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嘆息  作者: 実茂 譲
3/16

3.

 ああ、船医さん。わしらはなにひとつ持っていませんでした。すべては伯爵のものでした。崖も、石切り場も、工場も、水汲み場も、すべて伯爵一人が握っておった。わしらは伯爵の雇人として石を削っておりましたのです。伯爵はローマに住んでいて、カステルビアンコに姿を見せたことは一度もありません。硝石場はすべて《叔父》たちによって管理されていました。《叔父》とは二連銃を肩にかけ、コーデュロイのチョッキを着て、崖を見回るヒゲの男たちのことです。あなたたちの国ではマフィアとかギャングとか呼んでいますが、カステルビアンコではいつも《叔父》と呼んでおりました。やつらは悪辣で、貪欲で、他人を食いものにすることしか考えていない獣でした。コーデュロイをまとった獣です。《叔父》たちはわしらに支払われるはずの賃金をピンはねし、伯爵には石の相場がどうのこうのと理由をつけて、少ししか売り上げを払わなかった。伯爵はちっとも気にかけなかった。ローマだかパリだかで放蕩三昧の生活に明け暮れて、金に困れば、自分の持ち物を売る。ただ、それだけのことでした。そうやって伯爵は、崖も、石切り場も、工場も、水汲み場も、最後にはお屋敷も手放しました。そして、全ては《叔父》たちのものになってしまったのです。


 †


《叔父》たちの首領は、ドン・トゥリッドゥという男でした。見た目は上品な老人です。細身で、白い口ひげをきれいに整えた教師のようでした。ところが、中身はとんでもない、冷酷でずるがしこく、平気な顔で人を殺す悪魔です。やつは高利貸しと硝石の利権で富を築き、村の小売屋や家畜商からはみかじめ料をとっていました。手下は三十人以上、自身はとても用心深く、猟銃をたずさえた用心棒が二人、必ず三歩後ろについてきています。ああ、船医さん、だれもその悪魔を退治しようなどとは思わなんだ。警察も憲兵も神父も村長もドン・トゥリッドゥに逆らうどころか、こびへつらいご機嫌伺いをする始末でした。ドン・トゥリッドゥは自分に逆らうものは決して容赦しませんでした。やつの口利きを断ったフィレンツェ出身の役人が、手下たちに半殺しの目に合わされて本土に送り返されました。カルミネ・リットリアという男が、用水路の利権を騙し取られ、ドン・トゥリッドゥに手斧で襲いかかったことがありましたが、後ろにいた用心棒がさっと銃を構えて、そのあわれな男を蜂の巣にしてしまいました。役人や財産を持っていた人間がこのありさまなのですから、わしら石切り夫はいうにおよびますまい。とても逆らえなかったのです。ああ、船医さん。やつがどんな男だったか、そして、やつにまつわるおぞましい出来事を、わしはこれまで恐ろしくて他人に話せず苦しみました。でも、いまだから話しますぞ、船医さん、ええ、話しますとも。


 †


 ああ、船医さん。わしは八つのころから硝石のズタ袋を背負って働いていました。白い崖と村のあいだを往復して働いていました。背中は傷だらけで、いつも空腹でした。幼いころから夢も希望も感じたことはありませなんだ。でも、そんなわしも人並みに恋をしたのです。白い崖に打ちのめされながら、硝石の粉末で傷めた胸を、恋の、あの狂ってしまうような喜ばしさで焦がしたことがあるのです。あの子を初めて見たのは、わしが十六のとき、石切り場から帰る途中でした。あの子はよその土地から引っ越してきたのです。

「こんにちは」

 あの可憐な少女はわしに微笑みかけてくれました。とても上品で、優しげで、いままでに見たことのない女の子でした。わしも帽子をとって気の利いた返事しようとすると、少女の父親が現れ、ジロリとにらみつけました。寸法の合わない山高帽をのせた小柄でずんぐりした男でした。背はわしより低かったのに、恐ろしく太い腕をしておりました。それに肝っ玉が雄牛のようにすわっているのは一目瞭然でした。ずっとわしをにらんできます。わしは少女に感じたあの感覚を名残惜しいと思いつつ、その場を立ち去りました。

そのすぐ後です。ドン・トゥリッドゥに呼び止められたのは。

「やあ、坊主」

「どうも、ドン・トゥリッドゥ」

 わしはやつの手にキスをしました。おえっ。

「ヒゲが伸びてきたな?」

 ヒゲといっても産毛のような口ひげでした。ドン・トゥリッドゥは小広場のそばに床屋を持っていたので、そこに立ち寄るようしつこく言ってきます。ドン・トゥリッドゥはやけに機嫌がよく、自慢の甥っ子かなにかのように馴れ馴れしく肩を叩いてきました。でも、ドン・トゥリッドゥの床屋がやつの取り巻き連中のたまり場になっていることは周知の事実でしたから、わしは丁寧に断りました。なにか面倒事に巻き込まれると思ったのです。第一、ドン・トッリッドゥはなにか下心がなければ、わしのような取るに足らん人間に声をかけるような男ではないのです。わしはヴェッキオの店で剃ってもらう約束をしてるから、と言いましたが、ドン・トゥリッドゥはわしの肩をやんわりつかみ、

「いいじゃないか、すぐすむ。わたしも暇なんだ。タダであててあげよう」

「でも、ヴェッキオさんと約束してるんです」

「おい、アントニーノ」やつは取り巻きの一人に言いました。「ヴェッキオの店にいって、坊主のヒゲはわたしが剃ってやることになったと伝えてこい」

 こうしてわしは初めての髭剃りを、これまで何人もの男の喉を掻っ切ってきた男の手にゆだねることになりました。ああ、船医さん、逆らうことなど出来たでしょうか?

 わしは床屋の中庭に通されました。取り巻きはいません。中庭に通じるアーチをくぐったとき、わしは目を疑ったのです。こんな美しい彩りがこの村にあったなんて。そうため息をつきたくなるほど美しい庭でした。見たこともない国の美しい花が花壇や回廊、吊り下げ式の鉢から咲き乱れ、壁際の噴水から飛沫があがるたびに虹がうっすらと花に被さる、それはそれは美しい庭でした。ドン・トゥリッドゥは床屋道具一式が置いてあるテーブルのそばに籐の椅子を持ってくるとそこに座るよう顎で指しました。わしはさっきまでの恐ろしさもどこへやら、思いがけないところで出会った美しい光景にぽうっとしたまま座ってしまいました。

「石切り場の景気はどうだね?」

 石鹸を泡立てながら、ドン・トゥリッドゥがたずねました。白々しい。景気もへったくれもないのです。石切り場はツルハシの砥ぎ具から蒸気で動く機械まで全てやつのものです。毎日毎日、わしらからいくら搾り取れたかきちんとわかっておるのです。でも、わしは答えました。

「まあまあです、ドン・トゥリッドゥ」

 わしはちょっと考えてつけ加えました。「なんとか食べていけてます」

「そうか。ウム、そいつはいい」

 やつはひとりごちながら、わしの口元や頬、顎に石鹸を塗っていきました。首全体にもまんべんなく温かい泡を塗りました。

「仕事は男にとって神聖なものだ」

 わしは答えを返せませなんだ。剃刀があたり始めたのでしゃべることができなかったのです。ドン・トゥリッドゥはひとりでしゃべりました。

「誰でも生きるためには仕事をせねばならん。パンを焼いたり、畑をたがやしたり、ヒゲを剃ったりといった具合だ。その点、おまえさんは立派な仕事に就いている。硝石を掘ってるんだからな。硝石は火薬の原料になる。火薬がなければ、大砲が使えない。大砲が使えなければ、ローマのお偉方は、革命や侵略にぶるぶる震えながら毎日を過ごす羽目になる。そうならずに済んでいるのはひとえにおまえさんのおかげさ。おまえさんが硝石を掘っているおかげでローマのみならず世界中のお偉方が今日も枕を高くして寝られるんだ。おまえさんは他人の金を動かすしか能のない銀行家やその銀行家の子分として人をこづくしか能のない警官よりもずっと立派な仕事に就いている。まさに男だ。こんな話を急にしたくなったのはなぜだろうな? わたしが少しおせっかいを焼きすぎるせいかもしれない。だが、立派な男が立派な仕事に就いていないとわたしはどうにも我慢できなくてね。例えば、この村に引っ越してきた親子だよ」

 そこでドン・トゥリッドゥは言葉を切り、剃刀をわしの顎から離しました。まるでなにか言うことを期待されているかのようでした。わしは頭のなかが真っ白になってしまいました。ドン・トゥリッドゥがあの親子のことでなにか知りたがっているのは明白です。そして、それをわしから聞き出そうとしておるのです! わしが何も言えんと見て取ると、やつは言いました。

「あの親父はなかなか骨のありそうな男じゃないか。あの親子は旅行中なだけかな? まァ、それならいいのだが。もし、ここに居つくのなら家具つきのいい下宿を紹介してやれるし、仕事も見つけてやれる」

「どうしてあの親子のことが気になるんです?」

 わしは精一杯の勇気をふりしぼって、そうたずねました。すると、ドン・トゥリッドゥの目のなかで何かが光りました。わしは言葉のしっぽが唇から離れないうちに後悔しました。ああ、船医さん! ドン・トゥリッドゥのやることに質問するなど、あの村では絶対にしてはいけないことの一つだったのです。ドン・トゥリッドゥがある人間について知りたがるとはすなわち、そいつの家はどこか、勤め先はどこか、いきつけの料理屋はどこかを知りたがるということです。ああ、船医さん。それはつまり、家の前の空き地や、勤め先に行く途中の道や、料理屋の塀の裏に、銃をもった手下を待ち伏せさせられるかどうかを知りたがるということです。わしは直感したのです。ドン・トゥリッドゥは少女の父親を殺そうとしている。だからこそ、わしはドン・トゥリッドゥに対して、どんな質問もしてはいけなかったのです。ただ、なんにも気づいていないマヌケのふりをしていなければならなかったのです。ああ、でも、船医さん。わしはそれが出来なんだ。あの可憐な少女のことが頭から離れなかったのです。いま冷酷な獣の手で彼女の父親の命運が断たれようとしている。彼女が蒙るであろう不幸と悲しみを思うとわしは、なにかせずにはいられないと思ったのです。そして、質問こそがいくぢなしのわしにできた精一杯の抵抗でした。

「どうして気になるのか、だと?」

 ドン・トゥリッドゥは訝しげに言いました。

「さっきも言ったとおりさ。わたしはおせっかい焼きなんだ」

 そういうと笑って、わしの顔をタオルでふき、背中を叩きました。

「さあ、終わったぞ、坊主」

 わしは床屋から解放されると、大急ぎであの親子の後を追いました。親子はもう村から外れた丘の上の下宿屋に到着していました。そして、父親のほうが無用心にも一人で牧場を歩いておるのです。土をひろっては帳簿のようなものをめくり、書きつけをしています。すると、崖のあいだの小道から、ドン・トゥリッドゥが猟銃をもった子分を連れて現れてくるではありませんか! わしは恐怖ですっかり腰砕けになり、その場にへたり込んでしまいました。声をあげて危険を知らせなければならなかったのに、ドン・トゥリッドゥが怖くてできなかったのです。そんなことをして、ドン・トゥリッドゥの企てが失敗したら、わしだけでなく家族まで殺されます。ああ、船医さん、わしは弱虫だったのです。

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