そのはち。
「──南々実はさ、将来の僕らの在り方のこと、思い描いてみたことはある?」
南々実が絵描きであることを念頭に置きつつ、僕はそんな問いかけ方をしてみた。
ふぇ、と南々実が咽頭に引っ掛かったような声を寄越してきた。予想外の質問だったんだろう。質問そのものの内容がどうこうと言うより、それが僕の口から飛び出したことが。
「んー、少しはね。あたしなりに、だけど」
膝に乗せた指を何度も組み替えながら、南々実は小さく微笑む。横から覗く立場の僕には、その横顔は照れているようにも、現在進行形で悩んでいるようにも感じられた。
電車の発車を告げる駅のアナウンスが、だんだんと暖まってきた空気の中で遠く聞こえている。
「あたしの父さん、すっごい酒飲みでさ。よく仕事帰りの晩酌に付き合ってたんだよね。だから最初は、ちょっとくらい慣れてるっしょ、程度の感覚で居酒屋のバイト始めたんだ」
「ふうん……」
「居酒屋って面白いんだよ。会社帰りのおっさんたちの話を聞いてるだけでも、絵描きのネタ大量に仕入れられるし」
そんなところでネタを仕入れているから踏切を擬人化しちゃったりするんじゃないか、などと突っ込む勇気は僕には出ない。
「でもあたし、最近はバイトじゃなくて正社員として勤めてみたいなって思うようになってきて」
「店長を目指すってこと?」
うん、と南々実はうなじの髪を掻き上げた。
「店長クラスになれば収入も安定するし、ある程度の身分保証にもなるじゃん。それに何だかんだ言って、バイトってやっぱり非正規雇用だもんね。子育てとかを視野に入れるなら、不安定な仕事のままでいたくないし」
僕は思わず腰を浮かしそうになった。
子育て、なんて言葉を南々実の口から聞く日が来るとは思わなかった。てっきり南々実、そういうのには興味を持っていないと思ってたのに。それ以前にまだ結婚すらしていないのに。
「何?」
「あ、いやごめん。何でもない」
「北杜は子ども、欲しくない?」
わざと濁した部分を無邪気に的確に突いてくる南々実が、ときどき怖い。ため息をひとつこぼした僕は、そりゃ、と言葉を繋いだ。
「欲しいと思ったこと、ないでは、ないけど」
「そっか。よかった」
南々実の横顔が、また僅かに紅くなる。僕も紅くなっているような気がする。
子ども云々の話だからじゃない。こういう話をゆっくり一緒にするのが、あまりに久しぶりに思えたというか──下手すると初めてなんじゃないかと思うくらいだったから。
そうか、知らなかった。南々実も子どもが欲しいって思ってたんだな。そうなると僕だって、いつまで経っても今と同じような不規則で不安定な日常を送るわけにはいかないよな……。
南々実の働く居酒屋を駅前広場越しに見透かして、僕はその向こうに広がる空へと目をやった。隣町に建つ超高層マンションよりも高い、青い空を、スズメが甲高い声で鳴きながら飛んでいく。
「あ、でも」
南々実が風景に割り込んできた。
「北杜は別に安定した職に移ろうとしなくたっていいからね」
「え、なんで」
「あたしは好きでバイトから正社員に移りたがってるだけだもん。好きでもないこと、やりたくないでしょ?」
「そりゃそうだろうけど、いざ子どもが生まれてから安定した職場を探そうとするんじゃ、遅いだろうし……」
「だからあたしが正社員になるんじゃん。あたしが忙しくて子育てに参加できそうになかったら、北杜には問答無用でイクメンになってもらうよ」
そうなる未来が早くも空の彼方に透けて見えるように思えてしまうのは、僕が南々実の無茶振りにすっかり慣れきっているからなんだろうか。でも、朝食の目玉焼きに塩や胡椒を山のように盛られるのに比べたら、イクメンに励む日々もずっと楽しいかもしれないな。
それにさ、と南々実は呟いた。目線が少しだけ、足元に向かう。
「そんなに急ぐ必要もないって思うよ、子どもを持つのも結婚するのも。子どももいなくて仕事も安定しない、そんな今でもあたしは十分に楽しいし、幸せだから。せっかく二人きりの生活なんだもん、そこにしかない幸せを見出だすのに時間をかけたって、誰にも咎められることなんかないって思わない?」
「今、幸せ?」
「当たり前じゃん」
何言ってんのとでも言いたげに、南々実はクスクス笑って肩を震わせる。
適当に付き合い始めたことで生まれた、この関係。いつしかその不確実さに、僕は不安を覚えるようになっていたのかもしれない。
初めてできた彼女も、初めて好きになった人も、南々実だったから。
特別なきっかけなんて、何もないんだ。強いて言うなら、南々実の言う通り──目覚めと落ち着きを求めてコーヒーを口にしたことが引き金だったんだろう。これまで何とも思ってこなかった自分の生き方に、ふっと疑問を抱いてしまった。奔放な生き方をするのも、かっちりした生き方と同じくらい疲れるんだってことに、いつしか気付いてしまっている僕がいる。
だけど僕の隣には、南々実がいる。ただの同居人じゃなくて、家族候補の彼女がいる。どうせ自分ひとりで抱え込んだって、解決できる見込みなんて持てないんだものな。
後ろから昇ってきた太陽の光が、ベンチに腰掛けた僕と南々実の影を地面にぺたりと貼り付けていた。アパートの部屋で気楽に寝泊まりしている時にはまず見ることのない、二人並んで寄り添う僕らの姿がそこにはあった。
らしくないなぁ、なんて思ってみる。足元に歩み寄ってきたスズメが、僕らを見上げて小首をかしげていた。
ふぁあ、と大あくびが出た。しかも南々実と全く同じタイミングでだ。また顔を見合わせた僕は、南々実の噴き出した息を盛大に食らった。
「てか、今更だけど北杜、そんなことで朝っぱらから仏頂面して悩んでたの!? すっごい笑えるんだけど! あははっははっ」
仏頂面をした覚えはない。それともコーヒーを飲んでいる時の顔付きのことだろうか。
「別にいいだろ、たまにはそういう真面目な悩みに頭を捻ったって」
さすがにむっとして言い返したけど、南々実の笑いはいっこうに収まらない。駅前の交番からお巡りさんが顔を出して、何事かとこっちを睨んでいる。
ひとしきり笑い終えた御仁は、僕の目の前に両足を投げ出した。
「あー、面白かった。朝ご飯に胡椒を大量に摂取するとセンチメンタルになっちゃうんだね、怖い怖い」
誰がそれをやったと思ってるんだ、この野郎──いや女郎。
ニヤニヤ笑いながら南々実が僕を眺めている。そうだ、すっかり忘れていたけど僕、こいつに朝の胡椒の仕返しを企んでいたんだった。何をしてやったら南々実をびっくりさせられるだろう?
「……南々実」
少し考えを巡らせた僕は、出せる限りの低い声を出す。ドスが効いている気はしなかったけど、南々実の笑みに微かな緊張が走ったのは確認できた。やったぞ。
「ほ、北杜?」
尋ね返そうとした南々実を、思いきり抱き締めた。
目を丸くした南々実が、腕の中で暴れている。もっと足掻け南々実。これでも体格は僕の方が若干上なんだからな、アルバイトで警備員をやってるこの僕から逃れられると思うなよ。
「ちょ、ちょっと待って、通行人が見てる! あたしの職場からも見えてる!」
「…………」
「って、寝息立ててるし! 寝てんの!? 嘘でしょ!? 起きてよ起きなさいってば!」
「…………」
喚いたって起きてやらない。コーヒーを飲みながらでも白日夢を見る僕が、これしきで起きるもんか。さっきの南々実の言葉が僕にとってどれほど嬉しかったか、羞恥心に包まれながら骨の髄まで思い知るがいいんだ。
もっとも、頭を撫でたり肩に触れるくらいのことは普段からよくあるけど、抱き締めるのはさすがに久方ぶりで、南々実の身体の温かさに驚いているのは僕も同じだった。この温もりが南々実の側にも伝わっていると信じたい。だけど耳まで紅くなっているのを見ると、南々実の方が今は体温、高そうだ。
「……そろそろ止めないと、あとで北杜のパソコンの履歴から発掘したエロサイトのURL、片っ端から印刷してアパートの壁に貼り付けるから」
じたばたしなくなったと思ったら、南々実がとんでもないことを言い出した。
あ、やっぱりこいつ僕のパソコンを漁ってやがったんだな……! さすがにそんなことをされたらたまらない、僕は慌てて南々実を解放した。不敵に口元を歪める南々実の顔が見えて、なんだかしてやられたような気分になった。
「チョロいね、北杜」
「……うるさい。もう一回やるぞ」
「印刷」
「ごめんなさい」
速攻で謝る。すぐ横を通り過ぎたスーツ姿の会社員が、頭を下げた僕を不審物でも見かけたような目付きで眺め回していく。
僕が紳士になれる日は、まだ遠そうだ。改めてそう思わされた。
行こう、と南々実がベンチを立った。どこにと問う前に、南々実の指は高架下のお店を指し示した。
「買い物、するんじゃなかったの?」
忘れるところだったよ。
「ついでに夕食も買いたいな。バイト、夜までかかるだろうし」
「さっさと済ませて、さっさと帰ろうね」
「なんで?」
何気なく聞き返すと、南々実は微笑みを浮かべた。頬にまだ、赤みが残っていた。
「……家でだったら、もうちょっとだけ、許してあげるから」
好きなことに好きなだけ興じることのできる、不安定な、けれど楽しい今の生活。
長い人生を通してみれば、きっとそんな今は例えるなら白日夢に耽っているような、現実と現実の狭間の休息のような期間でしかなくて。
だけど目が覚めた時、手元にどれだけの結果や達成感、それに幸せが残されているか──それが、夢の真価を測ってくれる指標になるんだろう。
その先に南々実と、或いは彼女との間に生まれた子どもとの日々が間違いなく待っているのなら、今はもう少しだけ、この世界にいたい。やりたいことの中に身を置いて、何かしらの成果や目的を見出してみたい。だってコーヒー一杯のカフェイン如きじゃ、僕の夢は醒めたりしないんだから。
高く昇った太陽が、地上の気怠さをどこかへ押し流していく。いっときの解放感と自由に包まれて、閑静なこの町にも昼間の賑わいが顔を出し始める。
その前に二人で買い物をして、アパートに帰った。
久しぶりに手を繋いで、足並みを揃えて。「そう言えば北杜、先月あたしが貸した飲み会代の二五〇〇円は?」「ごめん来週返す」「へーえ。じゃあ来週返ってこなかったら……」「その時は目玉焼きにワサビ練り込んでもいいよ」「言ったね? 北杜が悶絶して泡吹くくらい練り込むから覚悟しなさいよ」「……それもう遊んでない? 制裁の域を逸脱してないか?」──なんて、普段通りの他愛のない会話に花を咲かせながら。
バイトのことも仕事のことも忘れて南々実との時間を楽しめる幸せを、ちょっぴり奥歯で噛みしめながら。
日曜朝の白日夢はまだ、もう少しだけ終わらないでいてくれるはずだ。
お読みいただき、ありがとうございました!
本作『日曜朝のDaydream』は、最近なんとなく気持ちの余裕がないように感じていた作者が「自作小説の中くらい、のんびりしたい!」という謎の心境に陥ったために書いた作品です。本当です(真顔)
作中では具体的には触れていませんが、舞台は東京都小金井市の梶野町だったりします。東京とは思えないほどのんびりした景色の街で、なおかつ学生も多いので、もしかしたら北杜や南々実のような生活を送るカップルが実際にいるかもしれませんね。ちなみに本作はフィクションです。
気持ちの余裕は生活の余裕から生まれるものだと思います。何もない日曜日の朝くらい、何も考えずにのんびり、してみませんか?
感想、レビュー、ポイント評価、よろしくお願いします!
2016/12/18
蒼旗悠