そのろく。
アパートを出て、鉄道の通っている南に向かって二人で歩いた。朝の日差しはまだ厳しくもなく、低い町並みを越えて僕たちをふんわりと照らし出す。
照らし出さないでほしいのが本音だった。僕も南々実も、部屋着の上からコートを適当に羽織っただけで、他人に見られることをまるで考慮していない。と言うより面倒くさかった。
「やっぱ、日曜日なんだな」
人通りの少ない道路を見つめながら、僕は呟いた。普段は狭くて危なく感じる歩道が、しっとりと湿り気のある冷気に包まれた今朝は、かえって何だか無駄に広く見える。
「スーツの会社員が全然いない」
「大学生もいないしね」
南々実が続けた。僕たちのアパートの少し北には、私立大学の理系学部がキャンパスをどんと構えている。この辺は何かと大学や中高が多いみたいだ。
「あたしも大学に通ってたなら、今頃は洒落たカフェでスムージーでも啜りながらきゃぴきゃぴした可愛い子たちと笑い合ってたのかなぁ」
「スムージーより野菜ジュースの方がお似合いだけどな、南々実は」
笑った瞬間、南々実に尻を蹴られた。なんだよ痛いな、南々実に言われたことを意趣返ししてやっただけだろ……。
それに南々実は、そもそも大学を受験すらしていない。元から行く気もなかったと、同棲を始めた時に話していた。
怒っているのか、南々実の歩幅が大きくなった。蹴られたダメージをじんじんと感じながら後ろを追いかける僕には、その様はむしろ楽しそうにも見えた。
「どこまで行こうか」
尋ねられた僕は、そうだな、と少し考える。
「ついでに昼の買い物もしたいし、東小金井駅まで行こうか」
「えー嫌だよ、それあたしの職場の目の前じゃん」
「別にいいだろ。まだ開店時間前なんだから」
まあね、と南々実は答えた。頭の後ろで束ねられた髪が、ぴょこんと揺れて代わりに返事をしてくれた。
普段は誰もが仕事や学業に励んでいるせいもあるのか、日曜朝のこの町を漂う空気はどうも気怠げだ。でも、せかせかしているいつもの空気より、僕はこっちの方が性に合っている気がする。何よりあのアパートの部屋の雰囲気に、酷く似ている。
寄り添うでもなく、ましてや手を繋ぐでもなく。
二人で並んで、駅を目指した。
僕と彼女の最初の出会いは、中学校の美術部だった。僕が二年生の時に南々実が入部してきて、そこで初めて顔を合わせたのだ。
絵を描くのが好きだと言っていた南々実は、事実、入部して半年後には部誌の扉絵を任されるほどに上達した。僕がデザインという漠然とした概念に向き合っているうちに、南々実はさっさと自分の進む道を思い描いてしまっていたわけだ。それは高校受験に関しても同じで、直前まで勉強をサボっていた僕のすぐ横で、南々実は二年生のうちから受験勉強を始めていた。
そして南々実は、僕が第一志望として受かった高校を滑り止め受験して、入学してきた。
『本命には手が届かなかったんですよー、あはは』
中学と同じように一年上の先輩として部室で出迎えた僕に、南々実は笑いながらそう話していたっけ。滑り止め程度にしか思っていなかったんですよという感情と、だけど夢に破れちゃいましたという感情。背中合わせの感情に挟まれているように見えて、南々実は何だか寂しそうだった。
たぶん、それからだろう。南々実のことを後輩ではなく、女の子として感じるようになったのは。
その後、手探りでデザインという芸術に取り組み始めた僕は、専門の教育を受けてみたくなって芸術系の大学を受験、合格。親元を離れて今のアパートに引っ越した。実家のある埼玉県の景色に似ていたからか、独り暮らしにはすぐに慣れたように思う。環境が似ていることって、きっととても大切なんだろう。いくつかのバイトを転々とした挙げ句、今のように警備員のアルバイトに精を出すのが合っているように感じて、最終的に今の職場に落ち着いて。そんな風にして僕の生活基盤は着々と組み立てられていった。
ただひとつの誤算は、一年後、南々実との同棲が始まったこと。
市が区画整理事業を進めているという駅前の風景は、変にだだっ広いばかりで何もない。申し訳程度に置かれたベンチに、二人で座る。
「冷たっ」
南々実が腰を跳ね上げた。
最近寒くなってきたしな、と僕は苦笑する。おっかなびっくりベンチを睨みながら腰かける南々実が、滑稽だ。コーヒーを飲みながらしかめ面をするどこかの誰かに似ている。
「ほんと、いつ来ても何もないよね、ここ」
勤め先の居酒屋の入るビルを、南々実は目を細めて見ていた。
「北杜が東京で独り暮らし始めたって聞いた時は、どんなセレブな生活してるかって思ったのにな。北杜先輩には田舎が似合うよねって同学年のみんなは笑ってたけど」
「誰が言ったんだ、それ」
「最初に言ったのはあたし」
「おい……」
その人物評がどこから導かれたのか、小一時間問い詰めてやりたい。けど、南々実が本気でそう言っているようには思えなかったから、僕は憮然とするだけにとどめておく。
だからさ、と南々実は続けた。
「初めてここに来た時、あたし唖然としたよ。東小金井の田舎たるや、東京のくせに十階建てのマンションすらほとんどないなんて!」
「その割には、華やかな都心で働こうとはしないじゃん」
「だって遠いし面倒じゃん」
口調がかぶって、二人で顔を見合わせて笑った。
笑いながら、そう、と思った。
面倒──僕らの心はきっと、この一言にお互いの距離の近さを見たのだと思う。
元はと言えば南々実と付き合うことになったのも、その言葉が発端だ。大学一年の冬も終わりかけのある日、唐突に電話をかけてきた南々実は、電話口で言い放ったんだ。
──『あたし、大学受験するつもりないんですよ。興味の湧く学問が見つからなくって。学びたいこともないのに受験勉強で苦しむの、面倒くさいじゃないですか』
『東京芸文大じゃダメなのか?』
──『それじゃまた、美術部で先輩にお世話になっちゃいますけど』
別にそれは構わなかったんだけどな、なんて思ったもんだ。中学でも高校でも一緒になって、この頃にもなるとさすがに僕も、南々実との間に腐れ縁のようなものを感じていたから。
ところが南々実の問題は、もう少し重大なところにあったらしい。南々実は暢気に笑いながら、続けざまに恐ろしいことを口にしたんだ。
──『それであたし、大学受けないって親に言ったんですよ。そしたら親が、大学に行かないなら自活しろ、勘当するとか言い出して。でもイチから家とか仕事を探すのって面倒だし、どうしようかなって思って』
……今にして思えば、あれが南々実の口から“面倒”というフレーズを耳にした最初の機会で。
それと同時に僕と南々実の関係が、今のようになった最初の瞬間でもあったんだ。




