9.
ああ、船医さん。あの医者の下宿は、白い崖とは反対側の、村から一キロ離れたところにある小さな農園でした。農園といっても作物はほとんどなく、痩せた山羊と卵を産まない鶏が少しいるだけの石で囲われた丘でした。その丘から眺められるのは村の家並み、広場、白い崖、放牧地、家畜の群れ、隣村へ通じる道と共同墓地だけでした。海は見えませなんだ。それでも、村のものはその丘を《海の丘》と呼んでいました。ときどき、南風のなかに潮の匂いを感じることがあるからです。わしは手にじゃれついてくるジュセッペのことを忘れようと、ひたすら潮の匂いをかぎました。宿の親父は、例の医者は二階にいると教えてくれました。二階へあがり、ドアをノックし名を告げると、しばらくしてドアが開きました。その途端、血と薬品の臭いが押しつぶさんばかりに迫ってきて、ジュセッペは、おえっと喉を鳴らしました。そして、血だらけの白衣を着た医者が現れると、ジュセッペは「こわいよ、父ちゃん」と言って、わしの背中に隠れて、わしの上衣にしがみついてきたのです。ああ、船医さん! このとき、わしの心がどんなふうに張り裂けたのか、その音が聞こえますか? わしは実際に聞いたのです。ビリビリビリッ。それはシーツを裂く音とまったく同じでした。
医者は言いました。「せっかく来ていただいたのに悪いのですが、先ほどの話はなかったことにしていただけませんか? 今すぐミラノの大学に戻らねばならなくなったので……」
半開きのドアから床が見えました。血をすったシーツの切れ端が腐った果実みたいになって一面に転がっていたのです。
「実はたったいま女性が流産したのですが、その女性が、とても素晴らしい標本を提供してくれたのです。一刻もはやく、その標本を保管庫に……」
血の海みたいな寝台に横たわり、裂けたシーツの切れ端を握りしめて泣いているルチアーナが見えました。
†
ああ、船医さん。愛とは自分を犠牲にすることですか? 子殺しも行えるのですか? まだ生まれてきていない、お腹のなかの子どもの姿かたちを歪めさせてしまうものなのですか? ああ、船医さん、ルチアーナは気づいていたのです。わしがやろうとしていることに気づいていたのです。だから、ルチアーナは医者のところへ先回りして、わしのかわりに子殺しの業をかぶったのです。かわいそうなルチアーナ!