了
『ここで待っているのよ』
山奥のさらに奥。人の往来が困難な程に、茂った草木の狭間。そこに小さな社があった。そのすぐ傍に座り込んで、置き去りにされた少女は唇を噛んで耐えていた。
たった一人残されて時が経ち日も暮れて、やがて何かも分からぬ獣の声が聞こえるようになると、泣くものかと決めていた少女も小さなすすり泣きを始めた。
深山には、鬼が住む。
鬼は深山を守っており、鬼の機嫌を損ねると、実りは失われる。実りが失われれば、村人たちは深山に捧げ物をする。捧げ物は、肉の柔らかい女か子供だ。捧げ物をした次の年は、豊穣の実りが約束される。村人たちにとって、鬼は神。そして、少女は贄だった。
心細さに涙がこぼれたとき。すぐ傍の茂みが大きく動いた。少女は必死に息を殺して、音の正体を探る。
「なんだ。人間の餓鬼か」
草を掻き分け現れたのは、二十代半ばごろ――青白い顔をした、黒髪の青年だった。
「泣くな、泣くな。怖かったろう。もう、大丈夫だ」
見覚えのない男だったが、不思議と恐れる気持ちは沸いてはこなかった。少女は伸ばされた手に縋り付いた。
「かわいそうになあ、ちび」
少女の不安を感じ取ったのか、青年は必死に抱きつく子供の手を振り払わなかった。それどころか、優しく抱き上げ、その背をなでる。その拍子に、男の髪の毛が揺れて、こぼれた。彼のうつくしい髪の間に見えたのは、硬くとがった突起物。少女は瞬いた。男の髪の合間に見えたのは、長く伸びた鬼の角。
「鬼様? ……あ」
そのときはじめて。少女は男の傍らの影に気づいた。男の足元には、尾のない狐が寄り添っていた。見事な毛並みの獣に、少女が心惹かれて手を伸ばしたとき。
「触るな、噛まれるぞ。こいつは人間が嫌いなんだ」
青年がその手を止めた。すぐ目の前を、威嚇する獣の爪が通り過ぎて、少女はひやりと汗を流した。
「……なんで、どうして嫌いなの?」
「なんでだろうな……昔は大好きだったのに」
青年は狐に手を伸ばす。しかし獣は興奮した様子でその手に噛み付き、青年は悲しげに微笑んだ。
「……俺のことも、嫌いなんだ。もう、許してくれない」
その笑みさえかき消すように、そのとき大きく男の腹の音が鳴った。少女は目を丸くして、青年を見た。彼は何かに耐えるように、腹部を押えていた。
「おなか……すいたの? だったら」
「馬鹿……あっちに帰りたいなら、大人しくしろ」
青年は呆れたように優しく――少女の頭を撫でた。
それから、どれほど歩いたのか。気がつけば、歩いていたのは獣道ではなく、生まれ育った村のすぐ傍。見下ろした先には、見知った風景が広がっていた。背を押す青年に振り返って、少女は問いかけた。
「どうして私を、食べなかったの? 鬼様」
そう言うと、鬼は酷く悲しそうに笑った。
「もう――人間を食べないと決めたんだ。もう、食べたくないんだ」
そのあと、少女は彼に別れを告げて山を下りた。そうして戻ってきた少女を見て、母は驚愕し腰を抜かした。
次の秋。山は実りをなくした。何をしても、木の実一つ実らず、更に次の秋。山は色を失って、枯れ果てた。少女たちは、村を捨てざるをえなくなった。生まれ育った地を離れるために、荷物をまとめた。最後に見上げたのは、枯れ果てた深山。――隣で祖母が、山の神様が死んだのだと、小さく言った。