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嘆息  作者: 実茂 譲
6/16

6.

 ああ、船医さん。それなのに、わしは思いがけず、またもやあのドン・トゥリッドゥのために辛い目を見なければなりませんでした。そして、その結果、わしはカステルビアンコから逃げる羽目になったのです。ドン・トゥリッドゥはあの銃撃事件以来、わしとルチアーナに何の手出しもしませんでした。慈悲というよりは、ただわしらにかまう暇がなかっただけでしょう。ところが、ある日、すべてが一変したのです。ウンベルト王が撃たれて死んだという報せがイタリアじゅうの新聞に載せられていたころですから一九〇〇年だったと思いますが、靴屋のミケーレ・ピエトランジェロが突然、人気のない農道でわしを呼び止めたのです。

「はやく村を出ろ」

「なに言ってるんだよ、ミケーレ」

「女房と子どもをつれて逃げるんだ」

「逃げる? どうして?」

ミケーレ・ピエトランジェロは、馬鹿かお前は、とわしを怒鳴りつけた後、わしに耳打ちしました。

「ドン・トゥリッドゥが、お前とお前の女房を殺すつもりだ」

わしは死ぬほど驚いて飛び上がりそうになりました。

「どうして、そんなことを!」

「撃たれたんだ」

「国王のことか?」

「違う、ドン・トゥリッドゥだよ。パレルモで撃たれたらしい。本人はかすり傷で済んだが、息子が死んだ」

「そいつは気の毒だったな。ご愁傷様」

「馬鹿! ちゃかしてる場合じゃねえんだぞ。ドン・トゥリッドゥはもう七十をとうにこえてるが、まだ当分死にそうにない。おまけにやつのものは全部、息子に引き継がれる。それが気にくわなかった子分の一人がドン・トゥリッドゥと息子をひとまとめに片づけようとしたんだ。弾はそれて、ドン・トゥリッドゥに命中しなかった。だが、息子のほうはそこまで運がなかった」

「それとおれがなんの関係があるんだよ!」

「最後まで聞け。ドン・トゥリッドゥは子山羊みてえにピンピンしてるが、息子を目の前で殺られて、もう正気じゃないんだ。敵と味方の区別がつかなくなっちまって、どいつもこいつも息子殺しに加担したと思っていやがる。ドン・トゥリッドゥは自分を恨んでいそうなやつの名前を片っ端から書き出して皆殺しにするつもりだ」

「ルチアーナもそのなかに入ってるのか?」

「お前もだ。お前とルチアーナが仇討ちにくると本気で思ってるんだ」

「そんなことあるもんか!」

「これはおれの名づけ親で、隣村の《叔父》がうっかりもらした話だ。いいか。こうしてお前に忠告したのは、お前の親父とおれの親父が古い付き合いだったからだ。もし、ここでお前と話してることがやつらに知れたら、おれだってどんな目にあうかわからない。その危険を承知で忠告してやったんだから、ちゃんと考えろ。家族を連れて逃げるんだ。できるだけ遠くにな」

できるだけ遠くに! ああ、船医さん。わしだって何度そのことを考えたことか! でも、カステルビアンコを離れることなどできなかったのです。土地への愛着などでいっているのではありません、船医さん。あんな墓場のような土地に未練はないのです。金がなく、頼れる身内がなかった、それだけのことでした。でも、船医さん、金と頼れる身内がないということは、誰かにむさぼり食われながら生きなければならないということです。それはとんでもない責め苦です。ああ、船医さん、ドン・トゥリッドゥにむさぼり食われないためには逃げる必要がありました。そして、それには金が必要でした。わしは家に飛んで戻ると、食事をしていたルチアーナと三人の子どもたちを外に追い出し、家のなかをそこいらじゅうひっくり返して、金をかき集めました。もし逃げるのなら、わしはアメリカに行きたかったのです。以前からアメリカの話を聞いておりました。自由の国、やり直すための国、道に黄金が敷いてある国――アメリカです。わしは家じゅうの金を必死にかき集めました。ええ、必死にかき集めたのですいざというときのために床下に隠しておいた古い五十リラ金貨――鶏小屋に落ちていた色あせた一リラ札――刻印が擦りつぶれた五チェンテシミ銅貨。へとへとの汗みどろになるまでかき集めたのに、それでも足りませんのじゃ。ルチアーナと三人の子どもの分の船賃には足りなかったのです。おまけにルチアーナは四人目を身ごもっていて九ヶ月でした。移住の仲介屋はきっとお腹のなかの赤ちゃんの分まで手数料を要求するでしょう。どうあがいても、金が足りません。でも、金を用意できなかったら、わしらはドン・トゥリッドゥに殺されてしまう。ああ、船医さん! わしは突っぱねられるのを覚悟で、知り合いを片っぱしからまわって金を借りようと思い、外に飛び出しました。その矢先、やつがまた現れたのです。


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