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深山とは、人と妖の世の境界である。深山の鬼は代々境を護ってきた守護者であり、妖たちの元締めとして、古くからその頂点に君臨し続けてきた。鬼とは深山のことであり、深山とは鬼のことである。そして深山の一粒種である春鬼は、次の深山。彼は次代の鬼として、境界を侵した人間を喰らうものとなるべき存在だった。しかし。
「春。むくちゃんを連れてきたよ」
「おっせーよ、俺のあやとりの技にも限界があるぞ」
次の深山は、人の子供とあやとりをしていた。
「もうっ! 何してんのよ、人が待ってたのに。先生なんて首をながあくしすぎて、首が絡まって、大変だったんだから。泡吹いて倒れちゃって、解くのが大変で……あ。この子が例の? わー。かわいいー。人間の子だぁ」
稲荷に連れられて現れたむくは、春鬼と顔を合わせた途端に怒り出したが、人間を見つけるところりと怒りを忘れて、嬉しそうに子供の頬をつついた。稲荷と異なり人間への恐怖は皆無らしい。すぐにむくは、人間の子供に夢中になった。じゃれる姿は、どっちが子供か。
「いつまでも遊んでいるな。むく、面貸せ」
むくの顔の面に向かって手を伸ばしたところで、春鬼の手は無慈悲に振り払われ、さらに平手打ちされた。
「何すんのよ、えっち、すけべ!!」
「協力しろよ。面倒な奴だな。顔を隠すだけで人間の判別はつき辛くなるらしいから、おまえの面を提供しろ」
「それとこれとは話は別!!」
再び面に伸ばされた手を跳ね除けて、腹部に一撃。容赦も可愛げも一切ない。
「ねえね、むくちゃんってどんな顔してんの。そのっ……本当に目も鼻も口まで……ないの?」
「そうよ。だから、面を外したくないの。年頃の女の子がそれって、とっても悲惨よ。絶望!! 絶望なの!!」
むくの正体は、のっぺらぼうだ。目鼻のない顔がコンプレックスで、幼少期からずっと面をかぶっている。日ごとに変わる面が、彼女にとっての『おしゃれ』らしい。
「でも、僕。むくちゃんの顔見てみたい。そんなに、卑下するものじゃないと思うけど」
「ありがと、稲荷。だけど、断固お断り。……でもっ、でも……この可愛い子のためには、背に腹はかえられないわ…………私のスペアを貸してあげましょう」
「はじめから出せよ!!」
苛立つ春鬼を無視して、むくは何処に隠し持っていたのか。露天で売っているような、プラスチックの面を取り出して、子供に与えた。面で少女の顔が隠れた瞬間、それまで人間だと思い込んでいた意識がシャットダウンする。なるほど、面を付けるだけで、人間と意識することが難しくなった。
「それで、どうする? 校庭を突っ切るわけにはいかないよ。今は運動部のやつらが……」
「ん? お前ら何してるんだ」
そこに通りかかったのは、春鬼のクラスメイト。一反木綿の木綿だった。
「しけた面してんな。なんだ、オレの背中にでも乗せてやろうか? ま、絶対やだけど」
木綿は、四人を前にげらげらと笑った。
その後。春鬼は嫌がって逃げようとする木綿の背に、無理やり殴って跨った。木綿に乗って、目指す先は深山。人と妖の世をつなぐ狭間の領域。
*
学校から遠くはなれた山の中。とっぷりと暮れた闇に紛れて、少年たちは疲れた様子で地面に座り込んでいた。
「はー、見つかると思って、緊張したあ。今日は良く働いたね! ミッションコンプリート!」
「何がコンプリートだ! 労働したのは、オレだけだろ! ああ、痛かった、四人も乗るやつがあるか! 体千切れるかと思ったぞ!! お前ら俺殺す気だろ」
泣きっ面で文句を言う木綿の声は怒りを伴って震える。余程辛かったらしい。稲荷がフォローするように笑った。
「で、でも、ほら、そのおかげであの子は無事、人間界に返せたわけじゃん。ありがとうね、木綿」
無理やり変化させた木綿に乗って、三人は子供を山に返した。匂いでばれるかと思われたが、風向きを工夫した結果、誰にも見つからず目的を遂げる事ができた。小さな人の子は、無事親のいる世界に帰っていった。
「何もよくない! いいか! オレは今後一切手伝わ」
「どうでもいいけど、腹減った」
「は? おまっ、春鬼、どうでもいいって……よくな」
「そうだねえ、僕もおなかすいたぁ」
「稲荷までっ! お前らオレの話聞けって! ……でも。確かに。……オレも……腹減った……」
疲労感と達成感に後押しされて、胃は痛いくらいに空腹を主張していた。少年たちは力なくうな垂れていた。
「……あ、そうだ。今日の、調理実習で作ったクッキーあるよ。みんな、食べない? ……何よ、その顔」
ぎょっとした少年たちを、むくが睨んで黙らした。
「さすがに授業だもん。変なのなんて入れてないよ」
そう言って、ポケットから取り出した焼き菓子は確かに、黄金色に焼けて甘い香りが鼻腔をくすぐる。背に腹は変えられない。変えられないが――
「稲荷、毒見」
「ええー?! また、僕?!」
目を白黒させる稲荷の口に、春鬼はクッキーを押し込んだ。一瞬嫌な顔をしたが、すぐにその顔の曇りは晴れて、じわりと喜色がにじみ出る。
「んー! さくさく! おいしいよ! むくちゃん」
「……まじか。本当に何も入ってない? 嘘だろ」
「……はるちゃん。私を信じてよ」
「ペット殺されて信じられるか」
そうは言いつつも空腹には打ち勝てなかったのか、春鬼と木綿の手がクッキーに伸びた。
「……うーん、オレは……もっと、素人が焼いたって感じの固い残念なクッキーのが好きだ……」
「何そのこだわり。黙れ、綿百パーセント……はるちゃん、おいしい?」
崩されるクッキーの山。その中心で、無言で菓子を貪る幼馴染に、むくは微笑んだ。
「甘すぎ」
無神経の腹に、少女の拳が容赦なく抉りこんだ。
*
暗くなった帰り道。家が隣同士ということもあって、春鬼はむくと一緒に帰路についていた。慣れた山道を進む少女の足取りは軽やかで、鼻歌まで混じっていた。
「でも、はるちゃんが子供を連れてきたときは本当にびっくりした! どうなるかと思ったけど、むこうに送り返せてよかったね! きっとあの子も感謝してるよ」
しかし、少女とは対照的に春鬼の心は冷めていた。
「でもさ、ほんと笑ったよね。あの木綿の顔……」
「どうせ、こっちのことなんて忘れるさ」
「え?」
人間の子供が紛れ込むことは、今までにもあった。しかし、彼女たちは皆意味のない謝辞を述べて、闇に消えた。彼女たちが、春鬼を省みる事など――
「忘れないよ」
いつの間にか、背後でむくが足を止めていた。彼女は立ち止まり、春鬼に向かってはっきりと断言した。
「助けてもらった事。絶対、忘れない。忘れたりなんて、しない」
「……むく?」
素顔の見えぬ仮面の下で、少女は笑っていた。いつもと異なる空気。異なる笑顔――それは、包み込むような微笑みで、春鬼をひどく戸惑わせた。
「むく……お前、一体」
「あ、もう家ついちゃったね! お義母さーん、帰ったよー。じゃあ、はるちゃん。また明日ね! あ!」
しかし次に振り向いたとき、その笑顔はいつもと同じ幼馴染のものだった
「あのねえ、はるちゃん。好き嫌いってね。必ず付随する思い出があるんだよ。たとえば、初めてピーマン食べたとき、あまりに苦かったとか。魚が古くて生臭かったとか。はじめて食べたとき、合わなくて吐いちゃった、とか。だけど、味覚は変化するものだから。小さい頃一度苦いとか合わないって思っただけで食べないのは、おかしいよ。今食べてみると実はとっても美味しいかも」
明日はお肉食べられるよ。むくはいつもと同じ、満面の笑みを浮かべて、手を振って家の中に入っていった。騒がしいやつ。春鬼は笑って、自宅の門をくぐった。
*
「お帰りなさいませ、遅かったですね」
深山の屋敷に入ると、使用人が春鬼を迎えた。彼女は春鬼の上着を、慣れた手つきで受け取る。そうしてふと、漂ってきた食事の香りに春鬼は顔を固めた。
「……この、匂い」
「ええ。今日の夕餉は、人の肉ですよ」
使用人の女は、淡く微笑んだ。その手には、見慣れたプラスチックの面があった。
「久しぶりに、手に入りましてね。柔らかい子供の肉ですよ。召し上がりませんか」
「……いらん」
春鬼はそれだけ言うと、使用人を下がらせた。
『好き嫌いってね、必ず付随する思い出があるんだよ』
――兄様は、ずるい。
頭を過った情景は、思い出と呼ぶにあまりに鮮烈で――肉を食べない理由など、分かりきっていた。






