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探宝者ルシュ

 

 ルシュは必死に走っていた。

 背後からは、絶え間なく恐ろしい怒号が響く。


 ――止マレ! 盗人ガァ!!


 怒りに満ちたその怒号は、大気にとどまらず迷宮の階層そのものをビリビリと震撼させているようだった。声の主が、どれだけ怒り狂っているのかが良く分かる。とばっちりを喰らうのを恐れたのか、魔物たちは声を耳にした途端に我先にと逃げ出していった。

 ルシュも必死に足を動かし続ける。

 だが、声の主は執拗に彼女を追いかけ続けているようだった。ルシュが小柄な身体をいかして、地下洞窟内の狭い通路や点在する遺跡を逃走路に選んでも、相手は巨体にものをいわせ障害物を無理矢理に破壊しながら突き進んでくるのが、背後から響く音で分かった。


 ――今スグ止マレ! ソウスレバ楽ニ殺シテヤル!!


 翼が空気を叩く音と、巨体が飛翔する気配が続く。ルシュが後ろを確認すると、視界の端にちらりと黄金色の輝きが見えた。彼女の背筋に寒気が走る。

 捕まったら、終わりだ。


(もっとだ……! もっと早く……! 風のように、誰も追いつけないぐらいに速く!!)


 走る彼女の周囲で風が渦巻く。

 風の渦は激しさを増すと同時に二つに別れ、彼女の両足に勢い良く巻き付いた。

 次の瞬間、ルシュの身体が加速する。


(風の加護を全力で使って――逃げ切る!)


 ルシュは一陣の風と化した。周囲の風景が瞬く間に通りすぎ、目まぐるしく変わっていく。

 加速を続ける身体は重力を無視して壁を走り出し、時に出くわした魔物の頭を容赦なく踏みつけ大きく跳ねた。その跳躍は飛行に近い高度と速度で、目的地までの距離を大幅に短縮する。

 まるで、足場という概念をスピードと共に置き去りにしたかのようだった。


 だが、追跡者を完全に振り切ることはできず、背後の破壊音は変わらず彼女を追いかけ続ける。

 それでも、このまま全力で走り続ければ追いつかれる前に逃げ切れるはず。ルシュがそう確信した瞬間だった。


 ――逃ガスカ!


 響く怒号から感じる威圧に、彼女の恐怖心が刺激された。首筋にぞわりと嫌な感触が走り、本能が危険を大声で叫び出す。

 反射的に、ルシュは自分の直感に従い、真横に跳んでいた。

 その判断が彼女の命を救った。


 次の瞬間、彼女が数秒前までいた場所が白い輝きに塗りつぶされる。


「ッ!?」


 発生した高熱と衝撃波に、ルシュの身体は吹き飛ばされた。体勢を崩しそうになるも、空中で風を操作しなんとか持ち直して着地する。

 いったい何が起こったのか。

 確かめようとして目に入った光景に、彼女は思わず絶句した。


 彼女が駆けていた場所は広大な鍾乳洞だった。

 人の一生など一瞬にしか思えないくらいに長い、悠久の時をかけて形成されたであろう雄大な石柱群の森。鍾乳石と石筍で創られた石の柱がそびえ立つ地下空間を、彼女は駆け抜けていたはずだった。


 しかし、周囲の景観は惨憺(さんたん)たるものへと変貌していた。


 階層の天地を繋ぐ、さながら古代の神殿の柱を思わせる壮大な石柱群は、無惨になぎ倒されていた。衝撃波が発生したとおぼしき中心の地面は、まるで干上がった河のように深々と抉れ、何かが一直線に通過したであろう痕跡をありありと残している。

 衝撃に耐えきれなかったのだろう。崩落した破片が散発的に落ち砕け、もうもうと土煙を立ち込めさせていた。

 あまりの惨状に、自然と声が震える。


「……嘘……だろ……まさか、これが息吹(ブレス)……!?」


 天災。

 そうとしか表現できない威力にルシュは驚愕(きょうがく)する。

 竜種の魔物が使用する炎や毒の広範囲攻撃と、眼前の惨状を生み出した攻撃がとても同じものとは思えない。まるで、流星が平行に墜落し大地を穿ったかのようだった。直撃を受ければ、ちっぽけな人間など跡形も無く消し飛ぶだろう。

 もし走る方向を変えていなかったら――? その想像に思い至り、ルシュの背筋がゾッと凍る。


 ――消エ失セロ!


 再び響く怒声。彼女は考えるより先に、咄嗟に横道に逃げ込んだ。

 舞い散る粉塵が視界を遮る中、背後で光が一点に集中するのがかろうじて見えた。一拍にも足りないわずかな間の後、粉塵を切り裂いて一条の閃光が走る。

 空気が灼ける匂いと発生する爆風に背中を押されながら、彼女は必死で逃げ続けた。


(もう少しだ……あと、もう少しだけ逃げられれば!)


 二度の攻撃を幸運にもかわせたことから、ルシュは追跡者が放つ攻撃の間隔をおおよそながらも掴んでいた。

 時折、右に左に逃走経路を変えて彼女はひたすら逃げ続ける。その度に、かわした息吹がもたらす破壊の余波を全身で感じていた。それでも、致命的な一撃だけは喰らっていない。

 まだ走れる。まだ逃げられる。


(次の息吹が来る直前のタイミングで進路を変えれば、直撃だけは避けられる!)


 だが、いつまでも同じ手が通じる相手ではないだろう。息吹で仕留められないと判断すれば、必ず何か次の手を打ってくるはずだ。

 そしてその次の手を、ルシュがまた奇跡的にかわせる保証はどこにもなかった。


(それまでにあそこにたどり着ければ!)


 敵の判断が早いか、ルシュの逃げ足が早いか。

 これは、そういう賭けだった。

 そして――彼女は賭けに勝った。


「……見つけた!」


 思わず漏れ出たルシュの声は、喜びに弾んでいた。

 攻撃をかわして走り続けたためにだいぶ遠回りになってしまったが、ようやく目的の場所にたどり着いたのだ。

 今、彼女の視線の先には、青白く光る陽炎のような空間の揺らぎがあった。

 迷宮の異なる階層を繋ぐ、空間を越えたトンネル――階層跳躍点(ゲート)である。


 目的のものを視認した彼女は、走る速度をゆるめずに荷物から手探りである道具を取り出した。それは、魔術が込められた巻物(スクロール)だ。封を開き、発動の起句を唱えれば、魔術師ではない彼女でも一回限定で込められた魔術を行使できる。

 使用した巻物が手の中で光の粒子となって消滅すると同時に、背後で目もくらむような閃光と爆発音が連続で発生した。発動した魔術の効果だ。めくらまし程度の威力しかないが、多少の足止めにはなる。

 ルシュの思惑通り、逃げ回るばかりで抵抗らしい抵抗を見せなかった逃亡者の思わぬ反撃に驚いたのか、追跡者の動きが一瞬だけ止まる。

 そして、ルシュにはその一瞬が何よりも貴重だった。


「じゃあね黄金竜!」


 逃げ切ったことを誇るように呟くと、ルシュは振り向かず光に紛れるようにして勢い良く階層跳躍点に飛び込む。

 瞬間、彼女の視界がぐにゃりと歪んだ。


 大地が消失するような浮遊感を、一瞬だけ感じる。


 まばたき一つ終える頃には、ルシュはすでに別の階層への移動を終えていた。

 飛び込んだ勢いを保ったまま別階層に転移した彼女は、慌てて足を踏ん張って制動を効かせる。両足に纏わせた風の渦がガリガリと地面を削りながらも、速度は徐々に緩まっていき、彼女はようやく立ち止まることができた。

 全力疾走で乱れた呼吸が、彼女の薄い胸を上下させる。猟人(アマゾネス)特有の褐色の肌には玉のような汗が浮かび、蜂蜜色の髪も濡れてべったりと顔に貼り付き不快だった。

 それでも、彼女は仕事をやり遂げた達成感に包まれていた。


「どうだ、はは……逃げ切ってやったぞ……!」


 『魔物に追われたら別階層に逃げ込め』。冒険者の数ある定石(セオリー)の一つである。

 通常、魔物は自分の生息する階層から移動しない。そのため、階層跳躍点を利用し別の階層に瞬時に転移すれば、容易に魔物の追跡を振り切れる。階層跳躍点は一方通行なので、運悪く転移した先に魔物の巣でも築かれていたら更に困った事態になるが、そんな場合はごく稀だ。基本的に、別階層に逃げ込めば目前に迫る危機は回避できるといっていい。

 ルシュもまたこの定石を活用し、見事に恐ろしい追跡者を振り切ったのだった。


 あらためて、ルシュは周囲を見回し安全を確認する。幸い、近くに魔物の姿はない。

 視界に写る景色は、岩と土と鍾乳石だらけの『宝物宮の城下窟』から、おどろおどろしい雰囲気の古木や遺跡が点在する『九十九物語(つくものがたり)の丘』へと変わっていた。

 疲れから、そのままごろんと横になりたい衝動に駆られるが我慢する。

 この階層だって決して安全ではないし、黄金竜がこれで諦めたとも思えない。魔物は階層跳躍点を使えないし迷宮の外に出ることもないが、その数少ない例外といわれているのが黄金竜だ。実際、かの魔物はどんな手段を用いたのか、かつて地の底から地上に出てきたことがある。

 その事実を考慮すれば、ルシュが本当に身体を休められるのは無事に地上に帰還したあとだ。


 黄金竜が自分に追いつくよりも早く迷宮を脱出し、依頼人に約束の品を引き渡すのだ。その後、怒れる黄金竜が迷宮内で暴れようが依頼人に牙を剥こうが彼女の知ったことではない。

 あとの面倒は全て、依頼人に押し付けてしまえばいい。もともと、そういう契約だ。


「さてと、こっから一番近いのは――」


 しかし、彼女は一つ勘違いをしていた。

 黄金竜には、かつて迷宮の外に飛び出し財宝を奪還した前例がある。階層の移動手段そのものは不明だったが、推測は出来た。同格の魔物である氷翼の大鷲が、大規模な転移魔術を行使して迷宮を浅い階層から深い階層まで天災のように飛び回っていることを踏まえて考え、きっと黄金竜も同じ方法で移動するのだろうと考えたのだ。


 いかに伝説の魔物だろうと、転移先の座標を設定しなければいけない転移の魔術は組み立てに多少の時間がかかるはず。そして、ルシュの足と階層跳躍点を利用した移動なら、その速度から転移の魔術を組み立てられようが発動前に別階層に逃げて設定座標そのものを無意味にできる。

 相手が物理的にしか追跡できないなら、階層跳躍点を使って距離を稼げるルシュが圧倒的に有利。

 その考えは正しく、そして間違っていた。


 突如、大規模な震動が足元を伝播し、背後で何かが爆発したような轟音が耳をつんざく。ついで衝撃と爆風が走り、礫が舞った。

 衝撃にたたらを踏んだルシュが、転倒しそうになるのをこらえて振り返ってみれば、背後には巨大な光の柱があった。階層の天井まで到達しようかという、白く輝く巨大な光の柱が。


「は……?」


 事態を飲み込めないルシュをよそに、一瞬の後に光の柱は消え去った。あとに残ったのは、奈落の底まで続こうかという深く暗い大穴だ。

 嫌な予感を感じつつも、ルシュはおそるおそる穴の縁に近づいた。身を乗り出して奥を覗きこむ。


 ――逃ガサナイト言ッタゾ…………! 盗人ガ…………!!


 穴の奥から身も凍るような怒声が反響する。

 見通せない暗闇の奥底には、わずかに光を反射する黄金の輝きがあった。はじめは豆粒ほどの大きさだった輝きは徐々に上昇していき、次第にその輪郭がはっきりしていく。


 迫り来る輝きの正体は、一体の魔物だ。

 その背に生やした三対六枚の雄大な翼で大気を叩き飛翔する姿は、地を這う蜥蜴(トカゲ)とは異なる王者の風格を全身から漂わせている。身体をくまなく覆う鱗は強固な鎧を連想させ、長大な尾は大樹のように太いながらもしなやかに動いている。だが何よりも目を引くのは、その体色だろう。

 その魔物は、細かな鱗の一枚一枚から、長い尾の先端に至るまで、全てが溶かした黄金で形作られたかのような美しい竜であった。


 深い闇に包まれながらも光り輝く竜の姿は、まるで夜の湖面に映る月を思わせた。その光景は、稀代の天才芸術家が生涯をかけて造り上げた作品ですら見劣りしてしまう、精緻な芸術品の如き畏敬の念を見た者に与えただろう――竜の瞳が、ルシュをにらみつけてさえいなければ。


 縦に裂けた瞳孔と目が合った。その双眸(そうぼう)には憤怒、憎悪、敵意、殺意――およそルシュに対するあらゆる激情が渦巻いている。

 竜が口を大きく開けるのが見えた。目も眩むような光がその一点に集約する。

 ルシュは思わず身を翻して、脱兎の如く駆け出していた。後ろから息吹の余波だろう熱波と轟音が押し寄せたが、振り向かない。何が起きたかは見なくても分かる。見たくなくても分かってしまう。


「ふざけるなふざけるなふざけるな……! なんだよそれ……!?」


 息吹で階層の分厚い壁を強引にブチ抜き、空けた穴を通って直線距離を追いかける。

 階層の隔たりなど関係ない。魔術を構築する必要もない。あまりにも力業過ぎる距離短縮(ショートカット)に、変な笑いすらこみ上げてきた。

 とっとと諦めろ、人間。身の程を知れ。

 言外にそう言われているようにも思えた。馬鹿にされたような、あるいは見下されたような気さえしてきた。言い様のない憤りを感じ、彼女の心に火が灯る。


「なめんなよ、化け物が……! 人間様のしぶとさ教えてやるよ……!」


 誰かに見下されることなど我慢ならない。

 ギリリ、と歯を強く食いしばる。


「上等だ……どこまでだって逃げてやるさ……!」


 駆けるルシュの両足に、再び風の渦が巻き付いた。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



「悪いけどさ、もう一回言ってくれる?」

「黄金竜の寝床から、宝を盗んできてもらいたい」

「あんた、馬鹿? それとも酒の飲みすぎ?」


 場末の酒場。

 ひとけのない一角で、二人の客が向かい合って座っていた。


「んな自殺行為、引き受ける奴なんかいないだろ。まだ、首に縄かけてブランコしろって言われた方がマシだよ」

「盗んできてもらいたいのは宝石だ。だいたい握りこぶし程度の大きさで――」

「ああ、なるほど。酔っぱらった馬鹿だったんだ」


 ルシュは立ち上がる。これ以上、与太話に付き合うつもりはなかった。

 だが、ある音が彼女の足を止めた。

 無造作にテーブルに置かれた革袋が、ジャラリと音を立てる。人間の世に生きる者なら、決して無視出来ない金属片が奏でる魅惑の音だ。


「口止め料兼前金だ。話を最後まで聞いてくれるなら、依頼を受ける受けないに関わらず支払おう」


 座る客はフードを深くかぶり、その表情は窺い知れない。背丈から判断するに、鉱人(ドワーフ)ではなさそうだが。

 ルシュは、視線をフードの人物とテーブルの上で行き来させたあと、再び腰を下ろす。金をもらって与太話を聞く仕事を受けたと思えばいいか、程度の感覚だった。


「……で? 何しろって?」

「黄金竜の守る宝物宮から、ある宝石を一つ、できれば二つ盗み出してきて欲しい」

「それで黄金竜に殺されろって? 冗談じゃないよ。あたいは探宝者(トレジャーハンター)であって、自殺志願者じゃないんだけど」

「地上まで逃げ切ってくれれば、それでいい」

「おっそろしいドラゴンさんが追っかけてきたら、どうすんのさ」

「問題ない。黄金竜はもう、以前のように迷宮の外には出られない」


 魔物は迷宮の外に出ない。階層を移動もしない。

 太陽が西に沈むのと同様に、誰もが疑いもしなかったそれらの常識を粉々に破壊したのが黄金竜だった。迷宮から飛び出して、財宝を奪った国を一夜で滅ぼし、夜明けと共に凱旋した魔物の姿を見た当事の人々は恐慌に陥った。

 一時は、恐怖から冒険者の数が激減したほどである。


「以来、組合(ギルド)は迷宮全体に結界を張った。魔物が二度と外に出てこれないよう強力な結界を」

「だから、地上まで逃げれば助かるって?」

「無論、通常の冒険者なら地上に逃げ切るのはおろか、階層跳躍点に逃げ込む前に追いつかれて殺されるだろう。だが、君なら可能性はある」


 フードの奥からわずかに覗く、鋭い眼光がルシュを見据える。


「風の加護を持つ俊足の冒険者、疾蜂の二つ名で知られる君ならば」


 ルシュは視線を落とし、自分の足を見つめた。猫科の獣を思わせる、しなやかに引き締まった自慢の足だ。猟人の筋肉のバネと風の加護による加速は、彼女に無類の速さを与えてきた。

 フードの人物が言う通りに、確かに自分なら逃げ切れるのかもしれない。冒険者になって以降、本気で走った彼女に追いつけた魔物はただの一匹とていなかったのだから。


「……わざわざあたいに依頼しないでも、魔術師とか雇って帰還術を使わせればいいんじゃないの?」

「宝物宮の財宝にはある呪いがかけられていて、所持している間は帰還術をはじめとする転移系魔術の発動が阻害される。加えて、黄金竜は盗まれた宝の位置を捕捉できるらしい能力が確認されている。よって取れる手段は軍隊並の戦力で足止めするか、追いつかれる前に逃げ切るかの二択だ」

「……組合の封鎖は? 立ち入り禁止の宝物宮にどうやってお邪魔するのさ?」


 気づけば、ルシュは質問を重ねていた。

 与太話に適当に付き合うのではなく、むしろ真剣に。まるで、承諾した依頼を細部まで詰めるかのように。


「組合が封鎖していない侵入ルートがある」

「そんな話、今まで聞いたことないんだけど」

「それはそうだ。そのルートを通るには、魔術無しで水面を走れるくらいの脚力が必要だからな。最初から道とも見なされていなかった」

「あたいなら通れるって?」

「通常なら確実に死ぬルートだが、君の脚力が噂通りなら問題なく通過できる。そのルートを教えよう」

「そりゃまた、至れり尽くせりだね」

「他に何か聞きたいことは?」

「……報酬は?」

「取ってきた宝石を、そちらの言い値で買わせて貰おう」

「ずいぶん気前がいいね」

「冒険者を廃業して遊んで暮らせるだけの額だろうと、君が育った孤児院をもう経営を心配しなくてもよくなる額だろうと自由だ」

「……あたいのこと、よく調べてるじゃん」

「相手が金で動く人物かどうか、事前に調査しておくのは交渉の基本だ。それで、どうする? 自信がないなら、依頼はなかったことにするが」

「上等だよ。もう少し、詳しい話を聞かせてもらえる?」


 ルシュは、テーブルの上の革袋を手に取った。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 浮遊感は一瞬だった。

 足が砂地を踏みしめ、飛び散った砂粒が肌に当たる。別階層に転移したことをその身で感じ取ったルシュは更に強く地を蹴った。もう速度を緩めるつもりはさらさらなく、勢いのままただひたすらに駆け続ける。

 周辺には、結晶化した巨大な珊瑚(さんご)が無数に蔓延(はびこ)っていた。極彩色の樹海の中を、彼女は砂を巻き上げながら全速力で駆け抜ける。


 息が切れる。砂に足を取られて走りにくい。まともな休憩など、ろくに取れていなかった。疲労が蓄積し、足が重くなっていくのが分かる。

 もういったいどれだけ走り続けているのか、彼女自身にも分からなかった。すでに喉が渇きを訴え、胃袋が空腹に悲鳴をあげていたが、気合いと根性と意地で無視しているのが現状だった。全身からもう限界だ、という叫び声が聞こえてくるようだ。

 それでも、足を止める訳にはいかなかった。

 別階層に逃げ込んでも、いくらも経たない内に竜の息吹が階層を貫くのだ。それが何度も繰り返されれば、嫌でも分かる。一度でも休めば、それが永遠の休みになることが。


(次だ、早く次の階層に……! そうすりゃ水を一口飲む時間くらいは……!)


 行く手を阻む巨大な珊瑚を迂回して進むことすらもどかしく、硬質化した表面を一気に駆け上がった。たどり着いた頂上部から思いきり跳躍し、少しでも距離を稼ぐ。

 潮の匂いを含んだ風をその身で切り裂いて跳ぶ中、彼女の目は一つの奇妙なものを捉えていた。眼下に広がる光景に、場にそぐわないものが見える。


(何あれ……テーブル?)


 料理店にでも置かれていた方が自然な家具が、巨大な珊瑚の密集する中に隠されるように設置されていた。ちょうど彼女の着地予想地点に、狙ったかのように置かれている。

 擬態能力を持つ魔物か? と一瞬躊躇するも、構うものかと思い直す。どうせこのタイミングではもう避けられないし、何より落下速度が加わったこの勢いならば、着地の衝撃だけで擬態魔物(ミミック)程度は一撃でしとめられる。

 魔物を倒す必殺の一撃とすべく、姿勢を微調整したルシュの足がテーブルに触れる。

 その瞬間、ルシュの視界がぐにゃりと歪んだ。


(は? え!? 何――)


 予想していた魔物の身体を踏み砕く感触とはまるで真逆の足下が消え失せたような浮遊感に、ルシュの思考が空白に包まれる。

 慣れ親しんだ転移の感覚。だが、全く予想外に発生した不意打ちに彼女は対応出来ず、思わずバランスを崩してしまう。さながら、道のわずかな段差を踏み外して無様に転倒してしまうかのように。

 体勢を崩してしまった彼女は反射的に目を閉じたが、ルシュを迎え入れたのは飛び散る砂ではなく固い感触だった。違和感に目を開いてみれば、彼女の身体が転がっていたのはよく磨かれた床の上だ。


「…………どうなってんの? 何が起きた?」


 怪我こそしていなかったが、混乱で頭の中は真っ白だった。思わず、間の抜けた声をあげてしまう。


「大丈夫ですか?」


 返答を期待したわけではなかったが、意外にもその声に応えるものがいた。

 近寄ってきたのは、料理人のような格好をした人物だ。白いコックコートを纏ったその人物は、彼女に手を差しのべる。


「立てます?」

「大丈夫、だけど……あんた、誰? ここ、どこ?」

「見ての通り、料理人兼ここの店主です。そして、この店は料理店ですね」


 立ち上がったルシュが見回せば、なるほど確かに周囲には彼女が先ほど発見したものとよく似たテーブルが規則正しく整列していた。調度品の一つ一つが値打ちものであることを窺わせる嫌みのない高級感に溢れており、落ち着いた雰囲気と清潔感のある料理店にしか見えない。孤児院育ちのルシュにはあまり馴染みのない空間だ。

 他の客の姿が全くないことが少し気になったが、それよりも他にもっと気になることがあった。


「何であたい、ここにいるのさ……さっきまで『珊瑚の樹海』にいたはずなのに」

「テーブルに触りませんでした?」

「テーブル?」

「それに触ると、この店に移動するんです。確か『珊瑚の樹海』にも置いてあったはずですから」


 店主の説明を受け、ルシュにも大体の話が見えてきた気がした。

 おそらく、ルシュが踏みつけたあのテーブルは魔道具の一種だったのだろう。触れた瞬間に転移の魔術が発動し、彼女をこの店に移動させたのだ。

 なぜそんなものを迷宮に置いているのかは謎だったが、とりあえず彼女がこの場に移動した理由は分かった。


「もし、元の場所に戻りたいならそちらに送らせてもらいますけど」

「あ、ああ当然……いや、ちょっと待って」


 店主と会話をしている内に、段々と冷静さを取り戻してきたルシュはある考えを閃いていた。同時にその考えを補強するために、気になった疑問を口にする。


「ちょっと聞きたいんだけど、この店どこにあんの? 地上?」

「いえ、違いますよ。地下です」

「ああ、そう……」


 ここで地上だと言われれば、最善だった。だが、違うならそれはそれでいい。


「じゃあ、この店と『珊瑚の樹海』はどれだけ離れてる? 同じ階層? それか上下の階層のどっちか?」

「そうですね、だいたい百層ぐらい離れてますよ」

「あのさ、冗談いいから」

「本当ですよ。お客さんたちには、なかなか信じてもらえないですけど」


 ふざけてる。店主を見つめながら、ルシュは率直にそう思った。

 三ケタ層など、前人未到の領域だ。そんな場所に到達し、しかも料理店を構えるなど、とても信じられない。


(いや、そうでもないのか?)


 冷静に考えてみれば、目の前の相手は只者ではない。消耗品の巻物ではなく、何度でも使える貴重な転移の魔道具の持ち主だ。口ぶりからすると、一つだけではないようにも聞こえた。この人物が凄腕の魔術師か何かだとすれば、ありえないことではないのかもしれない。

 かつては、迷宮見聞録を記したドランという前例もある。限りなく難しいだろうが、不可能ではないようにも思えてきた。


「じゃあ、本当に『珊瑚の樹海』にまで戻してくれんの?」

「ええ、もちろん」

「戻るのにどれくらい時間かかるの?」

「店の外にテーブルがありますから、それに触れてもらえば一瞬ですね」

「ふうん……」

「それで、どうします? 何か食べていきますか」

「……うん。じゃあ、お願いするよ」

「分かりました。では、お好きな席に座ってください。ご注文が決まったら、うちの従業員が伺いますので」


 店主の言葉に従って、ルシュはとりあえず適当な椅子を選ぶ。百層も離れているなら、少なくとも今すぐに黄金竜が店の壁をぶち破って突撃してくる心配をしなくてもいいだろう、と安心して。

 高級店の椅子に座るのに多少気後れしたが、疲れには逆らえない。走っている間は何とかこらえていた疲労も、一度立ち止まってしまうとドッと足に押し寄せてきたので、座って休息を取れるのはありがたかった。椅子の背もたれに深く身を預け、足に力を入れず投げ出せるのが気持ち良い。


 ふと気づくと、いつの間に店主と入れ代わったのか新たな人物がルシュの側に立っていた。

 古風なエプロンドレスとロングスカートを身に付けた、ウエイトレスらしき女性だ。露出の少ない服装ながらも、わずかにのぞく肌は猟人の褐色肌とは対称的なまでに白い。顔に浮かぶ表情こそ乏しかったものの、もしも笑顔を浮かべればどんな男性でも魅了されてしまうだろう様子が容易に想像できた。

 精巧な人形のように整った美貌の持ち主を目の当たりにして、何となく居住まいを正したくなったルシュだったが、その女性が傾ける水差しとコップに注がれる液体を見てそんな考えは吹っ飛んだ。混乱の連続で忘れかけていた猛烈な喉の渇きに、彼女は再び襲われる。


「み、水……!」

「どうぞ」


 コップと水差しを奪い取るように受け取って、一気に飲み干す。ほどよく冷えた水が、喉を通って全身へと染み渡っていくようだった。何の味もついてない冷たい水が、ただひたすらに美味しい。ゴクリと飲み込んだ水にかわって喉の奥から漏れ出た吐息も、ルシュの充足感を煽っていく。

 渇きが潤されていく感覚が心地良くて一杯だけでは物足りず、ルシュはコップに水を注いでは一息で飲み干す行為を繰り返した。

 途中、わざわざ水を移すのがもどかしくなり、直接水差しに口をつけたくもなったが、最低限残った理性がそれをかろうじて止めたのでおとなしくコップを使い続ける。

 結局、ルシュが落ち着いたのは水差しの中身が半分以上なくなったあとだった。


「こちらがメニューになります」


 ありがたいことに、ウエイトレスはルシュの行動に全く触れなかった。接客業の(かがみ)である。あるいは単純に興味がないからなのかもしれないが。

 ともあれ、ルシュもあまり気にしないようにしてメニューを開く。

 向こうが何も言わないのならこちらも気にしなければいい、と料理名を目で追っていく。料理店にいるのなら、何か注文をせねばなるまい。幸いにも、値段は大衆食堂とそう変わらないようだった。


(っていっても、あまりガッツリしたものだと後で走るのが辛くなる……甘いものとかならどうだろ?)


 気力の回復や集中力の持続に一番手っ取り早いのは、お菓子とか果物みたいな甘いものを食べることだ。などと、知り合いが言っていたことをルシュはふと思い出した。パラパラとメニューをめくって、見つけたスイーツのページを流し読む。

 パンケーキ、アップルパイ、チーズケーキ、ブラウニー、桜餅――お菓子の名前が並んでいるページには、知っている名前もあれば知らない名前もあった。

 ウエイトレスに声をかけ、ルシュはメニューに綴られた名前を指でなぞる。


「これで」

「かしこまりました。少々、お待ちください」


 注文を受けたウエイトレスが去り、ルシュは改めて椅子に深く座り直した。

 軽く足を伸ばしながら考えるのは、ここまでのこととこれからのことである。


(最初は訳が分かんなかったけど、この店に来れたあたいは運が良かったのかも。ここが本当に地下深くだってんなら、しばらくは安全なはずだし)


 黄金竜があの無茶苦茶な移動手段を駆使してこの店まで追おうとしても、百層分の距離を埋めるのはそう簡単ではないはずだ。ルシュは店主の言葉を信じて、足が回復するまで待てばいい。黄金竜が追いつくまでにもう一度『珊瑚の樹海』に戻してもらえば、追いかけてきた敵が気づいて引き返しても圧倒的な距離のアドバンテージが生まれるはずだ。

 例え、相手が見失ったルシュを追わずに『珊瑚の樹海』にとどまっていたとしても、再び逃げる体力を回復できるのは大きい。


(むしろ、休めるだけ休んだ方がいいのか? 相手が近づいてこようがこまいが、長く休めたほうが逃げやすくなるんだから)


 あのしつこさを身を持って体験した後では、待ち伏せの可能性は低く思えたが、どちらにしろ全力で走れる状態にまで足を休ませなければならないだろう。

 時計を取り出し、ルシュはこの店に滞在できる時間を素早く計算する。安全を最優先に考慮しても、身体を休め食事をする時間は充分にありそうだった。


(予定とはだいぶ違ったけど、これで黄金竜にはもう追いつかれないはず。どうだ、今度こそ逃げ切ってやったぞ……!)


 ルシュの心に歓喜の色がにじむ。

 昔から、彼女は誰かに無理だと決めつけられるのが嫌だった。見下されれば見返したくなり、意地になってやり遂げては、言ってきた相手の鼻を明かしてきた。冒険者になってもその性分は変わらず、むしろいっそう強くなって高難度のクエストを達成し続けた。結果、二つ名持ちの冒険者として名が売れたのだ。危険な目に遭うことも多かったが、その度にリスクに見合うリターンを得てきた。

 今回だって同じだ。相手が伝説の魔物だろうと、引き下がってたまるものか。

 時計をしまうついでに服の上から隠しポケットに軽く触れれば、そこには今回の戦利品の感触がある。持ち出せた依頼の品は一つだけだったが、それでも充分すぎる収穫だろう。危険な冒険者などやめて、孤児院育ちの家族たちとまっとうな暮らしをおこなうなら十分過ぎる。


(ま、気は抜かずに。『珊瑚の樹海』に戻してもらったあと全力で走るためにも、今は疲れと空腹を何とかしとかないと)


 こうして行動の指針は定まった。

 折よく、ウエイトレスが音もなく現れる。


「お待たせいたしました、お客様。ご注文のアップルパイと紅茶のセットでございます」


 足音を立てることなく近づいたウエイトレスは、丁寧な仕草で食器を配膳していった。その動作は移動時と同様に静かなもので、声をかけられていなければ、いつ運ばれてきたのか気づかなかったかもしれない。


 彼女が置いた皿の上には、キレイに切り分けられたパイが乗せられていた。

 表面の網目模様はつやつやと輝き、そのすき間からは蜜色の果実が隠れているのが見て取れる。パイの断面からのぞく層も、なめらかで美しい。

 美味しさを主張する見た目に加えて、パイが漂わせる香ばしい香りと果物が放つ甘い香りが混ざり合って、吸い込んだものの食欲をかきたてる魅惑の香りを纏っていた。


「では、ごゆっくりどうぞ」


 最後に、皿の横に紅茶が注がれたカップを配置し終えると、ウエイトレスは一礼して店の奥へと下がっていった。

 目の前のご馳走に視覚と嗅覚を同時に刺激されたルシュは、わいてきた唾を飲み込むとおもむろに皿に手を伸ばす。フォークも用意されていたが、あえて手づかみでパイを手に取った。パリッと焼き上げられたパイは、持ち上げてもほとんど崩れることはなく、脆そうな外見に反してしっかりと形を保っている。

 見た目以上に中身が詰まっているのか、ずっしりと重いアップルパイに、ルシュは贅沢にかじりついた。


(美味い……!)


 パイの表面はサクッとしており、内側は空気が含まれフワッとした仕上がりだった。口の中で崩れていく生地からこぼれ落ちるのは、網目模様の奥に包まれていた果実だ。

 軽く力をいれるだけで、やわらかいながらもシャクッとした食感を残し、果実からは極上の蜜があふれだす。瑞々しい甘酸っぱさが、舌の上に広がった。口の中で果実が砕かれ小さくなるたび、新たな滋味が後から後から追いかけてくる。

 清涼感を感じさせるのは、柑橘類を使っているからだろうか。芳醇(ほうじゅん)ながら甘ったるさがない、爽やかな後味だ。バターの風味をともなったパイ生地のサクサクした香ばしさとあわさって、絶妙のハーモニーを生み出している。


(ああ、やみつきになる!)


 大口をあけて、再びパイにかぶりつく。林檎の甘酸っぱさが全身に染み渡り、疲れを癒やしてくれるようだった。飲み込んでしまうのがもったいなかったが、空腹も相まって口の動きは止まらない。

 時おりカップを傾ければ、無糖の紅茶が口内をリフレッシュさせ、アップルパイを新鮮な気持ちで楽しませてくれる。

 しばし無言で食べ続ける至福の時間に浸った。

 けれど、食べ進めればそれだけ残りは少なくなってしまう。


(ああ、もうこれだけだ……)


 ルシュがアップルパイをすっかり食べ尽くしてしまうのに、そう長い時間はかからなかった。

 名残惜しそうに最後の欠片を口に放り込む。存分に味わうと、最後に、ほう、とため息がもれた。


「なくなっちゃったな……」


 物足りない。というより、食欲を煽られたといった方が正しいか?

 味は満足のいく出来だった。いや、むしろ美味かったからこそ、もっと食べたくなったのかもしれない。とにかく、満腹にはいささか量が物足りなかった。


(おかわり……いや、だめだろ)


 誘惑が頭をよぎったが自制する。

 あまり食べすぎると身体が重くなる。お腹がいっぱいでろくに動けず逃げられませんでした、では笑い話にもならない。

 食べるのは我慢しよう。ルシュはそう決めた。


「よければ、持ち帰り分を用意しましょうか?」


 ルシュはうっかり頷きそうになってしまった。

 料理店ならよくある店主の提案が、とんでもない悪魔の誘いに思える。


「いや、できるだけ身体軽くしたいし……いい。お勘定だけお願い」


 後ろ髪を引かれるものの、なんとか断った。

 満腹にはまだ物足りないが、休息と補給は十分に取れたのだ。地上に戻ったら腹がはち切れるまで存分に食べてやる、とルシュは心に決める。


(そうだ、オリヴィア姉にアップルパイ焼いてもらおう。とびきり美味いやつを!)


 大金が手に入れば、もう迷宮に潜ることはなくなる。この店にも二度と来ないだろう。凱旋(がいせん)の祝いとして、一番料理上手の姉に手料理をお願いするのもいいかもしれない。


「――はい、ではお代は確かにいただきました」

「ごちそうさま。美味かったよ、ありがと」


 店主に食事代を支払い、ルシュは出口らしき扉に足を向ける。

 まだ時間に余裕はあったが、早めに出発することにした。自分が長居したせいで、この店が吹っ飛ばされてはさすがに寝覚めが悪すぎる。


「お帰りですか?」

「そう、ちょっと急いでてね。早めに迷宮から出たくてさ」

「ああ。なら、地上に直接送りましょうか」

「あはは、そりゃサービスいい――は?」


 ルシュは思わず店主の顔を凝視する。


「……本当に? 地上まで?」

「出来ますよ。お代は別にいただきますけど」


 事も無げに言い放つ様が信じられず、ルシュはまじまじと店主を見つめた。本日二度目の凝視だ。しかし、やっぱり嘘をついているように見えなかった。

 よくよく考えてみれば、そもそも今のルシュは転移系統の魔術が阻害される呪いがかけられているはずだ。なのに、この店まで転移されていた。

 まさか、この店主は財宝の呪いを無効化できるのか?


「……どれだけ払えばいい? 後払いでもいいなら、いくらでも払うけど」


 即座にルシュは判断する。

 本当の話なら、乗らない手はない。地上に逃げられれば、目下の問題はすべて解決できるのだ。幸い、依頼人から受け取った前金もある。足りないなら、支払われる報酬に代金分を上乗せすればいい。


「いえ、手持ちのもので結構ですよ」


 店主が続けた。


「お代は、お客さんがお持ちの宝石ですね」


 唐突に飛び出た単語に、ルシュの胸が跳ねる。

 反射的に、隠しポケットへ伸びそうになった手を彼女は何とか抑えつけた。今そんな真似をしたら、自分がお宝を所持していることを認めるようなものだ。動揺を悟られないように、ルシュは素知らぬ顔で取り繕う。


「……何言ってんの? 宝石なんて持ってないけど?」

「隠しポケットの赤い宝石ですよ。名前は『理外の心臓』とかいったかな」


 完全にバレている。

 隠しポケットの中身に意識を向けながら、ルシュは困惑する。

 店内で宝石を取り出してはいないのに、なぜ分かった? と疑問には思ったが、わざわざ条件に出したということは、少なくとも力づくで奪うつもりはないのだろうと予測する。なら、交渉の余地はあるかもしれないとルシュは思い直した。


「……他のものじゃだめなの? おカネなら――」

「いえ、お代はその宝石でお願いします」


 だが、店主は譲歩しなかった。(かたく)なにお代として要求するのは、ルシュの隠しポケットの中身だ。


「……じゃあいいよ、送ってくれなくても。悪いけど、こいつは渡せないから」


 とうとうルシュも説得を諦めて、店主の提案を断った。

 ここで宝石を手放したら、いったい何のために危険をおかしたのか分からなくなってしまう。持っていれば黄金竜が追いかけてくるまさしく呪いの宝石だが、持ち帰られれば大金に変わる代物だ。

 いくら無事に地上に戻れたところで、手ぶらの帰還では意味がない。


「そうですか。お客さんがそう言うなら、それはそれで構いませんけど」


 意外なことに、店主はあっさりと引き下がった。

 てっきり宝石の存在を知って横取りを目論(もくろ)んでいるのでは、などと警戒していたルシュがかえって拍子抜けするほどあっけない。


「お客さんの選択を尊重するのが、うちの基本方針なので。でも、いいんですか? それを持ち帰るのは、かなり命懸けですよ」

「事情は全部お見通しってワケ? いらない心配だよ。あたいなら誰からだって、風のように逃げてやるさ」


 安全に帰れるならそれに越したことはなかったが、気力も体力も十分に回復している今なら、どんな相手にだってルシュは負ける気がしなかった。


「それに、この宝石持ってたら危険なのはあんただって同じだよ。この店ごと跡形もなく吹っ飛ばされたくないだろ」

「ああ、別に大丈夫ですよ。その心配はしなくても」

「……? まあ、いいや。とにかく、こいつは渡せないから。それじゃ」

「ああ、ちょっと待ってください。今、セレステに送らせますから――」


 ルシュは出口へと向かって歩き出した。

 背後で店主が何か言ったような気もしたが、特に気にせず進んでいく。


 店の扉をくぐれば、外は真っ暗だった。

 しかし、深い闇に包まれながらもその視界は驚くほど良好で、歩行には全く支障がなさそうに見える。見渡す限り一面に満天の星空を思わせる光景がどこまでも広がっており、店の庭に置かれたテーブルの形もはっきり分かるほど見通しがよかった。

 一瞬、迷宮の外に出たのかとルシュは放心しかけたが、星空に似た構造の天井を有する階層なのだろうと思い直す。星に似た発光物から降り注ぐ光のみにしては明るすぎるから、ひょっとしたら月のような光源もあるのかもしれない。

 そんなことを考えながら、一歩を踏み出したルシュが頭上を見上げると、


 ――ヨウヤク出テキタナ、盗人ガ


 月が彼女めがけて墜ちてきた。


(え?)


 そう錯覚した時にはもう、ルシュの身体は大地に強く押し付けられていた。

 仰向けに転がった彼女の身体は巨大な前肢で挟まれ、身動き一つ取れなかった。顔のすぐ横には、鋭い鉤爪が深く突き刺さっている。ほんの少し指を動かされれば、いや、押さえつける圧力を強められるだけで脆弱(ぜいじゃく)な人間の生命など簡単に消え失せることだろう。

 天を仰ぐ格好となったルシュの目に飛び込むのは、大きく開かれた竜の(あぎと)だ。


 ――マサカ、此処ニ逃ゲ込ムトハ……恥知ラズノ盗人ガ!


 黄金にまばゆく輝く前肢の持ち主は、吐き捨てるように侮蔑と憤怒にまみれた言葉を眼下のルシュに向けて言い放った。


(黄金竜? どうして!?)


 追いつくのが早すぎる。先回りされてた?

 いつの間にここに。早く逃げないと。

 いやそんなことはどうでもいい。身体動かない。

 どうにかして逃げる方法を。早く早く早く。


 思考ともいえない千切れた思考がルシュの頭の中を駆け巡ったが、何の答えも得られない。


 ――消エロ


 考える暇すら与えられなかった。

 怒れる竜が端的にそう告げると、ルシュの身体を押さえつける前肢に力が込められるのが分かった。

 握り潰されるか、それとも押し潰されるのか。最悪の末路がいくつも浮かぶ。


(殺される!)


 恐慌状態に陥ったルシュは必死になって拘束から逃れようともがいたが、竜は彼女の抵抗を意にも介さなかった。

 ルシュが全力で暴れようが、竜の前肢に何の影響もなく、手足を動かせるわずかな隙間すら生じない。すがる思いで加護を発動させても、風は竜鱗に弾かれ傷一つ付かない。巌のようなその拘束が緩むことは、決してなかった。


(ダメ……だ……)


 とうとう彼女は悟ってしまった。自分がどうやっても逃げられないことを。

 死への恐怖を和らげる本能か、ルシュの意識がふっと遠のきかける。

 その瞬間だった。


「やめなさい、アザルディース」


 竜の動きが、止まった。

 ぐるり、と長い首をめぐらせ黄金竜が声の主と目を合わせる。

 

 ――止メルナ、セレスティア


「お客様への暴力行為は、看過できません」


 ――コイツハ盗人ダ


「ですが、お客様です。忘れましたか? 御主人様(マスター)との約束を。店での戦闘、お客様に対する暴力行為。全て厳禁です」


 ――ダカラ、外ニ出ルマデ待ッタ 店カラ出タナラ客ジャナイ


「元の場所にお帰りいただいた訳ではありません。無事に退店されるまでは、お客様です」


 ――……マサカ、コイツヲ地上ニ?


「いえ。彼女は自身の命と宝を天秤にかけた上で、宝の方が大事だと御主人様に宣言されましたから」


 薄れゆく意識のなか、ルシュはそんな会話が聞こえた気がした。

 ウエイトレスがその細腕で竜の前肢を持ち上げたのが、確認できた最後の光景だった。のしかかる重圧が軽減されると同時に、ルシュは完全に気を失った。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



「ん……うあっ?」


 ルシュは目を覚ました。

 テーブルにつっぷしていた我が身を起こすと、軽く頭を振って意識を覚醒させようとする。


「ああ、最悪だ。スゴい悪夢……え?」


 呟きが途中で途切れる。

 顔を上げた彼女の視界に入ったのは、結晶化した巨大な珊瑚だったからだ。慌てて首を回せば、三百六十度見渡す限りに巨大珊瑚の森林が広がっていた。

 脳裏に走った嫌な予感を否定するかのように、ルシュは隠しポケットに手を伸ばした。

 そこには何もない、何もないはずだ。そう信じて手で触れる。

 だが、その淡い希望はあっさりと打ち砕かれる。

 ポケットには、確かに固い手触りがあった。


 ――サア、逃ゲテミロ 盗人


 響いた声に、ルシュは文字どおり飛び上がって驚いた。背後で、椅子が倒れる。

 立ち上がった彼女の目の前では、珊瑚に負けず劣らず巨大な魔法陣が展開していた。宙に浮かぶ円形の陣の内で、幾何学的な模様と無数の文字列が何らかの規則性を持って動いている。

 魔術の知識がないルシュにも分かった。これは、転移の魔法陣なのだと。何故なら、その魔法陣から今まさに出てくるものがいたからだ。


 爪が見えた。

 指が見えた。

 前肢が見えた。

 鼻先が見えた

 頭部が見えた。


 なぜだか、魔法陣から出てくるものの動きがとても詳細に見えた。自分を取り巻く世界が粘つきを持ってゆっくりと自分を絡め取っていくような、そんな感覚にルシュは囚われる。


 ――何処ヘデモ、好キナダケ逃ゲテミロ……! オ前ガモウ一度陽ノ光ヲ目ニスル前ニ、報イヲ受ケサセテヤル!


 死の恐怖が一瞬で蘇った。

 のどの奥から声にならない悲鳴が漏れ出す。身体がガタガタと震え出して止まらない。

 恐怖に背中を追いたてられるように、ルシュはその場から逃げ出した。

 

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