測量士ユニ
ユニは途方に暮れていた。
上を仰ぎ見れば、自分が落下した穴が爪ほどの小さな点に見える。下を覗き見れば、騎士の突撃槍を思わせる石筍が数えるのも嫌になるぐらい無数にそびえ立っていた。幾つかの石の槍に白骨がぶら下がっているのは、つまり、そういうことなのだろう。
ユニよりも不運な落ち方をした、顔も知らない先輩たちだ。彼女が落下途中で岩棚に引っ掛かったのは、運が良かったとしか言いようがない。
だが、幸運もそれで尽きたのかもしれない。
妙に滑らかな岩壁に背を預け、ユニは足を抱えて座り込む。
壁から張り出した岩棚には横道などという気のきいたものはない。
壁をよじ登ろうにも、水底の石のように滑らかな壁面は掴まる箇所もほとんどなく、足をかけるのも難しい。同じ理由で下りるのも不可能だ。ロープなどの道具類は落下時に運悪く取り落としてしまった。今頃は石筍のどれかに串刺しになっているだろう。
つまり、脱出手段はない。
そして何より、
「お腹、空いたな…………」
キュルルル、と可愛らしい音が響く。彼女の胃袋が空腹を訴える音だ。腹の内側をゆるくねじられるような、痛み未満だが決して無視できない生理的要求が彼女の身体を苛み「今すぐ何か口に入れろ」と騒ぎ立てる。
魔物を撤いてから食事を取ろうとしたのが失敗だった。まさか逃走中に落とし穴に引っ掛かり、食料を含めた荷物全てを失ってしまうとは。魔物からは逃げられたが、命の危機は形を変えてゆっくりと迫ってきている。
「これじゃ、死に方が餓死に変わっただけだね……」
あいにくと、近くに餓えをしのげそうな植物はない。偶然、近くを通りかかった別の冒険者に助けを求めることも期待できない。落とし穴中腹のバルコニーなどという場所で誰かに出会うことなどまずないし、もし別の冒険者に出会ったなら、それは自分と同じ罠に引っ掛かった間抜けということだ。
何より、彼女がいるこの場は迷宮の未踏破地域。誰かと出会う確率など低いし、助けてもらえる確率など更に低い。
一口に冒険者といっても、その種別は多岐に渡る。例えば、魔物を狩る者、資源を採取する者、迷宮を調べる者、あるいはそういった者たちを相手にする者など様々だ。
ユニは測量士――迷宮の未踏破地域を探検し、得た情報から地図を作成することを主な生業としている。その職業上、どうしても活動場所は攻略ルートの確立していない場所ばかりになる。
十分な情報の揃っていない未踏破地域を好き好んで歩くものなど、魔物目当ての戦闘狂か一攫千金を目指す冒険者、あるいはユニの同業者ぐらいだろう。
未踏破地域の情報は金になる。そして、情報は知る者が少なければ少ないほど価値が上がる。
その前提条件を踏まえて考えれば、困りはてている競合相手を助けるお人好しなどいるだろうか?
「いるわけない」
断言できる。彼女も駆け出しの頃に痛い目にあったことがある。
基本的に、迷宮で慈善や情けは期待出来ないしするべきでもない。
「それでも、仲間の一人や二人は雇えば良かったかもね」
組合に仲介を頼んで契約を交わせば、報酬という絆で結ばれた仲間は出来る。もっとも、ユニの場合は危険地帯を探索する仕事。その分、仲間に支払う報酬は高額となっただろうことは容易に予測出来る。
何より、ユニにはある目的があった。夢、と言いかえてもいい。そのために、彼女は迷宮の未開地を歩く測量士の職に就いている。
他の冒険者が聞けば十中八九「頭おかしいんじゃないの」と言われかねない目的だ。話したところで理解など得られないだろうし、狂人扱いもごめんなので祖父以外の誰にも話したことはなかったが。
「結局、叶わなかったわけだけど」
自嘲気味に呟くと、ユニは懐から一枚の紙片を取り出した。折り畳まれたそれを開けば、紙面には驚くほど詳細な地図が書き込まれている。
肌身離さず身につけておいたおかげで、難を逃れた大事な仕事道具だ。
祖父から受け継ぎ、自身も書き込みを加え続けたこの魔導白地図は、ユニの冒険の成果そのものだ。地図にはまだ誰も知らない貴重な情報も記されている。
――遺書でも残しておこうか。
自らの軌跡とも言える地図を見つめ、ふと、そんな考えを思い付く。
ひょっとしたら、遺品回収屋か罠師あたりが自分を発見してくれるかもしれない。その時、自分は死んでいるかもしれないが「遺書を届けてもらえるなら、所持品や情報は好きにして構わない」と一筆残しておけば、手癖の悪い相手にいきあたっても幾らか安心の余地はある。
「……ん?」
地図を片付けようとして、彼女はそれに気がついた。じっと食い入るように地図を見つめる。
「ここ――空洞がある?」
魔導白地図には、所有者が歩いた箇所とごく周辺の地形を自動で記録する機能がある。
ユニが壁際に座り込んだことにより、白地図の効果範囲に入ったのだろう。彼女の背後に不自然な空間が存在することを教えていた。
「まさか、隠し通路!?」
色めきたったユニは立ち上がり、壁を探り始める。
迷宮には隠された部屋や秘密の通路も少なくない。もし、その類いのものが見つかれば、まだ脱出の希望はある。果たして、彼女の手は岩壁の小さな窪みに隠されたスイッチのようなものを探り当てていた。注意を払いつつ、押し込むとわずかな振動とともに岩壁が口を開ける。
「やっ――!? ……ああ、そう。そこまで甘くないよね」
希望の声が、すぐに諦めの色に塗りつぶされる。
岩壁の奥には確かに空間があった。だが、どこにも繋がっていない閉じられた隠し部屋だ。人工的に整えられたかのように一切の歪みもない壁に囲まれた、正方形の部屋である。殺風景な部屋の中央には、なぜかテーブルと椅子が一脚だけ置かれていた。
隠し部屋に立ち入ったユニは、罠の有無に注意しながら歩を進める。念のために地図を眺めながら壁際を歩くが、今回は空洞は見受けられなかった。仕掛けのスイッチらしきものも発見できない。
いくら調べてみたところで結果は変わらなかった。この部屋は行き止まりだ。
絶望からどっと疲れが増し、再び胃袋が空腹を訴えてくる。
テーブルと椅子も調べてみたが、何の変哲もない。ひょっとして擬態魔物かとも思ったが、どこの料理店にでも置かれていそうな普通の家具だった。塵も埃も積もっていないのが少し気になったが、余程この部屋の気密性が高かったのだろうと納得する。
「神様ってタチ悪いね……下手に希望を与えないでよ……」
この迷宮を創り出したといわれる神へ恨みの念を送るユニ。
期待からの反動は大きく、空腹はいや増すばかり。立っているのも億劫になり、椅子に深く座り込む。
「ああ……お腹、空いたな……」
そう呟いた次の瞬間、ユニの視界がぐにゃりと歪んだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――これは走馬灯だろうか。
幼い自分が祖父と楽しそうに話している。
『お祖父ちゃんお祖父ちゃん、もっとお話しして!』
『おお、いいとも。では何を話そうかの』
幼い自分はことあるごとに祖父に迷宮の話をせがんでいた。腕利きの測量士であった祖父は、顔をほころばせて孫に冒険譚を語ってくれたのだ。
祖父が語ってくれる話の中でも、幼いユニの心を特に掴んだのは迷宮に棲む魔物の話だった。
『じゃあ、体ぜんぶが金ぴかのドラゴンがいるの?』
『おお、そうじゃ。鱗の一枚一枚、尻尾の先に至るまで、溶かした黄金から創られたようなドラゴンじゃよ』
『ふああ……!』
魔物といえば一般的には恐怖と畏怖の象徴だが、祖父が語る伝説の魔物たちは恐ろしくも美しく、幼いユニを虜にしていった。
『その黄金竜は、三従者と呼ばれる伝説の魔物の内の一体でのう』
『さんじゅーしゃ?』
『迷宮の支配者、造物主の直属の眷族をそう呼ぶのじゃ』
『ちょくぞく……けんぞく……』
『ああ、難しかったかの。ようは凄い神様の家来じゃな』
『ふああ……!!』
すごい神様の家来。つよくて、かっこよくて、とてもきれい。
なんともフワフワした感想だったが、当時、祖父の説明の一語一句に興奮したことをユニは覚えている。
『ダンジョンってとこには金ぴかのドラゴンさんがいっぱいいるの!?』
『いやいや、黄金竜は一体だけじゃ。もちろんワシらが知らんだけで、迷宮の奥深くには別個体がおるかもしれんがの。少なくとも、人が遭遇した黄金竜は宝物宮に住まう個体のみ。それに見聞録の記述からも、どうも一体だけしかおらんようじゃしなあ』
『そーなんだ……じゃあドラゴンさんはひとりぼっちなんだ……』
『うむ。しかし、寂しくはないじゃろうな。仲間がおるからの』
『なかま?』
『三従者は三体おってな。黄金竜のほかにもうあと二体、氷翼の大鷲と空鋼の自動人形というのがおる』
『おおわしと、じどーにんぎょう?』
『その二体は、ワシも直接出会ったわけではないがのう。例えば、氷翼の大鷲は向こう側の景色が見えるほど透き通った美しい氷の翼を持つ、大型の鳥の魔物という話でな――』
そう前置き、祖父が語ったのは黄金竜に負けず劣らず、強く、美しく、恐ろしい、けれど幼いユニの心を惹き付けるには十分過ぎる程、魅力的な魔物たちの話だった。
『ふああ……!』
『もともと三従者は迷宮の最深部まで到達した始まりの冒険者に、造物主が褒美として下賜したものとも言われておる。その彼らがなぜいまだに迷宮におるのかは、迷宮学者たちの間でも意見が分かれとってな。ドランが彼らを下僕の任から解放し自由にしたからとも、今なおドランに忠誠を誓い迷宮を守護しておるとも――ん?』
『かし……? かし…………、おかしのこと?』
『ああ、うむ。小難しい話はやめて、パンケーキでも食べるかの』
『食べる!』
ユニは祖父のお話が大好きだった。
ユニの知らない、わくわくどきどきするお話を山ほどしてくれた。時々まだよく分からない難しい言葉も出てくるが、祖父はわかりやすく説明してくれたり、時にはおやつのオマケを出してくれたものだ。
やがて、幼い孫が祖父に宣言するのにも、そう時間はかからなかった。
『わたし、さんじゅーしゃに会ってみたい!』
『無茶なことを言うもんじゃのう。一夜で国一つを滅ぼした伝説すらある魔物じゃぞ。危険じゃし、氷翼と自動人形はそもそも目撃例そのものも少ないしの』
『でも見たいもん。それにドランって人は会ったんでしょ?』
『そりゃそうじゃが。ドランは百年以上昔の人物じゃぞ、まだ冒険者という職業も組合も無かった時代にたった一人で迷宮を攻略した天才じゃ』
『じゃあわたしも天才になる!』
子供ゆえの恐れ知らずで、ユニは自身の夢を祖父に語った。
『わたし、大きくなったらぼーけんしゃになる! それでダンジョンに行ってさんじゅーしゃを見つけるの!』
思えば、祖父とのお話が冒険者を目指すきっかけだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――さん? お客さん、大丈夫ですか?」
声をかけられ、ユニは自分がテーブルに突っ伏していることに気がついた。慌てて顔をあげると、目の前には白いコックコートを身に付けた人物が立っている。
「ああ、よかった。先ほどからずっと動かないままだったから、怪我でもしてるのかと」
「いや、うん……怪我は大丈夫……」
――自分は意識を失っていたのだろうか。
だとしたら、とんでもない夢を見たものだ。迷宮で遭難する夢など、縁起が悪いにもほどがある。
「よかった。じゃあ、ご注文が決まったらまた伺いますので」
「あ、ああ、ちょっと待って……」
起こされた気恥ずかしさを誤魔化すように、ユニはテーブルに置かれていたメニューを開いた。急いで内容を流し読み、料理の名前が羅列された中から、目を引いた一つを指差す。
「えっと、これ、もらえる?」
「分かりました。少々お待ちを」
一礼し、調理場とおぼしき奥へと下がるコックコートの人物。
注文を終えたユニが改めて周囲を見回してみれば、彼女がいる場所は、夢の中の殺風景な隠し部屋とは比べるべくもなかった。
室内には木目調のテーブルが規則正しく並べられ、整然とした美しさを感じさせる。壁にあつらえられた古風なランプから硝子製のシェードを通して優しい光が店内を満たし、どこか懐かしい雰囲気を醸し出していた。
店の内装と先ほど速読したメニューの中身から、どうも自分は料理店で眠りこけていたらしい、とユニは判断する。
「でも、この店見覚えないな……」
普段利用する店でもなければ、利用してみようと思った覚えもない店だった。
新しくオープンした店や偶然見つけた店を新規開拓することは時々あるが、入店した記憶もなければ、注文もせずに椅子に座って早々に眠りこけるなど初めての経験だ。
「だとしたら、相当疲れが溜まってるのかも……」
だから、あんな夢を見たのではないか? とユニは自問する。
夢で良かったが、もしもこの体調で本当に迷宮に潜っていたらと思うとぞっとする。悪夢が正夢になっていたかもしれない。それにしても、妙に現実感のある夢だった。感じた絶望と空腹感など、まさしく本物としか――
――キュルルル
夢の中で空きっ腹を抱えて途方に暮れていたことを思い返していると、まるで呼応したかのように腹の虫が騒ぎ出した。反射的にユニは腹に手を当てたが、幸いにして店内には自分以外に客はいない。
「そういえば、お祖父さんの話聞いてた時もたまにお腹鳴らしてたっけ」
もう一つの夢の内容を思い出す。いや、夢というよりも、正確に言えば過去の記憶の再生といった方が正しい。
幼いユニが、祖父にお話をせがむというものだった。その末に、祖父にした宣言もしっかり再現されていた。
「我ながら、とんでもないことに憧れたね」
三従者を見つける。伝説の魔物の姿をこの目で確かめる。
それが、ユニが迷宮に挑む理由だ。仲間をつくらないのも同じ理由。本来、冒険者という職は魔物などの危険を出来るだけ回避しようとする。ユニの場合は逆だった。迷宮で一、二を争う危険な魔物に自ら会いにいこうとする奴についていく冒険者などいない。事情を隠したまま付き合わせるのも気が引けた。
測量士になったのも、必要に駆られてのことだった。
ユニが冒険者を名乗れる年齢になった時、三従者で明確な住処がはっきりしているのは黄金竜だけだったが、未だに出会うことは叶っていない。黄金竜の棲む宝物宮は、組合によって立ち入りを制限されていたのだ。
財宝の守護者の異名を持つ黄金竜は、自らの根城から宝が失われることを極度に嫌う。かつて、宝物宮に攻めいって財宝を強奪した軍隊が国ごと一夜にして滅ぼされた話は冒険者なら誰もが知っているほどである。だが、そんな分かりやすい教訓があるにも関わらず、視界を埋め尽くす金銀宝石を見ると容易く欲望に身を任せてしまう者が多いらしい。
その証拠に宝物宮までの攻略ルートが確立されると、黄金竜の怒りの咆哮が迷宮を震撼させ、盗人を追いかけ猛威を振るう事態が頻発した。そしてとうとう、黄金竜を無為に刺激しないよう組合によって宝物宮に通じる道は完全に封鎖されたという訳である。
困ったのは、純粋に黄金竜目当てだったユニだ。
「黄金竜に出会うことに比べたら、財宝なんて銅貨一枚分の興味もないのに」
だが、信じてもらえる訳もない。
やむなく、ユニは合法的な実力行使に訴えることにした。現状、宝物宮までの道は完全に封鎖されている。けれど、未発見の新ルートを発見すればどうだろう? 偶然、宝物宮までの新しい道を発見できれば最初の一回はあくまでも合法的に侵入できる。加えて、未知の領域を調査する過程で他の二体の情報も手に入るかもしれない。
幸い、祖父譲りの才能はあったのだろう。『九十九物語の丘』までの攻略ルート確立や『不迷の森』に隠されていた階層跳躍点の発見など、それなりの功績を残し、数年が経過する頃には測量士ユニの名は迷宮関係者の間で徐々に知られるようになっていった。
ただし、
「肝心の手ががりはゼロ、か……」
依然として、当初の目的は果たされていない。
宝物宮への侵入ルートは見つからないし、神出鬼没な氷翼は遭遇した冒険者をことごとく壊滅させるので情報が全く集まらない。自動人形にいたっては実在が疑われるほどに目撃例が皆無である。
いっそ諦めてしまえば、どんなに楽だろう。叶わなくて当然の夢であり、叶ったところで得などないのだ。魔物に殺される危険性を考えれば、むしろ損しかない。ユニ自身も時々、なぜこんなにも執着しているのか分からなくなる時がある。
きっと、こういうのは理屈じゃないのだ。
普通は成長とともに夢を諦め、妥協する。だが、ユニはなぜか妥協できなかった。その『なぜか』が彼女を突き動かすのだ。本人にもうまく説明出来ない『なぜか』が。情景とか羨望とかあるいは衝動とか、おそらくそういった言葉で表現されるであろう『なぜか』は幼い頃から今に至るまでユニの心と身体を震わせ、興味と好奇心をかきたてさせる。
けれど、たまには報われたい。ささやかでいいから、ご褒美が欲しいと思ってしまうのはワガママだろうか。散々苦労して、手ががり一つなしというのはいくらなんでも辛すぎる。
気晴らしに、彼女はメニューを開いて、頼んだ料理の名前を見つめていた。
それは幼い頃に、特に祖父との会話中によく食べた料理だ。お話に興奮して体力を使ったのか、それとも難しい言葉を幼いながらも理解しようと頭を高速回転させた結果か、当時はお話しの最中によくお腹が可愛らしい音を奏でたものだ。
そんな時、祖父が孫娘に振る舞ってくれたものが――
「お待たせいたしました、お客様。ご注文のパンケーキセットでございます」
思索を中断し、ユニは声をかけられた方向に顔を向けた。
彼女に声をかけたのは、黒を基調とした古風なエプロンドレスに丈の長いロングスカートを身に付けた女性だ。高級品の陶磁器のような肌の白さと、上質の絹を思わせる滑らかな長髪。そして、客商売に関わる者がそれでいいのかと問いたくなる表情の乏しさはまるで、等身大のアンティークドールを思わせた。
この店のウエイトレスであろう彼女は、にこりともせず、だが丁寧な手つきで、手に持ったお盆から皿をユニの目の前に、そのすぐ横にティーカップを静かに置く。
「では、ごゆっくりどうぞ」
一礼し、ウエイトレスはバックヤードであろう店の奥へと下がっていった。不思議なことに、目で追っていたにも関わらず足音も気配も全くない。もしも黙って料理を配膳されていたなら、きっといつ置かれたかも気づかなかっただろう。
ひょっとして、以前は罠師や忍といった職業にでもついていたのか? とも考えたが、
(まあ、いいや。お腹空いたし)
謎のウエイトレスも気になったが、今一番気になるのは目の前に置かれたものだ。
パンケーキとハーブティーのセット。
メニューで見かけた時、思い出の懐かしさから頼んだ料理だった。
(でも、お祖父さんには悪いけど、こっちの方が美味しそう)
祖父がご馳走してくれたパンケーキは焼いたものに蜂蜜をかけただけといういたってシンプルなものだったが、この店のパンケーキは果実を主体にしたもののようだ。
皿の上には二つのパンケーキが並べられていた。それぞれ宝石のように輝く青紫と赤の木苺が散りばめられており、同色のベリーソースが格子状にかけられている。添えられたクリームの、雲のような白さとの対比が美しい。
ふわりと立ち上がる、甘さと香ばしさをともなった香りが鼻をくすぐり食欲をそそる。再び腹の虫が騒ぎ出す前にと、ユニはナイフとフォークを手に取った。
まずは何もかかっていない部分だけ食べてみよう、と切り込みを入れかけて――驚いた。ナイフが何の抵抗もなくずぶずぶと沈んでいく。たいして力をかけずとも、銀の食器の自重だけで切れていくかのようだ。
(まさか、生焼けじゃないよね?)
あまりの切れやすさに、ひょっとして中まで火が通っていないのでは、と不安になりながらも、とりあえず一口大に切り分けたパンケーキを口へと運ぶ。
(えっ?)
最初に感じたのは柔らかさだ。パンケーキを舌の上で転がすだけで、きめ細やかな泡が弾けるように崩れていき、ユニの口の中に爽やかな酸味と上品な甘さを広げていく。
感触から連想した半生の生地とは、まさしく雲泥の差だった。
(何これ、やわらかい。あっという間に口の中で溶けていく……それに、パンケーキだけでも十分美味しい!)
今までに食べたことのあるパンケーキの歯触りとは明らかに異なっていた。ふわっふわなのだ。この独特の食感は病みつきになる。
一気にかぶりついてみたい気持ちを抑えつつ、今度は木苺とベリーソースがかけられた部分を切り分け、同様に口へと運んだ。
やはり、最初の一口目と同じく、口の中で消えていくと錯覚するほどにやわらかい。そして、その最中に感じる果実が弾ける食感が心地良かった。木苺から溢れる甘酸っぱさが、パンケーキの素朴な味をより際立たせ引き立てていく。しかも、甘酸っぱさにも赤と青紫の木苺で違いがあった。赤の方は甘味が強く、青紫の方は酸味が強い。それぞれの木苺で引き立て方が絶妙に違うのだ。
(手が、止まらない……! ずっと食べていたい!)
さらに、青空に浮かぶ雲のように白いクリームをつけていっしょに食べれば、パンケーキそのものとも木苺とも異なる強い甘味が味を別物へと塗り替え一新させる。そのアクセントもたまらない。
もう止まらなかった。
ナイフで切り分けてはフォークで口に運ぶ行為を、ユニは無心で何度となく繰り返す。
何もつけずに食べる、赤い部分だけ食べる、青紫の部分だけ食べる、両方口に入れる、木苺とクリーム、クリームだけつけて食べる――
色々試し、その度に満足する。そんな幸せな行為が終わるのに、さほど長い時間はかからなかった。
気づけば、皿の上はきれいさっぱり無くなっていた。
ようやくナイフとフォークを置き、ユニはふう、と息をつく。
「美味しかった……」
よっぽどお腹が空いていたのか、それともパンケーキに夢中だったせいか、存在をすっかり忘れていたハーブティーに口をつける。
これもまた、美味しかった。ハーブ特有のクセがなく、飲みやすいそのお茶は口の中をすっきりとさせる。あとに残ったのは、食後の満ち足りた気分だけだ。
「もう一品、頼もうかな……」
そんな考えが頭をよぎるほど、この店は当たりだった。
もう一度同じものを、いや次は別の料理を頼もうか。贅沢な悩みを抱えつつ、手持ちの金額を確認しようと、手は無意識に財布を取り出そうと探り――
「……あれ?」
手は意識的に財布を取り出そうと探り――
「……ん?」
手は集中して財布を取り出そうと探り――
「ちょっと待ってちょっと待って」
手は必死に財布を取り出そうと探ったが――目当てのものは見つからない。
途端に身体から、サァッと熱が引いていく。
「……嘘でしょ?」
「お客様」
「!?」
飛び上がらんばかりの勢いで首を向けると、いつの間に近づいたのか無表情なウエイトレスがすぐそばに立っていた。
「な、何?」
「よろしければ、お茶のお代わりなどはいかがでしょうか」
「あ、ありがと」
ウエイトレスは丁寧かつ優雅な所作で、ティーポットから液体をカップに注ぐ。
それを待っている間、ユニは気が気でなかった。何せ気づいてしまったのだ。今の自分の立場は、カネも持たずに食事をした無銭飲食者――
「料理はお気に召されましたか?」
「ふえっ!?」
変な声が出た。疚しい気持ちを抱えている時に、急に声をかけないで欲しい。
「あ、ああうん、今まで食べたことなくて驚いたし、うん、美味しかった」
「それは良かった。最近は不心得者も多いので」
「不心得者?」
「はい」
ウエイトレスがお茶を注ぎ終える。
「料理に難癖をつけて代金を踏み倒そうとしたり、代価を払わず逃げようとする者たちですね」
「…………」
「もちろん、そんな愚か者どもは相応の報いを受けましたが」
相応の報いって何? とは怖くて聞けなかった。
感情のない人形のような彼女の瞳が恐ろしい。嘘やハッタリではなく、淡々と事実だけを述べているようにしか見えないのだ。
もしカネが無いことを知られたらどうなる? 自分も相応の報いとやらを受けるのか? 急いで組合の金庫から引き出してくるからと言えば、許してもらえるのか?
内心で戦々恐々とする中、助け船は意外なところから現れた。
「セレステ。ちょっと持ってきて欲しいものがあるんだけど、頼めるかな」
「御主人様のご命令とあらば。例え向かう先が地獄の底であろうとも、慎んで拝命いたします」
「いや、行って欲しいのは倉庫なんだけどね」
二言三言言い付けられ、ウエイトレスは姿を消した。
御主人様と呼ばれたコックコートの人物――料理人兼店主なのだろう――は困ったように笑いかける。
「すいません、うちの従業員が脅かして」
「あ、いや……」
「あまりお客さんに凄惨な話はしないように、って言ってるんですけどね」
凄惨な話って何だ。相応の報いと関係あるのか。
気になったが、確かめるのは怖かった。誰だって自分の悲惨な未来など知りたくない。
しかし、黙っていても事態は好転しない。意を決して店主に話しかける。
「あ、あの……」
「手持ちが足りないなら、ツケでもいいですよ」
「え?」
「間違いだったらごめんなさい。でも、途中から顔色が悪くなったように見えたから」
「で、でも相応の報いって……」
「最初から食い逃げしようと考えてた訳じゃないんですよね? それなら別に構いませんよ。お客さんが相応の報いの方を希望するなら、それはそれでその選択を尊重しますけど」
ぶんぶん。
大きく首を横に振る。
「ならそれで。お代は次回お支払い頂ければ結構ですよ」
店主の言葉にユニは安堵した、と同時に心配にもなった。自分のことではない、この店の経営をだ。カネも持たずに食事をした自分が言えた義理ではないが、無銭飲食を見逃してはならない。代金を支払いに戻ってくる保障などないし(もちろんユニは食い逃げするつもりはないが)、ましてや冒険者が相手ならなおさらだ。
迷宮に潜ったまま帰ってこない冒険者など珍しくもない。『冒険者はツケで買い物が出来て一人前』という言葉もある。確実に利益を得て帰ってくる実力と、約束を守るという信用があるとみなされなければ、冒険者の買い物は即金が基本だ。
「別に構いませんよ。半分以上、趣味の商売ですし」
そう言って店主は笑ったが、それでもユニの気は収まらなかった。
カネを忘れたのは完全に自分の落ち度だ。その上、店主の温情にただ甘えるというのはどうにも収まりが悪かった。支払いを待ってもらうにしても、せめて身分証明か担保になるものを代わりに預けるべきだとユニは考える。
(でも、いったい何を……そうだ、組合の登録証なら。いや、でもこれがないとそもそも金庫からお金を引き出せなくなるし……あっ)
その時、彼女は懐に仕舞っておいたそれなりの価値を有する物の存在を思い出した。急いでそれを取り出し、店主に差し出す。
「なら、せめてこれを代わりに」
「これは……地図、ですか?」
「そう。私の仕事道具の、魔導白地図っていう魔道具」
魔力が込められた道具である魔道具は貴重品だ。地図そのものに限らず、描かれた地形情報だけでも、食事代以上の価値はあるだろう。
手放すつもりなど毛頭ないが、代金を用意して戻ってくるまでの間、担保として預けるのにこれ以上のものはない。
「必ず代金を払いに戻ってくるから、預かっていて。もし戻ってこなかったら、その地図は好きにしてくれていいから」
「いいんですか? 大事なものなのでは?」
「財布を忘れたのは私の落ち度だし。地図は組合にでも売り払えば、相応の値段で換金してくれるはずだから」
それに、すぐにこの店に戻ってくればいいだけの話だ。
ツケでいいと言い切ったこの店主なら、地図をすぐに売り払われる心配もないだろう。
「そうですか、分かりました。では、お預かりしましょう」
そう言って、店主は地図を受け取った。
「しかし、随分と詳細な地図ですね。ここまでのものはそう見ませんよ」
「まだ、組合に報告してない情報もあるから」
「ひょっとして、宝物庫への侵入ルートでも探してます?」
「…………」
「いや、地図を見てなんとなくそう思ったんですが」
「……店主さん、まさか元冒険者? あのウエイトレスさんも」
「まあ、そんな感じですね。お客さんも一攫千金を狙ってるんですか? 無理に止めはしませんけど、あそこの財宝に手を出すのは命懸けですよ」
「別に、お宝には興味ないから」
「では、なぜ侵入ルートを?」
「……黄金竜に会うため、だけど」
どうせ信じないだろうと思っての発言だったが、意外にも店主は納得したように頷いた。
「なるほど」
「信じるの?」
「嘘なんですか?」
「嘘じゃないけど」
「なら信じますよ。むしろ、道理で詳しい地図な訳だと納得しました」
広げた地図を畳み、店主は呟く。
「ただ、食事代の代わりに預かるにしても価値が釣り合わないな。何かサービスしないとバランスが取れないか」
「何? 今、何か言った?」
「ああ、いえ。きっとその内、出会えますよ」
「できれば、三従者全員に会いたいけどね」
「なら、あとは二人ですね。それと、これはサービスです」
「え?」
どういう意味か聞き返そうとした次の瞬間、ぐにゃりとユニの視界は暗転した。
反射的に瞬きした彼女は、視界に映る景色が全くの別物になっていることに驚く。
「え、あれ?」
落ち着いた店内ではない、風を感じる屋外だ。迷宮の入口前に広がる、石畳の敷き詰められた広場という見覚えのある場所に自分が立っていることにユニは気づく。
事態が飲み込めず、混乱するユニの横を冒険者が通り過ぎていく。すれ違う冒険者が片手の指を越える数になって、ようやくユニは我に返った。
「白昼夢でも見てた……とか?」
一番現実的な結論だ。だが、身体を探ってみると財布はやっぱりないし、魔導白地図も消えている。
そして何より、あの料理の味を舌が確かに覚えている。
「待って、どこから夢でどこから現実?」
思い返せば、あの視界が歪む感覚には覚えがある。隠し部屋で見つけたテーブルに触れた時も、同じ感覚を体験した気がする。
ひょっとして、あの遭難は夢ではなかったのか? 異なる階層を繋ぐ空間跳躍点や地上へ戻る帰還術など、魔術で空間を転移するとその影響で少しの間平衡感覚がおかしくなったり気を失ってしまう、いわゆる転移酔いが起きる場合が稀にある。
「でも、転移なんて高度な術をこんな簡単に? いや、それよりも最後のあの言葉……」
サービスというのが、地上への帰還という意味だとしたら筋は通る。それが出来る店主はいったい何者だという疑問はあるが。
だが、それよりもユニにはこちらの言葉が遥かに気になった。
『あとは二人』。
店主は確かにそう言った。あいにく巨大な黄金の竜も氷の翼持つ大鷲も、ユニは見ていない。だが、人間と見紛うほど精巧な美しい自動人形ならどうだ?
つい先程、そんな人物を見かけなかったか? 例えば、人形のような整った美貌を持つウエイトレスを。
「……もう一度、あの店に行けば分かる」
店主の正体。店の実在。移動手段に商売の理由。
気になることは多々あるが、極論を言えばそんなことはどうでもいい。ユニにとって何よりも重視されるのは、自動人形の所在が判明したかもしれない、という一点だけだ。
ユニは、自分の中の憂鬱な感情が完全にどこかへ行ってしまったことを自覚していた。思いがけず与えられたご褒美に、『なぜか』は彼女を心身ともに奮い立たせる。
「そうだ、次はちゃんと食事代を用意しないと」
期待に胸を膨らませ、ユニは足取り軽く組合の方向に向けて歩き出すのだった。