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嘆息  作者: 実茂 譲
2/16

2.

 あれはわしが十のときでした。やつのことをわしはいまでも忘れられません。黒いフロックコート、唇がなく、白いあごひげの、わしらよりも痩せこけた、死神みたいな男でした。やつは二台の馬車とともにやってきました。一台は大きな空き瓶を数十本も積んだ荷馬車で、もう一台はブリキ製の水タンクでした――ひどい臭いのするタンクじゃった。薬が入っとったのですよ。やつは医者でした。ミラノの大学からやってきたのです。やつは村の広場に面した薬局の二階に部屋を借り、なにかの事務所を開きました。まもなく村の子どもたちが数人呼び出されたのですが、わしもその一人でした。やつは薬局を通訳代わりに――どうも、医者自身はシチリア方言をさっぱり解さなかったのですわしらにいいました。死んだ赤ん坊を連れてきておくれ。わしらはびっくりして、医者のほうを見ました。医者はわしらを安心させようとして笑いかけたのですが、それがよけいにおっかない面だったのです。口の両端が両耳まで裂けて、崖のように白い歯が見えたのです。しわをいくつも重ねて、目を閉じて、ゆっくりとイタリア語を話しました。それを床屋がシチリアの方言に訳しました――わたしは奇形児、つまり体のひん曲がっためずらしい赤ん坊の研究をしていて、標本を集めている。そうした赤ん坊の、できるだけ新鮮な死体をもっている家があったら、ぜひ紹介してほしい。もちろんお金は払おう。わしらはおっかなくなって逃げるようにその場をあとにしましたが、毅然とした態度で断ったものは一人もおらんかった――ああ、船医さん! わしらは墓あばきに手を貸すほど金がほしかったのです。わしらはこう考えたのです。マラリアと栄養失調のせいで死んだ赤ん坊は村じゅうにいる。紹介してお駄賃をもらうだけだ。別に赤ん坊をさらってくるわけではない。わしは数時間後こっそりオレオの未亡人の家にいったのです。オレオの埋葬が終わってすぐせむしの子どもが死んだので、わしはその子を紹介するつもりだったのです。わしは未亡人にそれとなく医者の話、金の話、せむしの子どもを買い取る話をしてみましたが、結局、話は尻すぼみで終わってしまいました。わしはすっかり恥ずかしくなって。自分がこの世で一番卑しい存在に思えて。ところが、オレオの未亡人には金がいりました。もう一人、育てなきゃならん子どもがあったのです。まだ乳飲み子で体のまともな子です――ああ、神さま! あれ以来、わしはあんたを信じることをやめた! 肉体の復活を信じることをやめた。最後の審判だって! 薬瓶のなかの標本がどうやって復活するというのだ! 子どもの亡骸を売ったのはオレオの未亡人だけじゃないのです。村じゅうから集まってきたのです。わしは見ました。薬局の二階にずらりとならんだホルマリンの瓶を。足がわき腹から生えてきたのや、つま先と鼻先が真逆をむいた赤子、それに脳みそが少しもなかったへこみ頭のカエル面の赤ん坊。みんな、あの医者が高い金で買い取ったのです。やつは金に糸目はつけませんでした。むしろ、いい標本が手に入った、と大喜びで帰っていきました。でも、ああ、船医さん、子どもを売った女たちはみな村を出ました。もうカステルビアンコには住めなかったのです。オレオの未亡人も、もらった金でアメリカへ移住していきました。でも、わしは……わしも金をもらいました。たくさん金をもらいました。その金でわしはアイスクリームを買いました。わしはアイスクリームを一度も食べたことがなかった、家が貧乏だったから、どうしても、どうしても、食べてみたかった、自分の心を悪魔みたいな医者に売り渡してでも、わしはアイスクリームを食べてみたかったのです!

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