そのご。
……そうか。そうだよな。
お金もなければ予定も合わないし、そりゃ旅行なんてできるはずもないか。
どうして今さら初めて知ったような気がしてしまうんだろう。デスクトップの風景画像を消してしまいたくなって、僕はデザイン用のソフトを起動した。何も描かれていない真っ黒な空間が、画面のど真ん中に浮かび上がる。
「お、今度こそ依頼でも来たの」
可笑しそうに南々実が問いかけた。僕は全く笑えないまま、答えた。
「違うよ」
違う理由まではわざわざ説明したくない。っていうか、同じ質問をさっきも受けた気がするぞ。煽っているつもりか南々実の奴め。
黙ってパソコンの画面を眺め続ける僕は、南々実の目にはどんな風に映っていたんだろうか。ずりずりと重たい音がして、見ると南々実は布団マントを巻き付けたまま僕の隣に膝で立っていた。
何か言い訳をしなければならないような気持ちに駆られて、僕はコーヒーに手を伸ばす。いい塩梅に冷めてきていた。
「ねー、昔の作品とか見れないの?」
マウスを握った南々実が聞いてきた。見れるよ、と返した。昨日までの何年かで作ってきたデザインはみんな、過去作のフォルダに入っている。
「へぇ、ちょっと興味あるな。見てみたい」
「南々実のイラストは見せてくれないの?」
「あたしのは趣味だから下手くそだし」
捕まえようとした手を器用にすり抜ける猫のように、南々実はさらっとそれだけ言ってパソコンに手を伸ばした。南々実はどうしてか、いつも絶対に自分の作品を見せてくれない。
僕たちの関係って、いったいどうなっているんだろう?
僕はため息をコーヒーの中に放り込んだ。無邪気にマウスを動かしながら、へー、これってこうなってるんだ、と歓声を上げる南々実をぼうっと見ていた。
なぜだかその時、感じた。
実のところ自分は、本当は南々実のことを何も知らないんじゃないか──なんて。
南々実が顔を覗き込んできていた。
「うわ」
驚いてコーヒーを落としそうになる。マウスにしっかり指は置いた状態で、南々実は言った。
「どうしたの。白日夢でも見てた?」
「白日……何、それ」
「真っ昼間に見る夢のことなんだってよ」
ああ、それなら見ていたかもしれない。夢と言うか、幻想と言うか。
指を口元に当てた南々実は、クスクスと肩を震わせる。
「目を開いたままコーヒー飲みながら夢見るなんて、カフェインったら何も仕事してないね」
「カフェインが知り合いみたいな言い方だな」
「当たり前じゃん。カフェインさんは北杜より何倍も紳士なイケメンだよ。比べるのも失礼なくらい」
あ、言ったなこいつ。それともアレか、南々実は実際にカフェインを擬人化した絵でも描いていたのか。前に『桜の花弁の擬人化』とか『踏切の擬人化』なんていう意味不明のイラストを描いていたこともあったし、南々実ならやりかねない。
「疲れてたんだよ。たぶん」
そう言って、コーヒーを一気に飲み干した。イケメンなんて胃の中で溶けてしまえばいい、と思った。
コトン、とカップが机に接する音が、狭くて広い部屋の中に響く。その残響が消えないうちに、南々実がまた、口を開いた。
「ね、北杜。どうせ午前中はニートなんでしょ」
「失礼な、就労意欲はあるからニートじゃないだろ。それに僕が警備してるのは人々の集まるスタジアムだ」
「んで、夕方まではあたしもニートだし」
「当たり前のようにスルーするなよ……。あと勝手に仲間にカウントするな」
「いっつもスルーされてるようなもんでしょ。それより、頭空っぽのニートになった気分で、ちょっとお出掛けでもしない?」
まず、その本題から先に切り出してほしかった。
僕たちの住む町は、東京都庁のある新宿から電車で三十分かからないほどの、そのわりに発展していない静かな場所だ。
両隣の駅前に巨大なスーパーがあるし、さらに足を伸ばせば繁華街だってあるから、なんだろうか。電車に乗って車窓を眺めていても、この駅のあたりだけが際立って何もない。見当たるのは広大な敷地の理系大学やら、グラウンドやら、あとは低層の家々の屋根ばかり。そんなこの町に僕が住んでいるのは、通っていた芸術系の大学が近かったからだ。
東京は何かと家賃相場が高い。不便には目をつぶるから少しでも安く──なんて妥協を繰り返した結果、この町にたどり着いた。そしてそこに、南々実が転がり込んできたというわけ。
『北杜が誘ったんでしょ』
こういう話をすると、決まって南々実は口を尖らせる。