そのさん。
一通り家事を済ませてしまっても、時計の針はまだ午前八時を回ってすらいなかった。やっぱり起きるの早すぎたー、なんて嘆きながら南々実が布団に潜り込む。
「二度寝?」
「不貞寝」
何に不貞腐れたって言うんだ。仕事用の椅子を引き寄せて腰掛けると、淹れ直したコーヒーを僕はそっと啜る。それからパソコンに向き合って、デスクトップ画面を眺めてみる。
二十秒サイクルで変化するデスクトップの背景には、日本や世界中の美しい景色が代わる代わる映し出されるように設定してある。そういえば南々実と旅行、してみたいな。したことなかったな。緑の萌える三宅島あたりの風景が現れて、ふっとそう思った。
「依頼でも来たの?」
南々実が布団の中から尋ねてきた。僕は椅子をちょっと動かして、ウィンドウが一つも表示されていない画面を見せる。
「何も来てないよ。ぼーっとしてた」
「やっぱ日曜日の朝っぱらから底辺デザイナーさんに仕事を頼むような酔狂な真似、誰もしないんだね」
「仕事でイラストを一枚も描いたことのないどっかの南々実よりマシだな」
「うるさい。あたしは趣味でやってんの、自称プロの北杜とは違うの」
「へぇ。その割に、成功報酬のことはしっかりTwitterに書き連ねてるみたいじゃん」
「見たな────!?」
枕が飛んできた。いや、お互いの趣味アカウントを相互フォローしておいて、今さら何をそんなに。
布団から顔だけを出した南々実の姿は、まるで何かの漫画に登場する手足のないお化けのようだ。そのお化けがゴロゴロと重そうに回転しながら、枕打撃の痛みをこらえつつコーヒーを口に含んだ僕の顔を、懸命に覗き込もうとする。
「暇そうだね」
「余計なお世話だよ」
「北杜も布団、おいでよ」
「僕まで布団お化けに転生したら、この家の秩序を保つ人がいなくなるだろ」
何それ、と南々実が笑った。心なしか照れているように見えたのは、光の当たり具合のせいなんだろうか。
南々実が言うには、朝は頭が徹底的にぼやけているから、絵を描きたくてもまともなアイデアが浮かばないらしい。結果、生活リズムが昼以降に始まるものになり、さらに夜勤のバイトが入るから就寝が遅くなって……という循環が発生してしまうんだそうだ。
高校を卒業してからずっと、僕と同棲を続ける今に至るまで、南々実はそんな生活スタイルを貫いている。もっとも、そんな自然の摂理に逆らった生活でも、警備の仕事の時間帯が定まっていない僕に比べれば遥かに定時性は確保できているわけであって。
『あたしはまだパワーセーブ状態だからー』
そんなことを言いながら布団の中で丸まっている彼女を見ていると、微笑ましいというか、羨ましいというか、とにかくそんな気持ちに駆られるんだ。
窓の外は、いい天気。青々と透き通った空の色が、高い建物の少ない街並みの向こうへと延々と続いていく。
こういう色彩、僕のデザインでも活かせないもんかな……。
立ち上がって窓辺に立った。日の光が家々の屋根にキラキラと反射して、すごく眩しい。目を細めながら景色を眺める。
綺麗だな、と思った。素直にそう思った途端、不意に僕の心の中を、少し冷たい風のような感覚が吹き抜けた。
僕の仕事が誰かをこんな風に幸せにできる瞬間も、いつか訪れてくれるんだろうか。大学在学中からずっとデザインの仕事をしてきているけれど、未だにそういう感覚を掴めたことはない。果たしてそれは僕が趣味の範疇を出られていないからなのか。警備のバイトなんかやめて本腰を入れて取り組むようになれば、今までよりもっといい仕事ができるようになるんだろうか?
ダメだ。日曜日なんだし、難しいことを考えるのはやめよう、僕には哲学者は務まらない。
触れていると心地いい陽光から背を向けて、僕はとぼとぼと自分の椅子に戻ろうとした。──と、足が何かをぐしゃりと踏みつけた。
「あ────っ!」
南々実が猛烈に裏返った声を上げた。それだけでもう、僕が踏んだモノの正体は分かったようなものだ。果たしてそれは、A3サイズの巨大な線画。なんでこんなのが床に。
「ごめん南々実──」
「許さない! それ、あたしが昨日の夕方までかかって描き上げた力作だったんですけど! 今すぐ北杜の人生を五時間分切り取って缶詰めに詰め込んであたしに譲渡しろ!」
「そんな無茶な……」
烈火のようにお怒りの南々実に、僕は何度も繰り返し頭を下げる。相変わらず布団お化けのまま、南々実は「ふん」と鼻を鳴らした。たぶん僕にもそういうところはあるだろうけど、自分の作品が壊されたり汚されたりするのを、南々実はすごく嫌がる。
絵を拾い上げた。わ、思ったより細かい絵だ……。近所の大きな公園がモデルなのか、巨大なアスレチック遊具によじ登って楽しそうに遊ぶ子供たちの姿が、漫画のような絵のタッチで丁寧に描き込まれている。
「ごめん、ごめんって。ちょっとぼうっとしてたんだ」
「許さないから」
「ええ、じゃあどうしたら許してくれるのさ……」
「スクワット五百回やって小金井公園までウサギみたいにピョンピョン跳ねて走って、そんで冒険広場のところで絵と同じポーズを取ってくれたら許す」
前より無茶の度合いが低くなったのは、南々実の優しさか。……いや、今の段階でもやっぱりまだ無茶だ。こんな朝っぱらからスクワット五百回もやったら、今日はもう歩けないよ。警備のバイトを辞めろと言ってるようなもんだ。
「ま、それもうスキャンしてパソコンに取り込んであるから、構わないけどね」
戦慄する僕を横目で見ながら、ぼそっと南々実が付け加えた。
「なんだ、よかった」
「でも許さない。許してほしかったら構え」
どうしてそこに繋がるんだろう。
「布団お化けにどうやって構えばいいんだよ……。てか、そろそろその中から出てきてもいいんじゃないのか」
イラストを床に置いたままにしていた南々実の罪は問わないことにして、僕はため息をつきながらそう返す。ため息の半分はたぶん、安堵のため息。
やだ、と一言を発すると、南々実はまた布団にもぐってしまった。