浮かべるだけで彼に従おうとはしなかった。むしろ、騒ぐ狗人の手がギリギリ届かない位置を狙って浮遊しているようにも見える。
荷物を持っていれば、延焼を恐れて炎の攻撃はしないと考えたのだろう。実際、その考えは憎らしくなるほど当たりだ。荷物を取り戻したところで、それが灰になっていては意味がない。
まるで嘲笑うように亡霊はその場を旋回すると、荷物を手にぶら下げたまま坑道の奥へと飛び去っていってしまう。
「返せ! ドロボー!」
「待ちな、ウィウィ!!」
亡霊を追って駆け出そうとした相棒を、アイダは強い声で制止する。
「で、でも姐さん……荷物が……干し肉が……!」
「迷宮での単独行動は禁止だ。約束したろう」
「でも……でも……!」
うっすらと目を潤ませつつも必死に言葉を探すウィウィ。
そんな彼に近寄ったアイダは、その小さな頭をポンと叩く。
「行くなら二人でだ」
「! 姐さん……!」
アイダは憤っていた。
勘違いした自分の不甲斐なさに腹が立っていた。
目当ての鉱石が見つからないことに苛立っていた。
メシ代わりの金属の不味さに不満が溜まっていた。
時間が刻一刻と少なくなっていくことに焦っていた。
重苦しい空気の坑道に息が詰まっていた。
時間の区別なく突然出現するアンデッドたちに辟易していた。
それでもまだ、まだ我慢できていたのだ。
ウィウィが横で元気な声を出してくれるだけで、彼女はまだ耐えられていた。
それなのに、あの亡霊はいらぬちょっかいを出した。彼女の触れてはならない逆鱗に触れたのだ。
「あの亡霊がそんなにアタシらの憂さ晴らしの標的になりたいってんなら、その願い叶えて殺ろうじゃないか!」
アイダの顔は、とても凶悪な笑みに彩られていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「まったく、人様の荷物を何だと思ってんだか……うん、よし。中身は無事だね」
追跡の末、荷物を取り戻したアイダは手早く中身を確認していた。その動作に澱みは見られず、テキパキと進んでいく。
荷物泥棒の亡霊の姿はすでになかった。壁に立てかけられた彼女のツルハシにドス黒い染みが付着していることを考慮すれば、その末路はおのずと知れるだろう。
「さて、だいぶ奥に来ちまったね。迷わない内にさっきの場所まで戻るよ、ウィウィ――ウィウィ? 聞いてんのかい?」
「あ、ご、ごめん姐さん。ちょっと気になって……」
ウィウィは何かを確かめるように、あらぬ方向を向いていた。あちこちに首を巡らせては、時折、鼻をひくひくと動かしている。
「やっぱりだ、間違いない……!」
「どうした? 何か見つけたかい?」
「姐さん! こっちから美味しそうな食べ物の匂いがする!」
「なんだって?」
試しにアイダも鼻を動かしてみたが、ウィウィの言う食べ物の匂いとやらは感じられなかった。もともと鉱人と狗人では鼻の性能そのものに差があるが、そもそもここは迷宮内鉱山『仄暗い坑道』である。この場所にあるものといえば、冷たい鉱石と生きる屍、迷える魂の魔物だけだ。
とてもじゃないが、美味しい食べ物があるとは思えない。
(ウィウィももう限界か……諦めて地上に戻るのも検討すべきかね……)
相棒の身を案じた彼女は真剣に迷宮からの撤退を考え始めたが、当の相棒は真剣な顔でアイダの服をぐいぐいと引っ張った。
「あっちの方だ! ほら姐さん、行ってみよう!」
「ウィウィ、こんな穴蔵に食い物がある訳が……」
「絶対ある! オイラの鼻がそう言ってる!」
「ああ、分かった分かった。行くから、そんな引っ張るんじゃないよ」
根負けし、ウィウィに引かれるがままアイダは歩き出す。
さして期待もせず、むしろ食べ物が見つからず落胆するであろうウィウィをどう慰めるかと悩んでいたが、彼女の心配は杞憂に終わることとなった。
「何だい、こりゃ?」
無数に延びる坑道の一つ。ウィウィに引かれて入っていった穴の奥に、まるで人目から隠されるかのようにそれは置かれていた。
テーブルと椅子である。
家具の表面は滑らかで汚れはおろか土埃も一切乗っておらず、料理店にそのまま置かれていてもなんら違和感がなさそうだった。だが、ここは迷宮だ。その違和感のない綺麗さが、逆に大きな違和感を感じさせる。
「これだ! このテーブルからいい匂いがする!」
「はあ? ……ウィウィ、ちょっと離れてな」
怪しい家具を指差す相棒を見た彼女の頭の中で、ある光景が連想された。それは、植物が甘い香りで獲物を引き寄せる場面である。
いったんウィウィを遠ざけると、アイダは足元の石を手に取った。
食べるためではない、安全確認のためだ。彼女は手に握った石をテーブルへ向けて投げつけた。ゴン! と音を立てて命中した石が跳ねる。
しばらく様子を窺ってみるが、テーブルと椅子に何も変化は見られない。
「……どうやら、擬態魔物じゃなさそうだ」
宝箱などに化けた魔物は衝撃を与えると、途端に本性を現して襲いかかってくる。が、何の反応もないところを見ると本当にただの家具のようだ。近寄っても危険はないだろう、とアイダは判断する。
しかし、新たに疑問は生まれる。
「何で、こんなトコにこんなもんが?」
「分かんない。でも、このテーブルに美味しそうな料理の匂いが染み付いてるのはオイラ分かるよ。ほら、酒場のテーブルに酒と煙草の匂いがついてるみたいに!」
「ますます訳が分からないね。迷宮の中で飯屋が潰れた訳でもあるまいし」
話しながら、二人は何の気なしにテーブルに手を置いていた。
瞬間、彼女らの視界がぐにゃりと歪む。
「ッ!? ――ウィウィ!」
咄嗟にアイダはウィウィを引き寄せ、庇うように抱きしめていた。ぎゅっと目をつぶり、小さな相棒を決して離すまいと抱える腕に、さらに強く力を込める。
「あ、姐さん……苦しい……!」
どれくらいの時間が経過しただろうか。一瞬のようにも思えるし、随分長い時間が経ったようにも思えた。
辛そうな声を漏らす相棒に気づくと、アイダは腕の力を緩め、下ろしていた瞼を開く。
途端に目に入った景色に彼女は絶句する。そこには、別世界が広がっていた。
一言で言ってしまえば、そこは高級な料理店に見えた。
坑道に置かれていたテーブルとまったく同じものが等間隔に並べられ、その間の塵一つ見当たらない磨き抜かれた床に二人は座り込んでいた。ランタンの明かりと坑道の薄暗さに慣れきった目には、まぶしいと感じられるほどの確かな光が室内を照らしている。満ちる空気は土埃が舞う坑道とは比べものにならないほどうまく、店の奥から漂ってくる野菜が煮えるような匂いや香辛料の香りは否応なしに二人の食欲を刺激した。
「お客様」
事態がうまく飲み込めず呆気に取られていた二人に、声をかける者がいた。
黒を基調としたエプロンドレスを身に付けた女性だ。微動だにせず直立する彼女は、人形のような感情の見えない瞳で座り込む二人を見つめている。
「よろしければ、お席にお座りになってはいかがでしょうか」
「あ、ああ……」
「う、うん。分かった……」
思わず二人はその勧めに従って立ち上がると、手近なテーブル席に腰かける。
それを確認すると、ウエイトレスのような服装の女性は足音をいっさい立てずに滑るような足取りで店の奥へと下がっていった。ウエイトレスの姿が消え、ようやく頭がいくらか働き始めた二人は顔を見合わせる。
「あ、姐さん。オイラたち何でこんな場所にいるの? いつの間に外出たの?」
「アタシだって分からん。……いや、待て。ひょっとしたら、屍術師に幻覚でも見せられてるのかもしれん」
魔術を操るアンデッドの存在を思い出し、アイダは周囲を見回した。一度、そう考えると、なにもかもが怪しく見えてくる。
何か真偽を判別できるものはないかと注意深く視線を配っていると、目の前のテーブルに置かれたあるものが目についた。
編み込まれた木のバスケットだ。中にはフォークやナイフといった金属製の食器が納められている。彼女はその内の一つを手にすると、おもむろに口に含み――噛んでみた。
「不味ッ!」
「姐さん!? 何やってんの!?」
突然の奇行にウィウィが驚きの声を上げる。変わらぬ不味さにしかめっ面を浮かべながら、アイダは歯形のついた食器を取り出し、彼に示してみせた。
「試したんだよ。どうやら、アンデッドの幻って線はなさそうだ。この不味さは幻覚じゃないね。おまけに、見てみなよ。これ、本物の魔銀だ」
「魔銀? アンデッド殺しのあれ?」
「ああ、アンデッドが触れもしないこいつが当然のようにあるってことは――」
「お客様」
冷や水のような声が二人に降り注ぐ。
「食器をお食べになるのは、ご遠慮いただきたいのですが」
「あ……す、すまないね、つい。弁償するよ」
「構いません。以後、お気をつけいただければ結構です。それとも、金属の食事をご所望ですか?」
澄んだ水の注がれたコップと水差しを置きながらウエイトレスが続けた言葉に、二人は戦慄した。思わず否定の言葉が口をついて出る。
「やだ! オイラもう金属やだよ!」
「アタシだってお断りだよ。美味い野菜が食いたいもんさ」
「オイラはお肉が食いたい!」
「かしこまりました。少々お待ちください」
瞳と変わらぬくらい感情の無い表情のまま下がろうとするウエイトレスを、アイダは慌てて引き止めた。
「なあ、ちょっと待ってくれよ。ここはいったいなんなんだい」
「料理店ですが」
「そうじゃなくてさ、アタシらはさっきまで迷宮にいたんだよ。それなのにどうして――」
「テーブルに触れたのでしょう?」
「はあ? いや、そりゃ触れたけどさ、それがいったい――」
「あれは御主人様がお作りになられたもので、触れた方はここに来店する権利と食事ができる権利を授かります」
「いや、アタシら元いた場所に用があってさ」
「退店の際、お客様が触れたテーブルが置かれている地点にお戻りいただくことは可能ですが」
「戻れるってことか?」
「ですから、そう言っています。では、少々お待ちください。すぐにご注文の料理をお持ちしますので」
それで言うべきことは済んだとばかりに、ウエイトレスは立ち去ってしまった。
残された二人は、再び顔を見合わせる。
「姐さん、どういうこと?」
「分からんね。どっかの魔術師様が道楽で、迷宮に転移魔導具でも置いたんじゃないか?」
置かれた水を口に含みつつ、アイダは答えた。投げやりな考えだったが、むしろそう考えた方がしっくり来るかもしれない。
話を聞く限り、テーブルは転移の魔術が込められた魔導具のようだった。そんな貴重品を、わざわざ迷宮に放置する理由が思いつかない。まだ、暇を持て余した隠遁魔術師が戯れに魔導具を置いて、料理店を開いたとでもいう方がいくらか納得できる。
「う~ん……いや、オイラもう何でもいいや。とにかく、ここは料理屋さんなんでしょ?」
「そうらしいね」
「じゃあ、ちゃんとしたご飯が食べられるんだよね?」
目を輝かせながらたずねるウィウィの可愛らしさに、いったい誰がいいえと言えようか。いや、言えるはずがない。
アイダは苦笑しながら頷いた。
「さっき注文しちまったみたいだしね。せっかくだ、ご馳走になっていこうじゃないか」
「やったあ!」
椅子の端から覗く尻尾がパタパタ動く様が見て取れる。
あまりにも分かりやすい様子に、アイダは口の端に笑みを浮かべつつ何気ない仕草でメニューを手に取った。
(……うん。パッと見たところ、目ん玉飛び出るような値段って訳でもなさそうだ)
魔銀製の食器を常備しているなど、もしやとんでもない高級店かと疑ったが、メニューに並んだ料理名の横に書かれた金額はどれも手頃なお値段だった。
少なくとも、あとで高額請求される心配はないだろう。安堵したアイダがメニューを元の位置に戻すのとほぼ同時、料理の皿を持った二人の人物が店の奥から姿を現わした。
「お待たせしました、お客さん。こちらがご注文の料理になります」
そう言ったのは、白いコックコートを着用した料理人らしき人物だ。その人物と先ほどのウエイトレスが、アイダとウィウィ、それぞれの前に料理を配膳していく。
「こちらに木製の食器もあるので、よければどうぞ。では、ごゆっくり」
そう言って料理人たちは後ろに下がったが、客の二人はそのことにろくに反応もできなかった。
なぜなら、アイダとウィウィの視線は目の前に置かれた皿に、あっという間に釘付けにされていたからだ。平皿には柔らかそうなパンが置かれ、深皿にはなみなみとつがれたスープの水面が揺れている。木製のボウルには、みずみずしい野菜のサラダがたっぷり盛り付けられていた。
見ているだけで、口の中に唾がわき出てきて止まらない。
「…………」
ウィウィが無言で、アイダを見つめた。
「…………」
アイダも無言で、頷いた。
次の瞬間、「がっつく」という表現の見本を見せるようにウィウィが料理を食べ始める。
アイダもパンを取り上げ、思いっきりかじりついた。
(ああ、やわらかい……! ふかふかで、甘くて、もちもちしてて……! 当たり前だけど、石ころとは大違いだ……!)
パリッと焼けたパンは歯を押し返す弾力があるが、噛みちぎれば口の中で、もちもちした食感があとを引く噛みごたえを与えてくれる。固いだけでもやわらかいだけでもない。もちもちのクセになる食感だ。
加えて、ほんのりと感じられる塩味が、不思議とパンの素朴な甘みを強調させた。
飲み込むのに気合いを入れる必要もない。もちもちした食感が実に楽しく、逆に飲み込んでしまうのをもったいなく思ってしまうほどだ。
一口、また一口とアイダは休みなくパンにかぶりつく。このパンなら、いくらでも食べられそうだった。
(やっぱり、まともなもん食べなきゃダメだね……美味い食事のありがたみってやつがよく分かる……!)
次に、サラダに手を伸ばす。
フォークに突き刺した鮮やかな緑の葉野菜たちは、収穫したばかりのような新鮮さで、口に入れればシャキシャキと音を立てて、滋養を含んだ水分が口内を満たし、潤していく。野菜特有の苦味と清涼さ、そして野菜全体にまんべんなくかけられた、すっきりとした酸味の強い液体がそれらを一体となって感じさせていた。
時折、アクセントのようにカリカリとした小さな食感が混じる。小指の爪ほどの大きさの小魚をさっと揚げられたものが野菜に混ぜ込まれていた。舌の上に乗れば野菜でさっぱりした舌に油をまとった小魚がその存在感を色濃く主張し、野菜と共に歯で噛み砕けば、野菜単体とは異なる別の食感を奏でてくれる。
咀嚼し、飲み込むと、感じた味はすぐに消えて、あとに残るのはすっきりとした爽快感だけだ。
迷宮に潜ってから久しぶりに味わう新鮮な大地と海の恵みを、アイダはただただしっかりと堪能する。
(そして……こっちの料理!)
深皿によそわれた琥珀色の澄んだスープには、薄く切られたキノコと一口大のトマトがいくつも浮かんでいた。深皿の中央には、透き通った緑の葉に隙間なくくるまれた俵形の肉が二つ、堂々と鎮座している。立ちのぼる湯気と香りは、アイダの食欲と期待をどんどんと加速させていった。
アイダは形が崩れないように気をつけながら、スープから葉にくるまれた肉をすくいあげると、大口を開けてかぶりついた。
しっかりと煮込まれ柔らかくなったキャベツの葉は力を入れると簡単に噛み切れ、薄い緑の幕で守られた中身に歯が届く。挽き肉をこねて作られた中の肉を、巻きついたキャベツの葉といっしょに口いっぱいに頬張った。切り離されたキャベツの葉は徐々に口の中でほぐれていき、噛むたびに肉は崩れて、あとからあとから旨味をともなった熱い肉汁が溢れ出してくる。スープがしみこんだキャベツの葉と肉が口の中で境界線をなくして混ざり合い、調和して生まれる味がたまらない。
いまこの瞬間、アイダは確かに幸せを感じていた。美味しい料理を食べる。これほどまでに幸せを感じる瞬間が他にあるのだろうか。採掘時の食事とも言えない悲惨な食事とやるせない気持ちを思い出して、彼女はなおさらそう感じた。もぐもぐと咀嚼し、わきあがる幸せに身を浸す。
(ああ、美味い……そうだよ、食事ってこういうもんだよ……)
スプーンですくった温かいスープを口に含むと、溶け出した肉の旨味とキノコの旨味が生み出すコクが口いっぱいに広がった。スープに浮かぶキノコは煮込まれてやわらかく、だが弾力があり、独特の食感が心地良い。トマトは力を入れるまでもなく舌の上で形を失い、食を後押しする酸味を醸し出す。ごくりと飲み込むと、旨味の中にわずかに薫るトマトの酸味が鼻からすっと抜けていった。
あとを引くスープの美味しさに、スプーンですくうのがまどろっこしくなってしまったアイダはたまらずに器を持ち上げると、直接口をつけてスープを飲み始める。視界の端では、ウィウィも同じように器を持ち上げて飲み始めているのが見えた。
喉を通り抜け、胃におさまったスープはアイダの身体を内側からあっためていく。まるで心が休まるような、とても優しい味だった。
器を傾け、残ったスープを最後の一滴まで完全に飲み干すと、彼女は満ち足りた気分で器を置いた。
(ああ……美味かった……!)
ほう、と息を吐けば、まるで魂も同時に抜け出ていってしまいそうな、幸せな充足感にアイダは包まれる。
目の前で同じようにスープを飲み干して、幸せそうな笑顔を浮かべるウィウィも、きっと同じ気持ちだろう。
「姐さん、オイラこんなに美味しいご飯はじめてかも……」
「ああ、アタシもだよ……」
それから少しの間、二人はその幸せな感覚の余韻を名残惜しむように、座ったままだった。
二人は何も喋らず、他に店を訪れる客もない。場に満ちたゆったりと流れる時間は居心地がよかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――はい。では、お代は確かにいただきました。セレステ、お客さんがお帰りだから送ってきてもらえるかな」
「かしこまりました。お客様、どうぞこちらへ」
無表情なウエイトレスが料理人――支払いの時に聞いたが、実はこの店の主人らしい――にうやうやしく頭を下げてから、アイダとウィウィをいざなって歩き出した。
おとなしく後ろに続くアイダだったが、ふと立ち止まり、振り返る。
「ちょっと聞いてもいい?」
「何ですか?」
「あんた、何で迷宮の中なんかに店の出入り口置いてんの?」
「まあ、趣味ですかね」
「趣味って……まあ、いっか。また、食べに来てもいいかい」
「構いませんよ、いつでもどうぞ」
店主との話を終え、アイダは前を向いたが、すでにウエイトレスとウィウィはドアを開けて店の外に出ていってしまったようだった。二人を足早に追いかけ、ドアをくぐり抜ける。
辺りはすっかり暗くなってしまっているようで、周囲の景観は判然としない。空に月の姿は見当たらず、無数に煌めく星明かりだけが頼りだった。少し離れたところに立っている二人に向かって、アイダは歩を進める。
(もう夜か――ん? いや待て。今、何時だ?)
何か引っかかるものを感じ、アイダは時計を取り出した。迷宮に長くもぐっていると時間感覚がズレていくため、地上の時間と同期させた時計は冒険者の必需品だ。
その必需品が指し示す現在の地上の時間は――
(今、地上は真昼のはずだろ!?)
まさか時計が狂っているのか、と反射的に空を仰ぎ――そこで彼女はようやく気づいた。
空で輝く無数の星の配置。そのどれもが、自分の知るものとは全く違うことに。
(いや、そもそもあれは本当に星か……!?)
鉱人であり、鍛冶職人でもある彼女は知っている。
伝説と呼ばれる金属には、闇の中で自ら光を放ち神秘的に輝くものがあることを。そして、迷宮見聞録によれば、著者であるドラン以外にまだ到達した者がいない深い階層に、伝説の金属がまるで満天の星空のように階層の天井で光り輝いていた、という記述があったことを。
てっきりこの店は地上にあるのだとばかり思い込んでいたが、まさかここは迷宮の深層なのか――?
「姐さん? どしたの?」
上を見上げたまま固まってしまったアイダを不思議に思ったのか、ウィウィが彼女のもとに近寄ってくる。数歩離れて、無表情なウエイトレスも近づいてきた。
「いや……単に、上見て驚いてただけさ」
「ああ、確かに! 絶景ってやつだもんな!」
おそらく、自分の勘違いだろう。アイダはそう結論づけた。
件の深層には伝説の金属だけでなく、伝説的に凶悪な魔物も出現するはずだ。そんな危険な場所で料理店など営めるはずもない。それこそ、他の魔物を蹴散らす圧倒的な力でもない限り。
「もうそろそろ、お帰りの説明をしてもよろしいでしょうか」
話す二人に、我関せずとばかりに表情の乏しいウエイトレスは割り込んだ。彼女はアイダとウィウィに、ある箇所を指し示す。
そこには、料理店にあったものと寸分たがわぬテーブルと椅子が置かれていた。上空からのわずかな光に照らされ、暗闇の中、白く浮かび上がっているようにも見える。
「お座りください」
「ここに?」
「はい」
アイダは予感めいたものを感じつつも、ウエイトレスの指示通りに、ウィウィといっしょに腰かけた。
その瞬間、やはりという確信と共に視界がぐにゃりと歪む。
――倒れる。そう感じて、反射的にテーブルに掴まった時には、二人はもう見慣れた場所に戻っていた。
暗く、重苦しい空気が立ち込め、死に囚われた魔物たちが蔓延る坑道だ。蟻の巣のように伸びる無数の穴、その内の一本に隠された場違いなテーブル席に二人はいつの間にか座っていた。
転移が無事に終わり、アイダは安堵の息を吐く。
「なるほどね。こっちのテーブルに触ると、あっちの店に飛ぶ。あっちのテーブルに触るとこっちに戻るってとこか」
「なんかすごい不思議な店だったね、姐さん。オイラまるで夢でも見てた気がするよ」
「じゃあ、眠気覚ましにこれでも食べるかい?」
見慣れすぎて嫌になってきている場所に確かに戻ったことを確認し、アイダは足元からこれまた見慣れすぎて嫌になってきている物体を拾い上げると相棒の鼻元につきつける。
石ころという名の悪夢の物体を目にしたウィウィは、途端に顔をくしゃっと歪めてしまった。
「やめて姐さん! そんなの見たくない!」
「はは、じゃあとっとと行くよ。また腹が減らない内に、目的のもん見つけないとね。不味い食事ばっか食ってたら、心が折れて目的見失っちまうからね」
アイダたちは立ち上がり、テーブルの隠されていた坑道をあとにする。
道中、迷いかけながらも採掘途中だった場所まで戻ると、アイダは早速愛用のツルハシを握りしめた。
特に何か事態が好転したわけではない。またアンデッドが襲ってくるかもしれないし、目当ての鉱石は見つからないかもしれない。
それでもアイダの心は晴れ渡り、目指す先を思い出していた。
「さて、さっさと見つけて本業に戻るとするかね!」
気合いを込めて、アイダはツルハシを振り下ろした。