そのなな。
「北杜はさ、面倒じゃないの?」
不意に南々実が尋ねてきた。何がと問い返すと、南々実は僕のバイト先のある南の方角に目をやる。バイト先のスタジアムまでの距離は五キロほどだ、通勤には原付が欠かせない。
「わざわざ調布の西東京スタジアムまで行ってバイトするの、面倒じゃないかって」
「そりゃ面倒に決まってるだろ。遠いし。でも最近はすっかり慣れてきたから、面倒でもいいかなって気がしてる。色んな景色が見られるからアイデアの当てになることもあって、案外悪くもないんだよ」
「そっかぁ、慣れかぁ」
しみじみと呟いた南々実は、思いきり腕を天に突き上げて、力一杯伸びをした。
僕は南々実に手を差し伸べた。大学に行きたくなくて勘当されそうなら、うちに来るかって。
バイトに励めば自活は十分に可能だし、新しく家を探す手間もない。そういう意味では名案だったかもしれないけど、そもそも僕と南々実とは先輩と後輩の関係だ。しかも性別が性別だから、ほぼ確実にカップルの同棲みたいな日常を送ることになるだろう。だからまさか真に受けることはないだろうと思っていたら、南々実はあっさりと同意してしまった。
その上、こう言い放った。
『どうせ一緒に暮らすなら、先輩と付き合ってることにしちゃいませんか?』
あれ以外、告白らしい告白を南々実から聞いたことはない。頷いて付き合うことにしてしまった僕も僕なんだろうが、あんなに適当な理由で先輩を彼氏にしようとする女の子も滅多にいないんじゃないか。
結局、僕と南々実は恋人になった。そのうち大学の授業に物足りなさを感じるようになった僕は、大学を中退。そのまま何となく南々実と付き合い続けて、何となく今に至る。
真面目に働くのが『面倒』だから、お互いバイトに身を捧げて。
同居するのに他人行儀な関係を維持するのが『面倒』だから、カップルになって。
そうして僕と南々実は、隣に座っている。ついでに暴露すると、面倒が高じて性交渉すらほとんど何もしていない。南々実は初めてだと言っていたし、痛がるところはそんなに見たくないなって思う。……違う、僕は断じてヘタレじゃない。
面倒と妥協の積み重ねの果てに鎮座する今の生活は、確かに一見すればすごく安定していて、何も問題がないように感じられてしまう。本当は未来展望も保険もない、アリの穴ほどの綻びから崩れてもおかしくない生活なのに。
南々実はそのことに、気付いているんだろうか?
僕だって最近になってようやく気付いたのだから、人のことは何も言えた立場ではないんだけど。
いきなり頬に激痛が走った。南々実が僕の左の頬をつまんで、楽しそうにつねっている。
「痛い痛い、何すんだ」
「また白日夢の世界に飛ぼうとしてただろー。ここは現世だぞ、夢から覚めろー」
「もともと起きてるし……」
やっと指を離してくれた。痛む頬を押さえながら嘆息した僕のすぐ横に、ぴったりと南々実が寄り添った。
仄かな温もりが、コート越しに伝わってくる。ああ、あったかい。女の子の身体って、あったかくて柔らかい。急にどうしたんだろうと思ったけれど、それを口に出すよりも南々実が話を切り出す方が早かった。
「北杜、悩み事があるんでしょ。あたしさっきからずっとそう思ってたよ」
「……よく分かったね」
「何年同じ道を歩いてきたと思ってんの? 言っとくけどあたし、北杜のことは他の誰よりも詳しい自信あるからね。具体的に言うと北杜が隠してるつもりの性癖だって知ってる」
ちょっと待て、いったいどこで知ったんだ。勝手にブラウザの閲覧履歴でも覗いたんじゃないだろうな。
得意気な顔になった南々実は、すぐにその表情筋を元に戻してしまった。僕も真顔でいた方がいいように感じて、ハの字になっていた眉毛を平行に直そうとしてみる。
「北杜ってさ、いつもは適当なくせに、コーヒー飲むと芸術家気取りになって真面目に物思いに耽っちゃうような人じゃん?」
「南々実お前、もう少し言い方ってもんが……」
「どうせなら北杜も、芸術家じゃなくて紳士を目指したらいいんじゃない?」
アパートの部屋で南々実が言っていたことが、頭をよぎった。紳士は頭空っぽみたいな顔をしてなきゃね、なんて言っていただろうか。山盛りの胡椒のせいで記憶が正確に思い出せない。
「紳士は頭空っぽそうに見えるけど、本当は色んなことを考えてる人種なんだと思うんだよね。ヤバいことになっても決して動じない。平静を保ちながら、そうでなくても装いながら、頭の中では落ち着いて色んなことを考えられる。だからカッコいいし、みんな憧れるんじゃん?」
一本指を立てた南々実は、ねっ、とばかりに首を傾げた。すかさず僕は反駁する。
「その紳士に僕はなれないって言ったの、南々実だぞ」
「うん。北杜が紳士っぽく振る舞うとか、可笑しすぎてお腹よじれる」
罵倒する言葉を一切使わずに精神を叩きのめすんだから、南々実は何かの天才かもしれない。ぜんぜん嬉しくない。
でも、どうしてだろう。南々実の言いたかったことが、こんな鈍い僕にも少しばかり、見えた気がした。
「紳士になれないうちは、悩みも不安もひとりで抱え込まないでほしいなって思うよ、あたし。だってせっかくカレカノになったんだし」
駅に出入りする十両編成の電車を眺めながら、南々実は膝の上で指を組み合わせた。僕も真似して、手を組んでみた。
せっかく、カレカノになったんだし。
同じポーズを決めながら同じベンチに座る僕たちは、果たしてよその人からもカレカノに見えるんだろうか。いずれは家族に見えるようになるんだろうか。きっと今はまだ、見えないに違いない。その理由はたぶん、ポーズとか位置関係ではなくて、その奥にじっと座っている別の何かだ。




