そのよん。
昔から、奔放というか適当というか。
『やりたいことさえやれれば、それでいい!』
そんな性格に育ったのが、今の僕だ。
中学の時に入った美術部で、初めてデザインという世界に出会った。機能美っていう言葉があるように、美しさは必然性や必要性の先に成り立っていることが多い。だからこそ、山のような必然性の果てに成り立っている自然界というのは美しいわけで、その美しさを人間が人工的に作り上げる『デザイン』という名の芸術に、十三歳の僕は心を惹かれたんだ。
それからはどんどんデザインや絵画や美術にのめり込んで、のめり込みすぎて目の前が見えなくなった。受験勉強を疎かにしていたせいで高校はスレスレ合格だったし、つらい受験を乗り越えてせっかく入った芸術系の大学も、何だか退屈に感じてしまって二年で中退した。警備員のアルバイトは拘束時間こそ長めだけれど、時給は悪くないし、難しいことだって要求されない。
好きなことだけをして、好きなように生きてみたい。最初にそう考えたのは、確か高校に入学する前のことだったかな。
先の見えない生活は悪くない。先を見ようとして頑張ると、疲れてしまうから。
だけど最近になって、闇雲にがむしゃらに目の前だけを見続けて生きるのも、本当は同じくらい大変なことなんだと思うようになった。
窓の外でスズメが鳴いている。すっかり冷めたコーヒーのカップを手のひらで擦りながら、僕は空色の窓をぼんやりと見つめた。
東京にだって色んな種類の鳥が棲んでいるけど、朝の風景に似合う鳥はどれかと聞かれたら、大半の人がスズメを選ぶんじゃなかろうか。昼下がりはカッコウやトンビ、夕方はカラスだな。夜に似合うのはコウモリだろうけど、そもそもあいつは鳴かないし、根本的に鳥ですらない。
スズメにとって、朝のこの時間帯は過ごしやすい時間帯なのかな。僕や南々実はどうだろう。そう思って南々実を見下ろすと、頭の先まで布団にくるまりながらすやすやと寝息を立てている。何だよ、やっぱり二度寝じゃないか。
南々実はどう見たって、夜行性。
僕はいつを中心に動いているんだろう?
ふと疑問に思った途端、机の上のスマートフォンが光り出した。電話だ。
「もしもし、前原です。──あ、お疲れ様です。今日ですか、暇ですけど。──あ、はい、十五時から西東京スタジアムですか……。分かりました。行きます」
画面に表示された電話番号を一目見た瞬間から、事情は分かってしまっていたけど。それでも苦い息を吐き出したくなる。……予定外のシフトが入ってしまった。
隣の市のスタジアムで、今日の夕方から──いやカラスが家に帰る頃から、どこかのアイドルがイベントを実施することになっている。そこのシフトに空いた穴を急遽、僕が埋めることになってしまったらしい。
スマホをポケットに突っ込んだら、無性にまたコーヒーが飲みたくなった。急いで淹れようと、水を汲みにシンクへ向かう。向かいながら、またこれだよ、なんて呟いてみる。
スタジアムの警備員は基本、そのスタジアムでイベントがある時が仕事だ。シフトは事前に決めておくんだけれど、病欠などで何かの拍子に欠員ができてしまうと、休日のつもりで仕事を入れなかった僕みたいなのに代替要員の役割が回ってくる。警備には最低限、確保しなきゃならない人数が決まっているから、斡旋する側もどうにかして人手を確保しようと躍起になるんだ。
イベントの時間帯は決まっていない。中には朝から晩まで犠牲にするようなのもあれば、日の落ちた夜から始まるものもある。そりゃ、生活リズムが一定にならないわけだよ。
「ま、いいけどさ……」
どうせデザインの仕事だってないし、やりたいことがあるわけでもないし。──独り言を口にしたら、コーヒーから漂う香りがふわりと苦くなった。
今はまだ、僕もこうして警備員の仕事を続けていけるだけの体力がある。南々実だって居酒屋のアルバイトを頑張ってくれているし、二重の収入源を持っている我が家は当分、生活苦とは無縁でいられそうだ。
でも、こんな生活をいつまで続けていられるだろう?
僕だっていつかは体力の衰えが来る。南々実との間に子どもが欲しいって思うこともある。そうなった時、この家を支える柱は誰になるんだろうか。もっと安定した収入を見込める、安心して身を預けられる職場を探していかなきゃいけないんだろうか。
そういう心配事を何もかも『面倒だから』と言って切り捨ててきて、今の僕たちがここにいる。この瞬間だけは気楽でいられるけれど、先の見えない危ない生活。
ねえ、南々実。
君はそんな心配、持ったことないかな。
僕は一度もそういう話、したことなかったと思うけど。お互い定職に就くのが嫌だったからな。そういう話題をわざと避けているのは、南々実だって同じだろ?
コーヒーを啜る。
「あちっ」
いきなり呻いた。しまったな、少しくらい冷ませばよかった。舌先に鋭い痛みが走って、慌てて僕はカップを唇から引き離す。
お洒落にコーヒーを飲む姿が似つかわしい紳士に、いつか僕もなれるかどうか。以前、南々実にそう話し掛けたら、その場で『無理無理』と鼻で笑われた。
『だって北杜、いつもいつも眉間にシワ、寄せてるじゃない。例えるならそうだね、小難しいことを考えてる芸術家みたいな。紳士はもっとどっしりしてるって言うかさ、頭空っぽみたいな顔をしてなきゃでしょ』
南々実の主観だって多少なりとも歪んでいる気がするのは、僕だけだろうか。とは言え、妙に納得させられてしまったように感じて、それから僕は思い出した時にコーヒーを飲みながらパソコンの画面を覗き込むようになった。ブラックアウトしたディスプレイには、熱さに顔をしかめる滑稽な僕の姿がよく映っている。
紳士な僕と、芸術家な僕と、南々実はどちらの僕を好いてくれるかな。少なくとも彼女と出逢って以来、僕は一瞬たりとも紳士であったことはないわけだけど。
そう思いながら、布団お化けに視線を向けた。南々実は再び目を覚まして、怨めしそうな表情で僕の右手のカップを睨んでいる。
「だからコーヒーの香りなんか漂わせるなって言ってんでしょ。目が冴えちゃうじゃん」
「それじゃ、どこで飲めばいいんだよ」
「ベランダか玄関の外」
この御仁はコーヒー飲むためにわざわざ家出しろと言いたいらしい。不機嫌な顔付きの南々実は無視して、僕はコーヒーをまた一口、啜る。まだ熱い。
朝食前に僕をトイレの中に幽閉して着替えを済ませた南々実は、今はだらんとした大きめサイズのTシャツにスウェットパンツなんていう、如何にも部屋着然とした姿に変貌している。別に大層な化粧をするわけでもないんだから、着替えのたびにいちいち僕を遠ざけなくたっていいのに。夫婦ではなくあくまで、彼氏と彼女。トイレのドア一枚分の境界線は、僕らの間に横たわる関係の現実を表しているんだろうか。
「あのさ」
パソコンの画面に映った紅葉の美しい渓谷を、僕は南々実の方に向けた。たぶん秋川か等々力だろう。無限に鮮やかな色たちが重なり合う紅葉の景色は、デザインを作る上では最高レベルに再現が難しい。
「たまにはこういうところ、旅行してみたくないか。同棲してるんだし」
「何、その取って付けたような『同棲してるんだし』」
布団をマントのように纏いながら、南々実は真顔でボディブローみたいな言葉を繰り出してきた。うっ、そこを突っ込まれると痛い。脇腹あたりに命中した気がする。
「いや、だってほら、今日みたいに二人ともゆったりできる休日、なかなかないだろ」
「お金の余裕だってないのに?」
今度はアッパーを食らった。顎って言うか、そこを貫通して心に突き刺さった。事実を突き付けられるとぐうの音も出ない。我が家の懐が寒いのは、僕だってきちんと把握していたから。
ぐったりと背もたれに身体を預けた僕を、南々実は猫のように見回した。
「それにあたし今、眠ってたわけじゃないからね。電話も聞いてたよ。仕事、入ったんでしょ?」
「……うん」
「なら休日じゃないじゃん。ちなみにあたしも、夜はバイト入ってるよ」
「ちょっと待てよ、それは聞いてないぞ」
バイトのシフトの情報は二人で共有する約束だったはずなのに。
「言い忘れてた」
舌をぺろっと出す南々実が不覚にも可愛くて、思わず許してしまいそうになる。ちくしょう、女って卑怯だぞ。お返しのジャブが何一つとして思い浮かばない歯痒さに、僕は無意識にパソコンの方へと視線を逃がしてしまった。