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豊かな緑が、木枯らしとともに失われていく。
校庭に立ち並んだ桜の木もくすんだ色に姿を変えた。その一方で、中庭の銀杏は鮮やかさを増して校内に色を添えた。季節は秋。凍える冬はすぐそこまで迫り、コンクリートの校舎は底冷えしていた。吹き付ける風は冷たいものへと変わり、冷気は足元から制服の裾へ進入する。授業を受ける生徒たちの服装も自然厚着のものへと変化し、少年ハルキもその例に漏れず、学生服の下に灰色のパーカーを着込んでいた。
「ハルキ、購買行く?」
「悪い、弁当ある」
授業の合間の昼休み。チャイムとともに立ち上がった生徒たちが向かう先は、購買だ。
その中。クラスメイトの木綿にかけられた問いに、ハルキは弁当箱を掲げて答えた。風呂敷に包まれた漆塗りの重箱は一人前を優に超えていた。
「ああ……そっか、その量。ハルキは幼馴染と弁当だっけ? 三組の稲荷たちと?」
「そ。あいつらと食う。悪い」
「いーよ。あ、あとで日本史の宿題写させて」
「面倒臭い。やだ」
「分かった。勝手に見るわ。あー。顔のない彼女によろしく」
「むくは、彼女じゃねーよっ!!」
木綿の言葉に慌てて振り返ったが、すでに彼の姿はなく、開かれた窓から木枯らしが吹き込んでいた。足の速いこと。窓を閉めて、ハルキは教室を出る。長く続く廊下は弁当やパンを手にした生徒たちで溢れていた。窓から眺め下ろすと、校庭近くのベンチで昼食をとる生徒の姿が見えた。教室以外で弁当を広げるのは、何もハルキたちだけではない。しかし、これから向かう先には、他の生徒たちはいなかった。校内で昼食を食べる生徒がいるようで、いない場所。それは、学校の屋上。
*
「おっそーい。待ちくたびれたよ、春。餓死させる気?」
階段を上りきり、鍵の壊れた扉の隅を二度蹴り上げると、屋上の扉は開いた。開いた扉の向こうで待ち構えていたのは、幼馴染その一。細目で小柄な三組の稲荷。広い屋上に、もう一人の幼馴染むくの姿はなかった。
「待ってたのは、俺じゃなくて、これだろ」
ハルキは抱えていた弁当箱を下ろして、包みを開いた。
開いた包みを下にして、重箱の蓋を開ける。並ぶのは、彩り豊かな料理。重箱は、三段。一段目に、稲荷が喜びそうなエビフライやウィンナーの炒め物。卵焼き。二段目に、むくの好物である煮物に、焼き魚。金平といった和食。三段目に、稲荷寿司と俵型のお握り。もちろん、添えの香の物も忘れない。丁寧に盛り付けられた弁当に、歓声を上げたのは隣に座る少年だった。
「うあああ。今日も春のお弁当は豪勢だなあ。さすが、およねさん。うちに、嫁に来てくれないかな」
「とんだ熟女趣味だな」
よねは、ハルキの屋敷の賄だ。歳は七十近い。稲荷のストライクゾーンは随分広いらしい。
「およねさんなら、むくちゃんの次に大歓迎だよ。あ! 稲荷寿司!」
目ざとく好物を発見した稲荷は目を輝かせている。
「食う?」
「たべるたべる!」
ひょいと、稲荷は重箱から稲荷寿司をつまみ上げた。そして口の中に放り込もうとして――突如固まった。
「……あ……むくちゃん、まだだけど……」
「いいだろ、別に。遅れるあいつが悪い」
「やった! ごめんね、むくちゃん! いただきます!」
ぱぁんと、やたら大きな音を立てて、稲荷は手を合わせた。そして、ハルキが目を瞬くよりも早く。再度摘み上げた稲荷寿司を、口の中に放り込む。
「んー!!」
輝いたのは、まあるい瞳。細い目は大きく開かれて、やがて感極まったように再び細められる。
「ああ……揚げに味がよくしみて、噛むたびにじわじわしみるぅ。しあわせぇ」
至福の笑みを浮かべる彼の前で、ハルキは弁当箱を眺めた。黄金色に光る油揚げ。箸で半分に割ると、中に詰まった米が煌々と輝いて見えた。隣では、稲荷がほくほくと口の中いっぱいに頬張って、顔を緩ませている。
そんなに旨いのかと稲荷寿司を口にしたが、何のことはない、いつもの味。特別な感動もなく、ハルキは口の中に纏わりつく甘いものを噛み砕いて胃に流し込んだ。
「……それで、あの馬鹿は?」
馬鹿、その名をむく、という。むくというのは、ハルキの屋敷の裏手に住む鬼婆の子供だ。その付き合いは、稲荷よりも長く――物心つく頃からつるんでいる腐れ縁である。ハルキとむく、稲荷の三人は過ごした時間に多少の差はあっても、幼少より仲のよい幼馴染であった。
「なんかほら、言ってたじゃん。春のさ、好き嫌いの話」
「あー……」
そういえばと記憶を掘り出すと、昨日むくがそんなことを叫んでいた気がした。
弁当の提供者である、ハルキの好き嫌いは多い。葉物野菜を好まず、きのこ類も嫌悪してなかなか箸をつけない。特に肉に至っては、一口も口にすることができなかった。家人が指摘しないので今まで特に気にした事がなかったが、それが三人で弁当を食べるようになってから露呈し、ついに昨日、むくの堪忍袋の緒が切れた。
『もー、はるちゃん。だめよ、好き嫌い! 立派な大人になれないよ』
『……面倒臭い奴だな。じゃあお前は立派な大人になれるのか、むく。とんだ自惚れだな』
『……ぶちころす』
『まあまあ、落ち着いてよ、春もむくちゃんも。あ。春、肘ついてる。行儀悪いよ』
『はるちゃん! ご飯もこぼしてるよ』
『うっせー!! おまえ等は、俺のオカンか!』
苛立ちのままに、箸を投げ捨てたことを思い出して、ハルキは閉口した。
「それでね、むくちゃんは……」
「おまたせ、はるちゃん。稲荷」
そのとき。声とともに現れたのは、もう一人の幼馴染。彼女は屋上の入り口に立って、片手に皿を掲げていた。
「調理実習だったんだ、じゃーん」
「え? 今日の調理実習って確かクッキーのはずじゃあ……相変わらず破天荒だね、むくちゃん」
彼女はその手にハンバーグを持っていた。ふわりと香るのは、食欲そそる香ばしい香り。匂いに触発されたのか、稲荷は唾を飲み込んで恐々とハンバーグを眺めた。
「……むくちゃんが……作ったの?」
「うん、自信作だよ、さ! 食べて。はるちゃん」
ずずいと差し出された皿を押しのけて、ハルキは隣の稲荷に視線を向けた。
「……面倒臭。……稲荷。毒見」
「僕ぅっ?!」
ハルキとむくの間に挟まれて、哀れな犠牲者は逃げ場を失った。恐る恐る、稲荷は箸を握る。震える手で箸を使い、肉を割る。割れた肉から溢れた肉汁が滴った。無意識に鳴った喉。集る視線から逃れるように、稲荷はぎゅっと目を瞑ると、そのまま――ハンバーグを口の中に放り込んだ。永遠のような、一瞬の沈黙。そして。
「んんー!! 何これ、柔らかいっ」
すぐに、稲荷の顔が破顔した。
「すごい、これ。噛まなくても、口の中でとろけるんだけど。それに肉汁が……くはぁ」
吐き出された稲荷の吐息に、むくは満足げに微笑んだ。実に腹の立つ、勝利の笑みである。
「ありがとっ! ふふんっ、どう? はるちゃん。豆腐を入れてみて、あと片栗粉を少しだけまぶして焼いたの。ほら、毒見なんて必要なかったじゃない。さあ、食べ」
「むく。これ、何の肉だ」
肉を指差して、ハルキが言った。
隣の稲荷が頭の上に疑問符を載せたまま、もう一口ハンバーグを口にする。口に出して言うまでもなく、美味。稲荷の顔はとろけ、箸は止まらない。さらにもう一口、肉に手をつけたところで、むくが笑った。
「あれ? 食べなくても分かっちゃった? さすが、肉食の申し子だね。はるちゃん」
「ん? え? 何。何かあるの? このハンバーグ。めっちゃ美味しいけど」
「これ、はるちゃんが飼ってた猿だけど」
からんと。稲荷が、箸を取り落とした。
「ぎゃあああああああああ!!」
「伯邑考おおおおおおお!」
決して狭くない屋上に響き渡るのは、男二人の悲鳴だ。特に肉を口にした稲荷の顔は変色し、青を通り越して白に染まった。
「そんな縁起の悪い名前つけるからだよ。それに、はるちゃん。大体、ペットにしたってそんなに可愛がってなかったでしょう、何を今更。ほら、食べなよ」
「誰が食うか!」
「えええ、もったいない。まだ、脳みそも残ってるよ。メインディッシュ、生でさあ!」
「ぎゃあああああああ!!」
「中国だと薬膳で食べるらしいよ。精力つくし。わざわざ専用のテーブルまで取り寄せたんだよ。ほら、はるちゃん、稲荷。レッツトライ」
「やめて、マジやめて!! そんなゲテモノ無理!! うぷっ」
稲荷が青ざめた顔で、屋上の隅まで走っていった。かわいそうに。
「ええー……おいしいのになあ」
「食べたのか…………むく……本当に俺の好き嫌い治す気、あるの?」
「えー、何それ。ばっちりあるよ」
にっこり笑ってピースして。その顔には満面の笑みが浮かんでいただろうが、ハルキには分からなかった。
何せ、むくは『顔なし』。その顔には、全体を覆うように薄い面が付けられていた。『顔』にコンプレックスのある彼女は、人前で決してその仮面を外すことがない。その徹底振りは、教師、校長まで巻き込んで、学校公認のものとなっていた。もっとも付き合いの長い、古馴染みのハルキでさえ、その素顔は見た事がなかった。顔色の『読めない』幼馴染を前にして、ハルキが更に文句を重ねようとしたとき、タイムオーバーの鐘がなった。
「ああ、予鈴鳴っちゃった。二人とも、放課後教室残っててね。今日は特訓だから! 特に、はるちゃん。…………面倒臭いとかいって、逃げたら殺すからな」
むくは立てた親指を首の前で横切らせた――幼馴染は、鬼よりも恐ろしい。
*
しかし、逃げるなと言われれば。逃げたくなるのが人の性である。
「逃げるなって、むくちゃん言ったじゃん!!」
もっとも完璧のはずの敵前逃亡は未遂に終わった。下駄箱を前にして行く手を遮ったのは、幼馴染の少年稲荷だった。
「何で逃げるの?! 春はむくちゃん怖くないの?!」
「むくの料理が怖いから逃げてんだよ!!」
「……もおー、そんなこと言って……むくちゃんと、家政科の呂黒先生が首を長くして待ってるよ」
「そりゃあ、まあ。『首をながぁくして』待ってるだろうよ。じゃあな」
踵を返したハルキ。稲荷は慌ててそのフードを掴んだ。
「だから、逃げないでってば!!」
「ぐっ。おまえ、よくもあんな恐ろしいもんを食べた後で、むくの料理を食う気になるな!」
「むくちゃんのためならっ! 僕がんばるよっ」
「面倒臭っ……!! 勝手にやってろっ!」
煩わしくなり、ハルキは稲荷の手を振り払って走り出そうとした。身体能力で、稲荷はハルキに勝てない。本気で逃げるハルキを留める術はない。しかし。
「じゃあ、僕が食べても怒らないでね」
「……は?」
不穏な言葉が、彼を引き止めた。
「春。春はさ、面倒臭いってよく言うよね。そういって逃げてれば何とかなるって思ってるよね。でも、でもね」
「春のはさ……許されてるだけなんだよ」
そのとき。思いもよらぬ衝撃が、ハルキを襲った。
「たっ……なんだ?」
衝撃は、左足。痛みの元を探して目線を下に向けると、そこには小さな子供が一人。高校に似つかわしくない、三、四歳くらいの、稚い童女だ。それも、それはただの子供ではなかった。隣で稲荷が、目を剥いた。
「ぎゃああ! な、なななな?! に、人間っ?!」
「迷い込んだんだろ。さっきのムカツク勢いはどうした。何オーバーにびびってんだよ、ただの人間の子供だろ」
「人間の! 子供だよっ!! 触わると、僕らは溶け落ちるって知ってるでしょ。ひいい、怖い怖い」
「何だ、その与太話」
ハルキは恐れることなく子供に触れた。当然彼の手が溶け落ちることなどなく、その手は優しく頭を撫でた。
その子は薄汚れたぼろを身に纏っていた。大人しい子で、ハルキに触れられても、きょとんとして声も上げない。そこでハルキは学生服を脱いで下に着込んでいたパーカーを脱ぎ、それを幼い少女にかぶせた。
「人間臭いから、これで臭いをごまかそう。腹減らした運動部の連中に見つかったら大変な事になる」
ぶかぶかのパーカーを着せられて、子供は目を白黒させている。どうやら自分の状況を理解できてないようだ。子供の様子から害がないと思ったのか、隣の稲荷が恐る恐る子供に問いかけた。
「……親はどこ? 君、どこから紛れ込んだの?」
「……おや? ……おっかあ? ……おっかあ、どこ? おっかあ、おっとう」
「馬鹿、泣かすな。ほら、ちび。おっかあとおっとうのところに戻してやるから。泣くな、泣くな」
しかし、宥める言葉で涙は止まらない。ぐずりだした幼子の、目の端に涙が溜まる。口をわななかせて大きく息を吸うと、次に口から漏れるのは悲鳴めいた泣き声だ。慌てたハルキは少女の口を押えて、稲荷に命令した。
「稲荷、変化解け」
「うえええ?!」
「この子供が騒ぎ出したら、即ばれて一大事だ。お前のせいだろ。今は、餓鬼の気を引くものが必要だろ」
「そ、そそそそんなっ、僕劣等生だから、変化に三日ぐらいかかるんだけど」
「なんだそれ、嫌なわけ? 『面倒臭い』のか?」
「……ああ、もうっ! 春の、ひねくれものっ!!」
半泣きになった稲荷は、結局最後には命令に逆らえず、綺麗な弧を描いて一回転。すると、大きな音と煙を立てて、少年は見事な黄金色の毛並みを持った、一匹の狐の姿になった。
「きつね?」
子供はきょとんと目を見開いて、それから狐の背を撫でた。温かく豊かな毛並みは、子供の心を掴んだようでその涙を止めた。そうして静かになった子供を、ハルキは慣れた手つきで抱き上げた。
「なんか、春。子供の扱い、慣れてるね……それで、この子、どうするの?」
「深山に返そう。これはあちら側のものだ」
「あーもう。はいはい、分かりましたよー。もう。春は俺様なんだから。いいよ、どうせ僕らは貴方に逆らえない。深山の鬼様。次期当主様、春鬼ぼっちゃん」
投げやりな幼馴染の口調に、鬼の春鬼は化け狐の稲荷を蹴りつけた。