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嘆息  作者: 実茂 譲
8/16

8.

 ああ、船医さん。わしは自分でも何をしたのか覚えていないのです。わしは本当にこの子を殺すつもりなのだろうか? 家族全員がここから逃げるための金を得るために、わしは自分の子どもを殺そうとしていたのだろうか? わしは震えました。その場で頭を抱えてうずくまり、氷水に漬けられたみたいにガチガチ歯を鳴らして震えました。ああ、船医さん。ジュセッペは、大丈夫、とあどけない声でわしを心配してくれています。ジュセッペは太陽のように明るい子どもです。わしが落ち込んでいると、いつも右手から一本だけ生えている人差し指でわしらをこそばしてくれるのです。そのときも、わしを笑わせようとして、わきの下をこちょこちょくすぐりました。ああ、ジュセッペ。お前はなにも知らんのだね。わしは、お前一人を犠牲にして、母さんと兄さんたち、そして母さんのお腹のなかにいる赤ん坊を助けようとしているんだ。わしはお前を医者に引き渡すんだ。そして、医者はお前に毒入りのドロップをくれるだろう。お前は、ああ、ジュセッペ、お前は喜んで、毒を舐めてしまう。ドロップなんて舐めるのは三年ぶりだものな。そして、薬瓶のなかに永久に閉じ込められて、ああ、ジュセッペ。お前だけをそんな目にあわせない。わしは一家の長だ。ドン・トゥリッドゥがなんだ! あの医者がなんだ! わしの家族には指一本触れさせんぞ。そう決意したそのときでした。緑に塗られたくぐり戸付きの門から銃声と叫び声が聞こえたのは。



 ああ、船医さん。勇気という花はなんと咲きがたく、なんと萎れやすいものなのでしょう。人の胸のうちにふつふつと沸きあがるあの熱い感情には、散弾一粒の重さだって存在しはしないのです。わしはジュセッペを樽の後ろに隠して、角のほうへまわり、中庭を覗き見てみました。靴屋のミケーレ・ピエトランジェロが二人の《叔父》に追いかけまわされて、中庭を転がりまわるようにして必死に逃げていたのです。ミケーレを追いかけていた二人はドン・トゥリッドゥの手先でした。一人はまだ二十をこえたばかりで、もう一人は四十半ば。どちらも冷酷なことで知られた男でした。やつらは二連式の猟銃で――引き金を強く引けば一度に二発鹿弾をぶっぱなせる銃です――靴屋のミケーレを狙い撃とうとしていたのです。かわいそうなミケーレは銃口をむけられるたび水のない噴水や植木鉢の後ろに隠れ、しゃがみ、転がり、逃げまわり、慈悲を請うたのです。

「ああ、やめてくれ! ドン・トゥリッドゥにたてつくつもりなんか……」

 若いほうの《叔父》が石を投げつけると、それが靴屋のミケーレの額を切り、年かさのほうの《叔父》がついにミケーレの首根っこをつかまえたのです。ミケーレは銃床で殴り倒され、ひざまづかされました。ミケーレは手を胸の前で組んで、泣き叫んだのです。

「知ってるだろ? おれの親父とやつの親父は親友だったんだ。見殺しにするのはかわいそうだと思って、はやく逃げるよう教えただけなんだ、ドン・トゥリッドゥに刃向かうつもりなんてないんだ! 本当だ、信じてくれ! 親父とお袋の墓にかけて誓うよ! ああ、やめてくれ、殺さないでくれ! おれには娘が三人いるんだ、おれが一体なにをしたっていうんだ……」

 若い《叔父》が笑いながら、ミケーレの顔を蹴飛ばしました。豚を屠るような悲鳴があがりました。年かさのほうの《叔父》が銃身を折って実包をこめなおすと、二人は一度に四発の散弾をミケーレにぶち込みました。ミケーレの腹は破れ、はらわたが庭中に飛び散りました。やつらはミケーレをズタズタにするために、実包に釘の頭の切ったやつを混ぜて撃ったのです。なぜ、靴屋のミケーレ・ピエトランジェロが殺されたのかは一目瞭然でした。見せしめでした。《叔父》に逆らうものの運命は、ローマから派遣された偉い銀行家でも、しがない靴屋でもみな同じように殺されるのです。見せしめは成功したのです。わしはこっそりその場を離れました。わしの勇気は、あっという間に消えてしまった……

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