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おしゃれな田舎

作者: an

   おしゃれな田舎


 待っていたかのように扉が開いている。

 男性が素早く乗り込むと、十七のランプが点いた。

 正面奥の鏡に映っているのは、スーツ姿の中年男性だけで他に誰もいない。

 扉が閉まると同時にエレベーターが加速を始めた。そして十七のランプが消えたとき、ゆっくりと開いた扉の向こうから、「こんにちは。いらっしゃいませ」と声がした。

 エレベーターを降りた世良が、北の大地へと繋がる空間に足を踏み入れた瞬間だった。

「『大自然とともに生きる・北海道フェア』にご来場いただき、ありがとうございます。恐れ入りますが受付表のご記入と、よろしければこちらのアンケートにもご協力くださいませ」

 受付の女性は、笑顔でボールペンを差し出した。

 世良がやって来たのは横浜駅東にあるSECタワービルの十七階で、「――面白そうなイベントじゃない。行ってみたら? こっちのスーツがいいわ」と、妻の雪子に背中を押されてのことである。

「世良扇……。あっ、大変失礼致しました。世良先生でいらっしゃいますね? 先生には控室を用意してありますのでご案内致します」

「えっ、何かの間違いでは……」

 受付表を書き始めた世良が動きを止めた。

「さあ、どうぞ。世良先生。こちらになっております」

 女性スタッフは、世良に言い返す間を与えず強引に案内を始めた。

「ちょっと待ってください。僕は……」

 世良はボールペンを持ったまま受付を横切り、薄暗い廊下を歩かされた。

「この部屋でお待ちくださいませ。担当の者がすぐに参ります。よろしければコーヒーでもいかがですか……。世良先生」

 それだけ言って立ち去る女性スタッフを、世良は黙って見送るだけだった。

『世良扇様』と貼紙された扉を開けると、真正面から睨みつけてくるキツネのポスターが部屋の奥で出迎えてくれた。いかにも憑かれてしまいそうな迫力がある。

「オオカミより強そうだ。撮影場所が上川地方ということは美瑛や富良野辺りか? でも、なぜ先生などと? 誰かのいたずら? それともこのキツネが……」

 ポスターの前でつぶやいた世良は、担当者が来ないうちに黙って逃げ出すことを考えた。しかし間違えられた理由も知りたくなり、結局備え付けのインスタントコーヒーに湯を注ぎ、部屋の中央に置かれたソファーに腰を下ろした。

 スモーキーな香りが充満した部屋で、湯気の向こうからポスターのキツネがずっと見つめている。世良は鋭い視線を逸らすように、ソファーの隅へと体をずらしながら物思いにふけった――。


 起きてすぐ、朝刊を手にしたときのこと。

 折り込みの中からすり抜けるように舞い降りた林道の風景写真に心が奪われた。

 それは、『大自然とともに生きる・北海道フェア』というタイトルの広告で、澄み切った青空の下に初雪を被った山並みがそびえ、秋色に染まったカラマツ林と芝生のような下草の中を一本道が貫いている写真だった。

 広告を手にした瞬間、人生の道標が浮かんできた。

 その余韻に浸ったまま会場まで足を運んだ世良としては、無理やり案内されたこの控室ではなく、奥のイベントブースに進みたかったのである。

 この催しは、道内各自治体の移住窓口担当者が耳寄りな情報を持ち寄り、都市部に住んでいる移住希望者との交流を深めるもので、入口から奥に伸びる通路には自治体の相談ブースが並んでいる。会場内は北海道での田舎暮らしを夢見る都会人で混雑していたが、世良はその様子をちらりと見ただけでこの部屋に通されてしまったのだ。

 二杯目のコーヒーを飲み終えたころ、柔らかめのノック音とともに一人の男性が入ってきた。ソファーに沈んでいた世良は慌てて身を起こした。

「初めまして。わたくし総務省・田舎暮らし促進課・対策室の富田学です。よろしくお願いします。世良先生のお書きになった『フラノで乾杯』は、何度も読ませて頂きました。移住先を探していた主人公が、ようやくたどり着いた理想郷。そのエピソードをさらりと主張されている。まさしく北海道を応援する小説だと感心致しました。さらにこの度は、私どものイベントに『フラノで乾杯』の出版記念を絡ませて頂き、誠にありがとうございます。それでは、先日秘書様と打ち合わせした計画に沿って進めてまいりたいと思います。

 本日十月十六日午後二時より田舎暮らし促進懇談会に出席して頂き、午後五時三〇分の飛行機で旭川まで移動します。明日十七日土曜日は、朝一番の列車で富良野市へ向かい、午後一時から『大自然とともに生きる』が開催される富良野文化会館にて、『フラノで乾杯』の出版記念イベントも取り行うことになっております。

 こちらへは十八日の午後八時くらいに帰って来る予定ですので、その日は朝から名所めぐりに出かけ、夕方までに新千歳空港へ向かいます。今回少々ハードなスケジュールになったことのお詫びとしまして、当初決めておりました出演料を二倍にさせていただきます。それでは三日間、どうぞよろしくお願いします」

 世良は富田の名刺を受取りながら、二倍の報酬と秘書という言葉が気になった。

「富田さんとおっしゃられましたか? 確かに私は世良扇と申しますが、先生ではありません。完全な人違いです。それに『フラノで乾杯』という本は見たことも書いたこともありませんし、まして秘書などおりませんから……。もう一つ、北海道くらい自分一人で行けますのでご心配なく!」

 世良は強い口調で言い放った。

「初対面の世良先生に対して大変失礼ですが、これは秘書の方が言っておられました。『先生は都合が悪くなると人違いの振りをしてお逃げになる』と。世良先生、私を困らせないでください!」

 富田は自信に満ちた表情でソファーに腰を下ろした。

 そのとき、荒々しいノック音と同時に控室のドアが勢いよく開き、モデルのように均整のとれた一人の女性が現れた。

 世良と富田は、部屋の入り口に向き直った。

「失礼します。そちらは『フラノで乾杯』をお書きになった世良扇先生でいらっしゃいますね。初めまして。私は、経済産業省・未来型移住・企画整備室の野川弥生です。まず初めにこれからの流れとしまして、先日秘書様にお渡ししていた計画書通りの進行とさせて頂きます。このあと午後二時から未来型移住の企画会議に出席していただき、午後四時二〇分の飛行機で帯広へ飛びます。明日は午前十一時から『北海道フェア』の記念式典と、『フラノで乾杯』の出版記念祝賀会が占冠で開催されます。最後の十八日は、トマム周辺の観光名所をゆっくり回って、こちらに帰って来るのが午後八時くらいになる予定です。お支払いするギャラの方ですが、ご提示していた金額の三倍とさせて頂きました。三日間、どうぞよろしくお願い致します」

 早口で語り終えた野川は、名刺と茶封筒を差し出した。

「こっちはギャラが三倍なのか……。いったい何の話だ?」

 世良は金額に反応してしまった。

「いけませんねー。弥生ちゃん。経産省は出入り禁止のはずだよ」

 富田も慌てて茶封筒を差し出した。

「失礼な。軽々しく呼ばないで。基本的にあなた達の出る幕ではないわ。総務省の分からず屋さん。さっさと出て行きなさいよ!」

 富田と野川がテーブルを挟んで睨み合った。

 この二人、役人の鏡とまではいかないが、霞が関ではそれなりのポストに就いていた時期もあった。ただ、両省を代表するエリートコースから少しだけ外れてしまった境遇でもある。富田が四〇歳、野川は三八歳。共に同じ大学の先輩後輩の間柄ということもあり、遠慮なしのぶつかり合いは今に始まったことではなかった。

 もともと『大自然とともに生きる』という企画は総務省、片や『北海道フェア』は経産省が推進していたプロジェクトだった。それが半年前に施行された省庁間の事業見直で、二つの企画は統合されたはずだった。その後、北海道への移住に関連した事案については両省の歩み寄る姿勢が見られていたが、この担当主任二人の対立が発端となり、別々な企画として進行するようになった。しかし上官の指示で再統合され、長いタイトルが示すとおり『大自然とともに生きる・北海道フェア』という痛み分けの内容に納まった。ただ、二人の対立はまだ収まってはいなかった。

 実のところこのイベントには暗黙のルールが潜んでいた。北海道への移住者が前年比で僅かでも増加しなければ、自分達の住民票を北海道へ移すというものだ。もし今回旭川支局への移動辞令が出れば、永住というおまけまで付いているにもかかわらず、あくまで自主的な願い事として処理されてしまう。早い話しが左遷であり、見えない退職勧奨なのだ。

 移動を拒む二人は、集客に結び付くとの思いから『フラノで乾杯』に目を付け、作家の世良をイベントに担ぎ出そうとした。それを秘書とやらが同時に受けてしまったのである。

「いい加減にしてください。私に秘書などおりません。帰らせて頂きます!」

 二人が主張する計画に全く覚えのない世良は、テーブルに手をついて立ちあがった。

「そこまでおっしゃるならこれを見てください。『生まれつき私の手の甲にあった四角いアザは、成長とともに変化を続け、今では北海道そっくりになっている。それに北方四島まで浮んできた。まさしく北の大地に運命を感じる……』どうですか、世良先生」

 富田は『フラノで乾杯』をめくり、「これが証拠です」と胸を張った。

「ふっ、なるほど……」

 再びソファーに沈み込む世良は、気が抜けたようにつぶやいた。

 北方四島のこと以外事実だった。だが同時に謎も解けた。なぜなら、限られた者しか知るはずのないアザのことだ。これにより作家に仕立てた影の人物と、不透明だった話の中身がおぼろげに見えはじめた。さらには秘書の正体までも……。もう他人事ではなくなった。

「先生が執筆されたということで間違いないようですね。富良野に行くか占冠に行くか、世良先生、ご決断を!」

 富田と野川が、世良に詰め寄った。

「分かりました。その前に少しだけ時間をください。気持ちを整理しますので」

 世良は、秘書とやらの仕掛けた風変わりな計画に興味を持った。

「先生、ありがとうございます。それではこれからの予定もありますし、一時間後ということでお願いします」

 富田と野川は、そう言い残し控室を出ていった。一人残った世良は左手の四角いアザを見つめ、にやけた顔で三杯目のコーヒーにお湯を注いだ。


 世良扇せらかなめ五〇歳。家族構成は、同年の妻・雪子と今年二八歳になる長女・ひかりの三人家族である。雪子とひかりは同じ旅行代理店に勤め、ツアー企画と事前調査の仕事で全国を飛び回っている。一方の世良は、現在就職活動中だった。それというのも、横浜市内にある鉄工所の技術職として三〇年余り勤務してきたが、最近になり早期退職を迫られ、二〇一五年八月末日で退職していた。これは四五歳以上を対象にしたリストラ策で、ほとんどの社員が諦め顔で受け入れた。

 今後の身の振り方を模索していた世良は、未来へ繋がる扉を探し続けていた。だから『大自然とともに生きる・北海道フェア』には、何らかの変化を期待して出向いたのである。何とも奇妙な成り行きにはなったが、おかげで富田と野川が提示してくれた計画に興味が湧いてきた。世良はテーブルの上に置いてある二人の名刺を横目に、秘書とやらに電話を掛けた。

「僕だけど。いま大丈夫? 急で悪いけど、SECタワービルの十七階まで来てくれないか。コーヒーでも飲もうよ」

 秘書とのやり取りは呆気なく済んだ。

 張り詰めていた世良の気持ちは、ポスターの狐に愛着心を抱くほどに変化したようである。

「こんにちは。いらっしゃいませ。恐れ入りますが受付表のご記入と、こちらのアンケートにもご協力をお願いします……。あっ、世良雪子様。失礼ですが世良先生のご家族様でしょうか? 控室で先生がお待ちです。さあ、こちらへどうぞ」

 女性スタッフのノックとともに、世良雪子が控室に入ってきた。

「来てくれて助かるよ。まあこれでもどうぞ」

 世良はコーヒーを差し出した。

「どういたしまして。いい香りのコーヒーね。お急ぎのようだけど、何か問題でも?」

 雪子はすまし顔でカップに口をつけた。

「北海道だってさ。今日から二泊三日の予定で誘われちゃって。それも二か所同時進行だからどうしたものかと思ってね。もう一つ、いつの間にか『フラノで乾杯』という本の作者になった上に、先生とまで呼ばれて困っていたところだよ」

 経緯を語る世良は、雪子の仕草に目を光らせた。

「何のことか良く分からないけど、いいわねー。北海道。今ならワインの時期だし、十月も半ばだから紅葉が見頃だわ。いい機会じゃない。行っちゃえば……」

 雪子は平然とコーヒーを飲んでいた。

「紅葉か……、カラマツ林はどうだろう?」

 世良は間を持たせた。

「カラマツ林の紅葉は少し早いかもしれないわね。そうだ、どうせ時間はあるのだから富良野ワインでも飲んで待てばいいじゃない。わたしのお勧めは『ルビーふらの』よ」

 雪子は二杯目のコーヒーにお湯を注いだ。

「富良野ワインもいいけど、そのコーヒーも結構いけるだろ……。あのさ、『フラノで乾杯』という本だけど、知っているよね? 秘書様」

 世良は雪子の顔を覗き込んだ。

「この本のことね。ごめんなさい。あなたの名前で書かせてもらいました。大自然に囲まれたちょっぴりおしゃれな田舎を、小説仕立てで紹介というか発信したかったの。そうは言っても旅行関係の仕事柄、特定の自治体を取り上げるのだから自分の名前を出す訳にもいかず、それで名前を拝借したってわけ。これであなたも有名人よ」

 着ているコートのポケットから『フラノで乾杯』を一冊取り出した雪子は、その本で世良の肩をポンと叩いた。

「何が有名人だよ。まったく……。今度の北海道旅行を仕組んだのも、どうせ君だろ?」

 世良はため息をついた。

「その通りだけどこれには訳があって……。三二年間のお勤めご苦労様ということで、私とひかりからのプレゼントなの。単純な旅行ではあなたもつまらないでしょうから、緊張と感動が少しだけ味わえるプランにしてあるわ。そうそう、イベントの広告見たでしょ? 『大自然とともに生きる・北海道フェア』、あれもひかりが作ったの。雪山を背にした秋色のカラマツ林と緩やかに伸びる一本道の写真はなかなかの出来よ。でも、『秋風模様のカラマツ林』という未公開のサブタイトルがあるのだけど、これにも説得力があると思わない? あのセンスの良さは、どっちに似たのかしら? それにね、お役所の人達から『出版記念はぜひ北海道で』と頼まれてコラボすることになったの。あの人達、あなたが書いたと思い込んでいるからそのつもりでね。堂々としていれば、なんとかなるでしょ。企画自体もお役所だから、費用の心配はいらないわ。きっと良いことずくめよ!」

 雪子は一気にまくしたてた。

「君の話を聞いていると、すべてが楽勝ムードになるから不思議だね。まあ、自分でも興味があったことだし、とりあえずは雪子ありがとう。そして何よりひかりにも感謝だ。あの広告も素晴らしいと思ったけど、『秋風模様のカラマツ林』というフレーズは本当にぴったりだよ。気に入った。ところで、『フラノで乾杯』というくらいだから、当然おしゃれでお勧めの田舎は富良野だろ?」

 本を手にした世良は、ぱらぱらとめくった。

「最後まで読んでからのお楽しみ。それでも分からなかったら教えてあげる。ねえ、簡単に本の趣旨を説明しておきましょうか?」

 雪子はおおまかな内容を早口で喋った。世良は必死に話を聞いた。

「にわか仕込みの作家は不安だけど、こうなった以上軽い気持ちでやってみるか!」

「その調子。明日の出版記念イベントには、北海道知事も来るみたいよ。噂では相当な美人らしいわ。楽しみね」

「楽しみというより緊張の連続だよ。そうだ、着替えを取りに帰らなければ……」

 ソファーに腰掛けていた世良は、思いついたように立ち上がった。

「大丈夫。着替えはここよ。足りなければ送ってあげるわ。気を付けて行ってらっしゃい。じゃあねー」

 ボストンをテーブルに置いた雪子は、ウィンクしながら控室を出て行った。

「手際の良い奴だな」と、世良は一人つぶやいた。

 雪子と入れ替わるように、役人二人が戻ってきた。

「失礼します。予定より少し早いのですが……。両省で話し合った結果、明日の十一時から予定しておりました占冠での記念式典と祝賀会は、代役を立てることで調整がつきました。明日は午後一時から富良野文化会館にて、『フラノで乾杯』の出版記念を兼ねた『大自然とともに生きる』の式典を取り行うことになりましたが……。よろしいでしょうか?」

 富田と野川が世良に注目した。

「異存はありません。その占冠の代役は誰になったのですか?」

 低姿勢の二人に恐縮した世良は、どうでも良いことを尋ねてしまった。

「たしか一般の方だと聞きました。先生が是非にとおっしゃるなら、これから調べてまいりましょうか?」

 野川は神妙な表情で言った。

「思い付きで言ってしまっただけです。気にしないでください。ところでこの三日間は、富田さんと一緒ということでよろしいのですね?」

「それが、困ったことになりまして……、わが省の企画案にアシスタントという形で、経産省の野川さんも同行することになりました。よって三人での行動となりますが、不都合であれば野川さんには外れてもらってもいいですよ」

 富田は胸を張った。

「そっちがそのつもりなら……。世良先生、富良野なんて代役に任せて占冠に行きましょう」

 野川は富田の胸を軽くつついた。

「もうそれくらいにして、三人で仲良く行きましょう」

 世良が二人の間に分け入ると、富田と野川は渋々うなずいた。

 午後二時からの懇談会も予定通り終了し、富田、野川、世良の三人は、さまざまな思いを込めて北の大地へと旅立った。


 旭川空港に舞い降りた三人はタクシーに乗り込み、夜の帳が下りた旭川市内へと向かった。

「世良先生、ホテルの食事をやめて外食にしませんか? せっかく北海道に来たことだし、秋の味覚を満喫しましょう。リクエストがあれば何なりと言ってください」

 富田は携帯の検索サイトで、お勧めの居酒屋を調べ始めた。

「運転手さん。旭川プリンセスホテルの近くにお勧めのお店はありませんか? インターネットなんかには載っていない穴場的なお店です」

 助手席の野川は、すぐさま運転手に聞いた。

「それだったら、『粉雪』という居酒屋をお勧めします。旭川と富良野に一店舗ずつだったかな? 最近できたばかりで、まだあまり知られてない隠れ家的な店です。食材を地元中心に仕入れているので、けっこうリーズナブルなメニューが揃っていますよ」

 タクシードライバーは、行きつけの店だと付け加えた。

「先生、どうしましょう? 『粉雪』が良さそうですね! ところで富田さん、美味しそうなお店はまだ見つかりませんか?」

 後席を振り返った野川は、得意げな表情だった。

「候補を絞っていたところさ。世良先生がいいとおっしゃるのならそこにするよ。君にしては上出来じゃないか」

 富田は悔しそうに検索サイトを閉じた。

「食事のことならタクシーの運転手さんに聞くのが一番でしょう。常識ですよ」

「運転中に話し掛けたら危ないと思ってね。さすが君は名アシスタントだよ」

「私はアシスタントではありませんから。あなたの監視役です。お忘れなく。世良先生、運転手さんお勧めのお店でよろしいですか?」

「お二人とも仲良しですね。『粉雪』にしましょう」

 世良の一言で富田と野川の論争は終わった。言い返す気力も失くしてしまう言葉なのだ。

 そのとき、旭川市内へ快走していたタクシーが突然急停止した。

「おっとー。急にすみません。皆さん大丈夫ですか! 」

 運転手は申し訳なさそうに言った。

「何かが横切ったように見えましたが?」

 踏ん張った姿勢の野川が運転手に尋ねた。

「キタキツネです。このようなことはめったにないのですが、これは何か良いことの前触れかも知れませんよ。この辺では神の使いだとも言いますから」

 タクシーが再び走り始めた。

「本当にびっくりしました。神の使いならなおさら当たらなくてよかったです。それでは良い展開を期待して、『粉雪』までお願いします」

 野川はまだシートベルトを握りしめていた。

 雪子に今夜の予定をメール送信していた世良は、道端からキツネが見つめていることに気付いた。控室に貼られていたポスターのキタキツネが、晩秋の装いを始めた北の大地まで追いかけてきたのかも知れないと密かに思い、再び座席に身を沈めた。


 居酒屋『粉雪』の看板が、夜風に吹かれきらりと光っている。秋の味覚を求めてやってきた三人は、足早にのれんをくぐった。

「今日はお疲れ様でした。それでは、三人の北海道入りを祈念致しまして、乾杯!」

 富田の音頭で初日の夕食会が始まった。

「美味しい。やっぱりビールはサッポロですね。さあ、飲んで食べて明日に備えましょう」

野川は中ジョッキを一気に空けた。

「それではお言葉に甘えて……。鵡川産ししゃもの一夜干しと、サーモンのさしみをお願いします」

 世良は控え目だった。

「先生、ご遠慮なさらずに何でもどうぞ。わたし、イモもちとイカ焼きにしようかな。それとビールのおかわり」

「ぼくはギンダラのかま焼きとサーモンのマリネ。先生、北海道産ジンギスカン焼きもありますよ。これは美味しいと思います」

 富田は、『本日のお勧めメニュー』を指差した。

 程なくして料理が揃い始めた。

「ご来店ありがとうございます。ご注文の品はこちらでよろしかったでしょうか?」

 料理を運んで来た店員が尋ねた。

「わたしのイモもちが見当たらないけど……」

 野川の口が一瞬とがった。

「申し訳ございません。すぐにお持ちします」

 店員は慌てて引き返した。

「そんなにイモもちを食べたいのなら、持ち帰りにすればいいだろ。ついでに朝食の分も頼むといいよ」

 富田は笑い飛ばした。

「一つで十分です。先生、このあと二人でハシゴしましょう。富田さんは抜きで」

 野川が二杯目を空けたとき、さっきの店員がやってきた。

「お待たせして大変申し訳ありませんでした。こちらはサービスにさせて頂きます」

 店員は野川に対し満面の笑みを絶やさなかった。

「野川さん、店側の気遣いで特大サイズのイモもちですよ。店内の雰囲気もなかなかだし、今日はここだけでお腹いっぱいになりそうです」

 世良がベルトを緩めてみせると、野川の表情も和らいだ。

「それでは景気づけに、蝦夷アワビの炭火焼を三つお願いします!」

 富田は照れくさそうに注文した。

 時間の経過とともに三人のテンションは上昇していった。その和みの中に声が掛けられた。

「あのー、いきなりすみません。どこからいらっしゃったのですか?」

 話しかけてきたのは隣の席にいた年配の男女で、男性の方はアル・パチーノ、女性の方はダイアン・キートンというハリウッドスター似のおしゃれなカップルだった。

「横浜です。ついさっき着いたばかりで、ここがお勧めだとタクシーの運転手さんに聞きました。今日は市内に泊まって、明日の朝一番の列車で富良野に向かいます。二泊三日の予定で来ました」

 世良が応えた。

「あー、やっぱりそうだったのですね。なんとなく港の香りがしてきたもので……。わたし達も二〇年前横浜から引っ越して来て、今は富良野の方に住んでいます。今日は知人のパーティーが旭川プリンセスホテルでありまして、そのまま宿泊するつもりです。いつも大自然の中にいる時間が長いから、たまには繁華街に出て楽しみたいなと思っていたのですよ」

 ダイアン・キートン似の女性から、上品さがにじみ出ていた。

「気が合いますね。わたし達も旭川プリンセスホテルですよ。申し遅れました。こちらから富田さん、野川さん、僕が世良です。どうぞよろしくお願いします」

 富田と野川も軽く頭を下げながら声を合わせた。

「こちらこそよろしくお願いします。主人の春日扇かすがかなめと、私が雪子ゆきこです。富良野の方で『フォックスリバー』というカフェを二人でやっていましてね。店の造りが古いからなのか、いつしか幻のカフェとも呼ばれるようになったのですよ。元々はペンションだったのを、二人で改装して今日まで頑張ってきました。でも七〇歳を過ぎたわたし達の方こそつくりが古くなっちゃって。そろそろ店じまいですね」

「全然そんな風には見えません。まだまだこれからですよ……。すみませんが、お名前はどのような字を書かれますか?」

 世良は、春日夫妻のつづりが気になった。

「名乗るほど立派ではありませんが……。夫のかなめは扇という字で、私は雪の子と書きます。どうかなさいましたか?」

 春日雪子は微笑んだ。

「実は、私達夫婦と名前が一緒なのでびっくりしました。これも何かのご縁だと思います。一緒に飲みませんか? さあ、ビールでもどうぞ!」

 世良は春日夫妻との出会いを運命的なものだと判断し、役人二人も合流を歓迎した。

「二〇年といえば長く感じますが……。カフェの周りの生活環境も厳しいでしょうし、慣れない土地で何かと大変な思いをされたのでは?」

 野川の問いかけに、それまで黙っていた春日扇が反応した。

「えぇ。辛いこと、楽しいこと、今までいろんな体験をしてきました。でもねぇ……、移りゆく風景を見ていると、心の天秤に乗っかったいろんな重荷がきれいさっぱり消えてしまうのです。そう、傾きかけた心にバランスを取り戻してくれるみたいに。長年森の中に住んでいて思うのは、ここならではのセピア色の風が、おしゃれな哀愁をつれてやってくるのです。他にはない雰囲気に染まってしまいましてね。そんな感じの場所がここにはまだ残っています。からっぽになれる場所が……」

 アル・パチーノに似た春日扇には存在感があった。

「ハイカラすぎて、わたしイチコロです」

 野川はうっとりしていた。

「北の大地が、人生のゆがみを直してくれるのですね」

 富田がしみじみと言った。

「僕はカラマツ林の紅葉を目的に来ました。その場所が手招きしているような気分です。幻のカフェはどの辺りにあるのですか?」

 世良は真顔になっていた。

「空知川をさかのぼった上川南部の方です。富良野管内で、カフェ『フォックスリバー』と尋ねられたらお分かりになるかと……。世良さんのご希望通り、紅葉の進んだ奇麗なカラマツ林があるから見つけやすいはずですよ。明日は午後から開けますので是非お越しくださいませ。主人共々待っております」

「目印は綺麗なカラマツ林ですね。何だかワクワクしてきました。イベントも午後三時までには終わる予定だから、それからでもお邪魔させていただきます。改めて乾杯しましょう。すみません! ビールお代わり」

 カラマツ林と聞いた世良は、『大自然とともに生きる・北海道フェア』というタイトルの広告写真に幻のカフェを重ね合わせていた。

 居酒屋『粉雪』旭川店で知り合った春日夫妻と意気投合した三人は、時が経つのも忘れ、秋の夜長に話の花を咲かせた。


 富良野線のレールが、朝もやの中を南へ伸びている。富田、野川、世良の三人は、朝の空気をかき分けディーゼル列車に乗り込んだ。

「富田さんも野川さんも眠たくないですか?」

「僕は大丈夫です。今日も一日頑張りましょう」

「わたしも大丈夫です。先生、こんなに朝早くから読書ですか?」

「えぇ。これも仕事ですから」

 雪子以上の作家になり切ろうと、『フラノで乾杯』をめくり続けた世良は、短い時間でおおまかな内容を理解した。だが、ちょっぴりおしゃれな田舎の場所までは分からなかった。

 旭川駅を午前七時半過ぎに出発し、九時前には富良野駅に到着した。それからすぐ文化会館へ直行し、三人はイベントの準備に取りかかった。

「一段落しましたね。せっかくだからお参りしましょうか。近くに神社がありますよ。世良先生、富田さん、行きましょう」

 イベント開催一時間前になったころ、富田、野川、世良の三人は、黄色く染まった樹木が立ち並ぶ富良野神社で成功祈願を済ませた。

 午後一時から始まった『大自然とともに生きる』の式典と、『フラノで乾杯』の出版記念は大盛況のうちに終了し、会場では懇談会が始まっていた。世良のもとに一人の女性が近付いてきた。

「世良先生、先程は貴重なお言葉を賜わり、大変勇気付けられました。北海道知事の谷口です。先生の執筆された『フラノで乾杯』のおかげで、どの自治体とも移住関連の問い合わせが増加傾向にあります。それに転入者数も昨年を上回りそうな勢いです。本当にありがとうございました」

 女性知事は気品にあふれていた。

「こちらこそお招きに預かり、ありがとうございました。私が感じたのは、各自治体担当者の真心です。それともう一つは大自然の魅力です。昔からこの地で刻み続けている静かな時間に、癒されたいと思う人達が自ずと集まって来るのですから、私の書いた本など関係ありません」

「やはり先生は謙虚な方ですね。私たちもその姿勢と地道な活動で、移住希望者を迎え続けたいと思っています。そう言えば、こちらへの移住をお考えだと秘書様からお聞きしましたが、心より歓迎致しますのでいつでもお越しくださいませ」

 谷口知事は握手を求めてきた。

「移住するなら北海道と決めております。これからも宜しくお願い致します。ありがとうございました」

 肩のこる挨拶の中、世良は雪子の影を感じた。

 谷口知事は公務があると言い残し、忙しそうに去っていった。世良が軽い溜息をついたところに、同年代風の男性がやって来た。

「世良先生、富良野市長の桂木です。この度は先生のお力で富良野が脚光を浴びることになり、地域住民も心より感謝している次第です。誠にありがとうございました」

 桂木は笑顔で名刺を差し出した。

「とんでもございません。先程も谷口知事に申し上げたのですが、移住受入れ窓口担当者の真心と大自然の魅力だけで、わたしなど何の役にも立っていませんよ」

 世良も笑顔を返した。

「先生の有難いお言葉に担当者も歓喜しております。突然ですが今後のご予定は?」

「そうそう、『フォックスリバー』というカフェを探しているのですけど、幻のカフェと呼ばれるくらいだから誰に聞いても知らないみたいで……。富良野の方だと聞きましたが、桂木市長はご存じありませんか?」

 世良は思いついたように尋ねた。

「それでしたら市役所の職員を一人付けますので、何なりとお申し付けください。確かに聞いたことがあるけど……、何処だったかな?」

 桂木は、携帯のアドレスを開いて電話をかける仕草をした。

「せっかくですが、同行者が他にもおりますのでお気遣いなく」

 世良は慌てて断った。

 会話中に着信があった桂木市長は、そのままどこかに行ってしまった。そこへ今度は目力のありそうな女性がやってきた。

「はじめまして。若松緑わかまつみどりです。奥様の雪子さんとは同級生で、良く知る間柄なのよ。お互い大親友だと思っているから今後ともよろしくお願いします」

 若松緑は微笑みかけてきた。

「こちらの方こそよろしくお願いします。いやー、信じられない。まだ三〇代にしか見えません。失礼ですが、ずっと富良野にお住まいですか?」

 世良は社交辞令のつもりだった。

「小学校を卒業するまで横浜に住んでいました。中学になって父親の転勤で富良野に来て、もう三十年以上になります。わたしのこと、もっともっとお話ししましょうか?」

 若松緑の仕草が急に色っぽくなった。

「あなたのような美女にめぐり会えて光栄です。是非今度は詳しい話を聞かせてください。ところで『ルビーふらの』というワインはどうですか?」

 調子に乗り過ぎた感のある世良だった。

「美女だなんて、あー、ぞくぞくしちゃう……。『ルビーふらの』は上品ぶっていてパンチ不足なの。富良野ワインと言えば『秋の呪文』に決まりよ。大人のワインと言うか、ひとくち飲めばすぐにしびれて気持ち良くなってくるわ。抜群でしょ」

 目が爛々と輝き始めた若松緑は、『秋の呪文』というワインのパンフレットを取りだした。

「名前を聞いただけで、酔った気分になりました。ぜひ買ってみます」

 雪子が勧めた『ルビーふらの』は、すでに世良の頭から消えていた。

「世良さん、いえ先生、この後はどうなさるおつもりですか?」

「これから幻のカフェ『フォックスリバー』に行こうと思っているのですが、名前が示すとおり場所が特定できません。若松さんはご存知ないですよね?」

「んー、聞いたことはあるのだけど、どうにも思い出せないわ。このはがゆさを分かって頂けますか? 思い焦がれる気持ちと一緒よ。先生、あなたの電話番号が欲しくてたまりません。思い出した時のために……。それとも奥様にかけた方がいいかしら?」

 若松緑の激しい息遣いが伝わってきた。

「いいえ、直接かけてください。番号は○○番です。まったく遠慮はいりません」

 緊張気味の世良は強がりを言ってしまった。

「わたしの番号とメールアドレス、それに住所はこれです。先生のメールアドレスもくださいな」

「は、はい」

 世良は言われるままだった。

「雪子には内緒よ。二人だけの秘密にしましょう! 真夜中の着信を期待しています」

 若松緑は、世良を見つめながら手渡した。

「えっ、あっ、そうだ、絵になるようなカラマツ林を知りませんか? カフェを探す近道のような気がして……」

 住所まで書かれたメモを握りしめ、世良の鼓動は激しくなっていた。

「絵心はないけど、綺麗なカラマツ林なら上川管内の何処にでもありますよ。特にここから北へ行くほど大地にうねりが加わって情熱的なの。ねえ、先生。今から燃える秋を見に行きましょうよ。そのあとはディナーでもいかが?」

 若松緑は持っていた車のキーで、世良の胸にハートマークを描いた。

「あっ……。本当にごめんなさい。一緒に来ている仲間との約束がありまして……」

 一瞬にして舞い上がった世良は、断りたくない衝動に駆られた。

「先生と二人でお出かけしたかったのに残念ですわ。でもわたし待っています」

 突然現れた若松緑は、世良の心に一瞬で入り込み、手を振りながら去っていった。

 世良が若松緑の番号を携帯に打ち込んでいるところへ、突然電話が掛かってきた。

「お疲れ様。挨拶も大変だったでしょう。少しはドキドキするくらいの会話になったの?」

 雪子からの電話は、何処かで見張っているのではないかと思えるほど絶妙なタイミングでかかってきた。

「知事のことだろ。そりゃドキドキしたさ。その知事から、移住の話が出ましたけど……。秘書様」

 世良は、知事の話題に振りながら辺りを見渡した。

「本の構成上、知事に移住をほのめかしました。気にしないでね。地元の市長さんとも会えたの?」

「笑顔が印象的な人だったけど、着信があってすぐにいなくなったよ。会ったのはそれくらいかな」

 世良はとぼけていた。

「本当? 他にご挨拶した人はいなかったのかしら?」

 雪子はしつこく聞いた。

「あー、思い出した。若松緑さんにも会ったよ。君たち幼馴染らしいね」

 世良の額に汗がにじんできた。

「そうよ。あなたのこと色々と話しておいたから、夕食の誘いがあるかも知れないわ。それに彼女いま独身だから、今夜あたり危険な予感……」

「勘弁してくれよ。たぶん今日はホテル近くの居酒屋に朝までいるはずだから、あの人と会う時間などございません。それも永遠に! 何より役人二人との約束があるだろ。そう言えば昨日旭川で、いなせな年配の夫婦と知合いになって盛り上がったよ。その人達がやっている『フォックスリバー』というカフェに行ってみようと思っているけど、それがまた幻のカフェと言うだけあって誰も知らなくて正直困っています。その名前に聞き覚えないかな?」

 若松緑のことを意識していた世良は、カフェの話題にすり替えた。

「フォックスリバー……。確かその店ならツアーの下見で北海道を回ったとき、富良野あたりで立ち寄ったかも知れないわ。場所を聞かれても思い出せないけど、驚くほど綺麗なカラマツ林がすぐそばにあったような気がする。何となく古めかしい店だったかな?」

「地元の人によると、綺麗なカラマツ林は何処にでもあるみたいだよ。他に何か目印はないかな?」

 世良は軽い気持ちで言ってみた。

「あの付近で綺麗なカラマツ林は限られているはずよ。ねえ、いったい誰に聞いたの? 教えてくれた地元民もいい加減なものね!」

 雪子はいきなり強い反応を示した。

「誰だったかな……。それよりカフェのジェントルなマスターがね、『移りゆく風景を見ていると、心の天秤に乗っかったいろんな重荷がきれいさっぱり消えてしまうのです。そう、傾きかけた心にバランスを取り戻してくれるみたいに。長年森の中に住んでいて思うのは、ここならではのセピア色の風が、おしゃれな哀愁をつれてやってくるのです。他にはない雰囲気に染まってしまいましてね。そんな感じの場所がここにはまだ残っています。からっぽになれる場所が……』だって。渋いねー」

 ついつい若松緑に絡んだことを言っては話題を変える世良だった。

「きっとそこにあるのは日本で一番美しいカラマツ林じゃないかしら? 聞いただけでその風景に引き込まれちゃった。洗練された大人は上品ね。言うことに重みがあるし、かっこいいわ。やられたって感じよ」

「まったく同感だね……。それとその人たち、苗字は春日だけど名前が僕たち二人と同じだったから運命まで感じてしまったよ」

「まさしく運命の出会いかも知れないわね。その春日さんだっけ? なんとなくだけど、紳士淑女で優しそうな人達だったような気がするわ。間違っていたらごめんなさいね……。あっ、そうだ! ずっと前の旅行雑誌にカフェの特集があったはずだから、見つけたらメールで送ってあげる。ところで今夜のホテルは何て所なの?」

 雪子は過去の記憶をたどっているようだった。

「ロイヤルホテル富良野だったと思うよ。富田君たちが手配するから任せっぱなしだけどね。ここの評判はどうなの?」

「いいホテルよ。そこなら安心ね。お酒はほどほどに。じゃあねー」

 鋭さと呑気さをあわせ持つ雪子との会話が終った。

 世良は息つく暇もなく富田と野川を探し始めた。


「もしもし私だが、『作家先生をあの場所に行かせないように』とのことだ」

「いかなる手段を使っても阻止します」

「だが手荒な真似は禁物だぞ。何か方法はあるのか?」

「メールにあったとおり、ナビは細工しました」

「メール? なるほど直接の指示か……、まるでフィクサーだな。また電話するから情報収集を頼む」

「お任せください」

 富良野市内のとある場所で、何者かによる悪巧みが始まった。


 富田と野川は、事務所脇の応接室から出てきた。

「富田さんも野川さんも忙しそうですね?」

「実は地元ケーブルテレビの取材が三件ほど急に決まっちゃって。早く報告しようと思ったけどバタバタしていたのと、女性の方とお取込み中のようでしたから控えておりました」

 野川は冊子を世良に渡した。

「あー、あれね。通りすがりの挨拶ですよ……。さっきテレビの取材とおっしゃいましたが、わたしも関係あるのですか。それにこれは?」

 世良は野川の指摘に汗をにじませた。

「先生への質問内容です。取材時間は一〇分だけなので安心してください」

 野川は、世良の額に滲んだ汗を拭き、身だしなみも整えた。

「やれやれ、また緊張してきました。助け船をお願いします」

「先生、大丈夫です。僕達に任せてください。それでは始まります」

 富田がカメラの横からピースサインを送った。

「――はじめまして。CATV富良野の北斗です。宜しくお願いします」

「はじめまして。世良扇です。宜しくお願いします」

「世良先生、早速ですが質問に入らせて頂きます。まずは『フラノで乾杯』を拝読させて頂いた感想ですが、秋の北海道でさりげない哀愁を表現した夢のある小説だと思いました。ただ一つだけ分からなかったのは、大自然に囲まれたちょっぴりおしゃれな田舎は結局のところ何処なのでしょうか? タイトルと違うような気もしましたけど……」

「さすがですね。良いところに目を付けていらっしゃる。この本のポイントはそこなのです。要するに富良野市などと特定せず、曖昧な表現にしたのは上川南部という広範囲の地域を指しているからです。目指すポイントは間違いなくその中の何処かに設定されています。多分この本を読まれた方はおしゃれな田舎を探し出したいという衝動に駆られると思いますが、でもそれは皆さんそれぞれの心にある風景なので今回は特定したくなかった。次回作というか第二部ではまず場所が明らかになり、その後大きな事件に発展するかも知れません……。ご期待頂ければ幸いです」

 世良は、雪子から聞いていたことをそのまま述べた。

「なるほど……。ありがとうございます。それでは次の――」

 世良は初めてのテレビ取材を順調に済ませた。緊張の連続で気付いたときには二社目の収録も終っていた。

「世良先生、あと一社の予定ですが、少し遅れているようですね。局の方に連絡してみます」

 野川が電話番号を調べ始めた。

「いま連絡があって、トラブル発生ということで三社目がキャンセルしてきました。これで終わりです。先生、もう三時を過ぎましたよ! 今すぐ『フォックスリバー』を探しに行きましょう……。入口にある白のワンボックスです」

 富田はレンタカーの運転席に乗り込んだ。

「さすが富田さんですね。実は一刻も早く行きたくてうずうずしていました」

 世良は助手席に座った。

「わたしもダンディな春日さんのコーヒーを飲みたいと思っていたところです。富田さん、手回しが良いですね」

 野川は後部座席から話しかけた。

「アレンジメントの富田ですから……。滑っちゃいましたか? あー、空も山も澄み切っていて綺麗ですね。それでは夕食前のドライブに出かけましょう」

 真っ青な秋空の下、富田運転のワンボックスは、紅葉一色の森へ向けて走り出した。

 程なくして静かになった車内では、三人それぞれに携帯を操作していた。

「野川さん、『フォックスリバー』の場所は分かりそうですか? 僕は知人からの連絡に期待していたのですが、このままだとお手あげかも知れません」

 若松緑のことでもやもや感に苦しむ世良は、「どうすればいいのか分かりません」という何ともあやふやな文章でメールの送信ボタンを押してしまった。

「それが……、経産省の情報網を駆使して問い合わせているのですけど、なかなか返信メールが来なくて。富田さん、ナビには喫茶店の名称で載っていませんか?」

 野川は、稀にみる真剣な表情で携帯を操作していた。

「出発する前に検索したけど、『フォックスリバー』では登録がないみたいだね。あるとすれば北部方面だろうとテレビ局の人に聞いただけで、これといった情報はもらえなかったよ。携帯も見ているけど電話番号も住所も分からないし、どうしようかな……」

 富田はナビと携帯を見比べた。


「社長。作家先生がすぐ近くまで来ているようです」

「分かった。おーい、全員一次撤収! レッカーも片付けろ!」

「こんな調子で明日までに終わりますかね?」

「心配するな。徹夜すれば楽勝だ」

「えっ、徹夜ですか……。依頼したのは何者ですか?」

「そのうち姿を現すよ。影の仕掛け人が……」

 森の中にこだましていた工事現場の騒音は瞬時に鳴り止んだ。何かを企む者たちが、ここにもうごめいていた。


 当てもなく出発してしまった三人は、考えが甘かったことに気付き始めた。

「弱りましたね。誰かに尋ねたいけど人影もないし、やはり幻のカフェだからそう簡単にはたどり着けませんよ。引き返した方がいいかも知れないな……。富田さん、今どの辺りまで来ましたか?」

 世良は時刻が気になり始めた。北海道の夕暮は早いからだ。

「ここは何処だろう……。さっき吹上温泉を過ぎて北進中だから、このルートで合っているはずですよ。そろそろ着くのではないでしょうか……」

 富田は諦めきれない様子だった。

「どこかでUターンしてください。もうすぐ暗くなるし、今日のところはホテルに帰りましょう。残念だけど、また明日探したらいいじゃないですか。春日さんも分かってくれますよ」

 世良の提案により、直進していたワンボックスは方向転換を始めた。

 この時期の青空は四時を過ぎると次第に色が抜け落ち、白みがかった薄いピンク色へと瞬く間に変わっていく。忍び足で迫ってくる黄昏時が、秋風模様のカラマツ林を幻想的な世界へと変化させた。

「あっ、あれを見てください。先生、富田さん、ほらあそこ!」

 野川が指差した先に背の高い山並みが見えた。夕陽に照らされた稜線が、茜色に染まって鮮やかに浮き上がっている。

「あれは富良野岳だよ。いや十勝岳かな?」

「富田さん、違います。もっと左手前の林道を見てください」

 夕日から伸びるスポットライトが移動してきた瞬間、山の麓に黄色く衣替えした広葉樹の森が見えた。その中で一際目立つカラマツ林が淡い琥珀色に光っている。夕日がピンポイントで照らす木々の間には、揺らぎながら落ちて行く枯れ葉が一つ一つ煌めいていた。そして屋根のない廃屋と、小川の近くにはキツネの姿もあった。

「富田さん、野川さん、きっとこれですよ。『セピア色の風が、おしゃれな哀愁をつれてやってくる』というのは、こんな風景のことではないでしょうか? まさにため息の出るような美しさですね。ここが『フォックスリバー』だったら良かったのに……」

 三人はそれぞれの思いの中で、まったりとした時間を過ごした。空に浮かんだ雲が、明日の天気を約束するように、真っ赤な顔で流れていた。

「先生、富田さん、今夜は打ち上げを兼ねてゆっくり飲みましょう。ホテルの近くにある居酒屋だけど、かまいませんよね」

 野川が後席から話しかけた。

「さすが名アシスタントだよ。何て処なの」

 富田が振り向いた。

「『粉雪』に決まっているでしょ。でも今日は富良野店だから、新鮮な気持ちで飲めるはずです」

「いいねぇ。先生は『粉雪』でかまいませんか?」

「いいですよ。今日は持ちましょうか……」

 携帯を眺めていた世良はどことなく上の空だった。それは、「今夜会えないでしょうか?」と若松緑からハートマーク付きのメールが入ったからである。

「先生、ご心配には及びません。今度の経費は全て総務省が持つことになっていますから。ですよね。富田さん?」

 野川には、世良が気兼ねしているように映った。

「そうですよ。先生は何も気になさらずに。ついでだから弥生ちゃんの分も面倒見るよ。心配しなくていいから」

 富田も野川の配慮を悟ったつもりだったが、少しばかり口が滑った。

「当然です。ただし、弥生ちゃんはやめてください。いいですね!」

 野川の表情が険しくなる前に、ワンボックスが動き出した。


 夕陽の中で佇んでいたほんの僅かな間に、秋の黄昏時は駆け足で過ぎていった。日が暮れた富良野の街で、三人を待っていたのは秋の味覚だけではなかった。何かを企む者たちが、一つ二つとちらつき始めていた。

「すみません。チーズフォンデュ、サーモン刺身、ポテトフライ、ジンギスカン焼き、それにサッポロ生ビール三つお願いします」

 富田がオーダーを通してから、ようやく世良が現れた。

「先生、どうされたのですか? お料理を適当に頼みましたけど」

 野川は心配そうに聞いた。

「遅くなってごめんなさい。ここの近くで富良野ワインを見つけたものだから……。とりわけ『秋の呪文』は、体の奥までしびれる大人のワインだそうですよ。今回のお返しということで、あなた達にプレゼントさせてもらいます」

 世良は、若松緑にもらった『秋の呪文』のパンフレットを取りだした。

「僕もワイン党だから早く飲んでみたいです。ありがとうございます。さあ、先生も野川さんもお疲れ様でした。明日こそ『フォックスリバー』に行けますように。それでは乾杯!」

 富田の合図で二日目の飲み会が始まった。旭川プリンセスホテルを早朝から出発し、列車に揺られたどり着いた富良野で肩のこるイベントを成功させた。三人の満足度を、グラスに注がれたビールが一気に押し上げた。

「明日も朝から晴れるみたいですよ。日曜日だし観光客も多いでしょうね。幻のカフェ、どうやって探すつもりですか? 富田さん」

 野川はチーズフォンデュ用のピックを、富田の胸に目がけて投げる素振りをした。

「それって殺意を感じますけど……。とりあえずホテルの人にでも尋ねてみるよ。それとも思い切って警察というのはどうでしょう。先生?」

 富田は、野川との間を広げた。

「大げさすぎませんか? それよりあの風景を思い出す度にため息ばかりで、何とも切ないものですね。ハァー」

 意を決してメールの送信ボタンを押した世良は、胸の高鳴りが強すぎて会話に集中できなかった。その返信内容は、「了解です。必ず連絡しますので、待っていてください」だった。

「同じです。『おしゃれな哀愁』が、まだ私の中で渦巻いています」

 野川はチーズフォンデュの鍋の中でピックを回し続けた。

「僕も夢中になりました……。あっ、裏メニューに富良野ワインがあるみたいですよ」

 店員から『秋の呪文』があることを聴き出した富田は、さっそく注文した。

 しんみりしていた今夜の飲み会も、時間の経過とともに陽気なムードになってきた。

 店の中にはグラス片手に笑顔を振りまく世良の姿があり、店内入口にある待合コーナーのモニターには、地元ケーブルテレビ局の取材番組が映っていた。『フラノで乾杯』を片手にインタビューを受けるもう一人の世良を、じっと見つめる鋭い視線がそこにあった。


『粉雪』富良野店の開店と同時に始まった飲み会は、旬の料理と『フォックスリバー』の話題で盛りあがった。そこへ突然顔見知りが現れた。

「あら、世良さんじゃありませんか。富田さんに野川さんもこんばんは。こんな所でお会いするなんて、これも何かのご縁ですね。さっき地元のテレビ番組に世良さんが映っていましたよ。作家の大先生だったのですね。誠におみそれ致しました」

 昨夜旭川で同席した春日夫妻だった。

「こんばんは……。テレビの件はさておき本当にびっくりです。今日は春日さんのお店を探しに行ったのですが、残念ながら見つけられませんでした。その代わり眩しすぎる光景に出会って春日さんの渋いお言葉が甦りましたよ」

「そうなの……。でも素敵なことがあって良かったじゃない。わたし達は逆のパターンだわ。旭川から帰る途中車が故障しちゃって、まだ修理中だから帰り着いてないの。それで目の前にロイヤルホテル富良野があったから泊まろうかなと思いましてね。地元なのに変でしょ」

 春日雪子は照れ笑いの仕草をした。

「なんとホテルまで一緒とは、もう運命としか言いようがありませんね。しかし大変だったでしょう。車の修理は長引くのですか?」

 世良は、春日扇に聞いたつもりだった。

「朝一番で取りに行く予定だけど……。世良さん、明日はわたし達とドライブに出かけてみませんか? この時期にしか味わえない燃える秋を、とっておきのコースで案内させて頂くわ。天気も良さそうだし紅葉狩りには最高よ!」

 春日扇より先に雪子が反応した。

「是非ともお願いします。正直何処に行くか迷っていたところです。『フォックスリバー』は最後の楽しみということで、富田さんも野川さんもよろしいですか?」

「秋の北海道をドライブするのが夢でした。先生、行きましょう」

 野川はチーズフォンデュのピックを小さく突き上げた。

「どこへでもお供します。運転は任せてください……。君、そのピック危ないよ」

 富田は、野川との間をさらに広げた。

「それで決まりですね。わたしが道案内しますからついて来てください。店に着いたら、とっておきの一杯をお出ししますよ。自信作をね」

 ようやく会話に参加した春日扇が、ガッツポーズをした。

「本気の一杯を楽しみにしておきます。この席でよろしければ今夜も一緒に飲みましょう。さあ、こちらへどうぞ。すみません。生ビール二つ!」

「ありがとう。お邪魔します。世良さん、生ビールの後は『ルビーふらの』にしませんか? ここにも『秋の呪文』があるけど、なんとなく金縛りに遭いそうだわ」

 春日夫妻は、『ルビーふらの』三本を注文し、三人が座っていた大きなテーブルに合流した。

「ところで『フォックスリバー』の……。あれっ、ひかりじゃないか。どうしてここに?」

 カフェの住所と電話番号を尋ねようとした世良の前に、旅行会社勤務で一人娘のひかりが突然現れた。

「新しいツアーの企画で帯広に来たの。でもそこから母さんとは別行動になっちゃった。まったく連絡も付かないし、ロイヤルホテル富良野に取った部屋も、このままだとキャンセルになるかも知れないわ。父さんには連絡あったの?」

 世良のすぐそばで立ち尽くすひかりは、疲労の色をにじませた。

「昼過ぎに一度あったのかな。『じゃあねー』で終わったよ。それにしてもひかりまで同じホテルだったとは不思議な巡り合わせだね」

 そのときテーブルに置いてある携帯がメールを受信した。画面の文字が若松緑と表示されているのを見た世良は素早く両手をかざしたが、ひかりの視線は遮れなかった。

「誰なの、その人? 隠したりして何だか怪しい予感……」

 ひかりは疑いの眼差しで世良を見つめた。

「何でもないよ。共通の友人さ。お願い事をしているのだけど、その返事じゃないかな。皆さん突然ですが、娘のひかりです」

 話をはぐらかしたい世良は、ひかりを紹介した。

「こんばんは。世良ひかりです。この度は父がお世話になっているそうで、何とお礼を申して良いやら……。今後ともよろしくお願いします。今日は帯広空港から占冠、そして富良野に来たのですが、行く当てもなくふらりと入ったら父が居たのでびっくりという次第です。お邪魔してもよろしいでしょうか?」

 ひかりが挨拶をする最中、世良は隙を見て受信メールを開いた。そこには「もう、どうにかなりそう……。先生、たすけて!」とあり、数えきれないほどのハートマークに埋め尽くされていた。世良はメールを削除するなり、『秋の呪文』が入ったグラスを一気に空けて逸る気持ちを静めていた。

「女性が増えてうれしいわ。野川です。よろしくお願いします。私の横にいらっしゃい」

「富田です。よろしくお願いします。気を付けてね。その人お酒強いから同じペースで飲んでいたら潰されるよ。こちらは富良野で幻のカフェ『フォックスリバー』を営まれている春日さんご夫妻です。なぜか二日連続で晩御飯にご縁があり、明日のドライブまでお付き合い頂くようになったというところかな」

「春日雪子です。となりが主人の春日扇です。宜しくお願いします」

「春日さん達の名前、なんと僕たち夫婦と同じだよ。字まで同じだから強烈な縁を感じてしまってね」

 じわじわと『秋の呪文』が世良の体に回りだした。

「素晴らしい出会いが待っていたのね。やっぱり北海道には神が宿っているのよ。ねえ、カウンターに座っている男の人、さっきからこちらを見ているけどあの人も知り合いなの?」

 ひかりは声を細めて、目立たないように指差した。

 そこには黒いサングラスをかけた四〇歳くらいの男性が座っている。この時間にサングラスというのも異常に思えてしまう。さりげない視線がカウンターに向けられた。

「たぶん、野川さんの豪快な飲み方に驚いているだけさ。心配ないよ。ひかりちゃん」

 富田は空になった『ルビーふらの』のボトルを指差した。

「ひかりちゃんだなんて馴れ馴れしいわね! 今日は世良先生のテレビ取材とその放映があったからでしょう。有名人だから見られても仕方ないよ。さあさあ、何でも好きなものを頼んでくださいね」

 野川はボトルのまま飲みだしそうな勢いだった。

 全員納得したところで、ふたたび仕切り直しの乾杯となった。

「ひかりさんはツアーの企画調査をなさっているとか……。よろしければうちの店も覗いてくださらない? 古錆がなかなかいい味を出しているのよ」

 春日雪子は、ひかりのグラスに『ルビーふらの』を注いだ。

「ありがとうございます。古錆と聞けば趣がありそうですね。『フォックスリバー』というお店だったら、確か少し前の旅行雑誌に載っていたと思うのですが……。明日はわたしもご一緒させてもらえませんか?」

「こちらから招待するから是非とも来てくださいな。いままで何度か取材を受けたことがありましたけど、あまりにも田舎すぎるのでしょうね。最近ではお客さんがめっきり減ってしまって静かな日々が続いているのですよ。わたし達も歳を取り過ぎてしまったようです。それでもう潮時だなと二人で話していました。誰か後を引き受けてくれる人がいたらいいのだけど。残念だわ」

 幻のカフェ『フォックスリバー』は、消滅の道をたどっていた。

「まだ諦めないでください。密かな人気があるみたいで、旅行会社への問い合わせは多かったはずですよ。写真で見ただけですが、あのお店の周りにあるカラマツ林の風景は何度でも行ってみたいと思えるほど哀愁漂う素敵なものでした。もしかすると日本で一番美しい場所かも知れませんね。ずっとあり続けてほしいお店です。誰かいい後見人が現れるように祈っています」

 ひかりも春日雪子のグラスに『ルビーふらの』を注ぎ返した。

「ありがとう。嬉しいわ。主人が言った『セピア色の風が、おしゃれな哀愁をつれてやってくる』というのは本当よ。それほど秋風模様のカラマツ林には、誰でもおしゃれな気分にさせる力があるの。だからある意味、桃源郷なのかもしれないわね。突然ですが世良さん、ここに移住してカフェをやってみるつもりはありませんか? あなたならお似合いですよ。あー、いけないわね。湿っぽいことを言ってごめんなさい。こんな話はやめて陽気に飲みましょう」

 目頭を押さえていた春日雪子は、にこやかな表情で世良のグラスに『秋の呪文』を注いだ。

 ためらいがちの世良が一気に飲み干すと、周りでも次々にグラスが空き、『粉雪』の閉店まで続いた飲み会は、『フォックスリバー』とドライブの話で盛り上がった。


「もしもし私だが、首尾は上々なのか?」

「連絡が遅くなってすみません。いままで情報収集をしていたものですから」

「問題は明日だな。上手くやれよ」

「はい。作家先生の行動予定は入手済みなので、必ず良い結果を報告できると思います」

「しくじるなよ。チャンスは一回きりだ」

「お任せください」

 今宵も、何者かの悪巧みが進行していた。


 十勝岳から登った柔らかな日差しが秋の冷たい空気を暖め、薄い霧が流れ込んだ富良野盆地は幻想的な世界に様変わりしていた。ロイヤルホテル富良野の一室では、『秋の呪文』を飲み過ぎて熟睡していた世良の携帯が、聞き覚えのある着信音を響かせ始めた。

「おはよう。七時だからもう起きていたでしょ。昨日は本当に忙しくてホテルまでたどり着けなかったわ。それと緑からの伝言だけど、『待ち侘びて呪文を飲み過ぎました。しびれてきたのでおやすみなさい』だって。女心をもてあそぶなんて、あなたも隅に置けないわね」

「ちょっと待ってくれよ。僕はただ……」

 世良の発言はここで遮られた。

「そうだわ。旅行雑誌で見つけた『フォックスリバー』の写真、あなたの携帯に送信しておいたから後で見てちょうだい。早かったら今日の夕方までに合流できるかも知れないわ。また電話します。じゃあねー」

 強烈な目覚ましのように、一方的な雪子の電話が終った。

 世良は夢見心地で開いたメールの添付写真に引き寄せられた。建屋の様子が廃屋かどうか以外、夕暮れ時に見たカラマツ林の風景にそっくりなのだ。それに、『大自然とともに生きる・北海道フェア』の風景写真にも似ていると思った。やはりあの場所ではないか、いや少し違うかも知れない、という具合にイメージを繰り返しながら、ひっそりと佇む『フォックスリバー』が、自分という来客を待ち望んでいるようにさえ思えてきた。春日雪子からの誘い文句が頭をよぎり、同時に若松緑とのやり取りを悔やみつつ、切なさともどかしさを絡ませた世良の三日目は始まった。

「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか? 今日は皆さんの大切なお時間を少しだけわたし達に分けてもらいますね。もう朝霧も晴れてきたことだし、我が家の気まぐれさんについて来てくださいな」

 春日雪子のほのぼのとした笑顔の後ろには、真っ青な秋空を抱えた富良野の山並みが赤みを帯びて控えていた。

 春日扇が運転するシルバーのジャガーは、復活をアピールするようにすがすがしい朝の空気を切り裂いて先行している。富田が運転する八人乗りのワンボックスが、程良い車間でその後ろに続く。世良が助手席に座りナビゲーターを務め、後部座席に野川とひかりが座って上川南部の周回ドライブがスタートした。

「あのジャガーは古そうですけど、ダンディな春日さんにお似合いですね。渋すぎる……」

 ジャガーファンだと自負する富田が車間を詰めた。

「あまり見とれていると追突するわよ。ねぇ、ひかりちゃん」

 野川の指摘で再び車間が広がった。

「大丈夫さ。見失ったらまずいかなと思ってね。ところで経産省から出ている出張指示はいつまでなの? このまま永住だったりして」

「永住ねー。いい加減にしてください。実はまだはっきり決まってないみたいです。別に長引いてもいいですけどね。そのうち帰れるでしょう。富田さんは?」

「さっき携帯にメールがあって、ぼくもまだ帰れないみたいだよ。まあ、しばらく富良野滞在になりそうかな。世良先生、夕方の便で一緒に帰る予定でしたが、わたし達はまだ帰れそうにありません。空港でのお別れとなってしまいました。すみません」

 富田と野川は、延長された出張を素直に受け入れた様子だった。

「お二人とも大変ですね。私のことなど気になさらず、お仕事を頑張ってください。ひかりはいつまで北海道にいるつもりだ?」

「母さんが明日の月曜日までで、私は明後日の夕方なの。これはあくまで予定だからいつ変更になるか分からないけどね。父さんは?」

「正直迷っているよ。この辺りは雰囲気が良すぎるというか、後ろ髪をひかれるというか、春日さん達との出会いも大切にしたいし……」

 まだ『秋の呪文』のしびれ感が残っている世良は、若松緑の影に悩まされていた。

「春日さんのジャガーも調子が戻ったようで、けっこう飛ばしていますよ。先生、何か調べものですか?」

 富田は、うつむき気味の世良の様子が気になった。

「ちょっとね。あっ、南富良野に入りましたよ」

 世良は行先案内の標識を横目に、若松緑へのメール文をあれこれと思案中だった。昨夜の約束をすっぽかしたという後ろめたさから反省じみた文章になったり、これからのことについて未来形の文章を書いては恥ずかしくなったりと、とりとめのないことばかり書いては取り消しを繰り返すうち、わずらわしさを感じるようにもなっていた。

 春日夫妻が乗るシルバーのジャガーと四人が乗り込んだワンボックスは、国道三八号線の東山から国道二三七号線に向けて右折したあと南へ進み、左手に空知川と並行する区間を順調に走っていた。

「見てください。左です。キツネですよ!」

 野川が指差す方向を見ると、キタキツネがワンボックスを追いかけているように見えた。

「三匹いますね。親子でしょうか? どこまでついて来るのかな」

 素早くカメラを取り出したひかりは、夢中になってシャッターを押した。

 二三七号線、富良野国道の道端には、余計な看板もありふれた自販機も、まして植えられた花までも見当たらなかった。色づいた景色に伸びるアスファルトの直線には、飾り気の無い最低限の道路標識が等間隔で生えている。シンプルな大自然が二台を迎えてくれた。

 春日のジャガーを追いかけ、富田運転のワンボックスは峠道を上った。南富良野と占冠の境目には金山トンネルがあり、そこを抜けるとまた殺風景ながら透き通った大自然が見えてきた。オレンジ色の林を走る六人は、気取らない秋を十分に満喫した。

 旅番組や風景写真で見たものと同じ秋の景色が目の前に広がり、色づいた広葉樹から枯葉が舞い落ちている。落ち葉を巻き上げて優雅に走るジャガーは、自然が描く絵画に溶け込んでいた。その様子を後ろから見ていたワンボックスの四人も、秋の北欧やカナダをドライブしているような錯覚におちてしまった。

 トンネルを抜けてしばらく走った頃、前を走るジャガーの右ウインカーが点いた。富良野国道から右折で入って来たのは、赤い三角屋根が目印の湯の沢温泉だった。

「止まって見渡せる大パノラマですね。早く降りましょう」

 野川は、ひかりの手を引いた。

 絵画のような景観が周囲を埋め尽くしていた。止まると同時にワンボックスを飛び出した四人は、深呼吸しながら北海道の大自然にとけこんだ。 

「みなさんお疲れさま。一〇時を過ぎたことだし、休憩してから次に進みましょう。ここは看板にもあったように、湯の沢温泉という所です。まだお腹は空いていないでしょうから、軽くお茶でもいかが?」

 春日雪子はペットボトルのお茶を提供した。四人はお礼の言葉を返した。

 富良野を出発して約一時間の道のりである。後ろからついて来る四人を気遣う春日夫妻は、絶好の休憩ポイントを用意してくれた。

「来年の紅葉狩りのパンフレットに、春日さんも載せちゃおうかな!」

 カメラを手にしたひかりは、春日雪子を写しはじめた。

「ひかりさん。わたしのようなお婆さんが載ったらきっとクレームの嵐になるわ」

 なぜか春日雪子はやんわりと拒否した。

「謙遜しすぎです。春日さんだったらどんなモデルにも引けを取りませんよ。カメラ慣れのオーラがさりげなく飛んできています」

 立ち位置からして完璧ですと付け加えたひかりは、瞬間的に受けた雪子への印象を伝えた。

「ひかりさんって鋭いわね。正直に言うと舞台に上がっていた時期もあったわ。ずっとずっと若い頃だけど……。ほら見てごらんなさい。実際に飛んでいるのはオーラなどではなく雪の妖精達よ。もう少しすると今年も降りだしそうね。あら、どうなさったの?」

 冬の使者の雪虫を指差す春日雪子は、うつろな目をしている世良の様子が気になった。

「見るものすべてが燃える秋を演出しています。北海道に来てよかった。それなのに息が詰まるというか、何故かため息ばかりで……。それほどここは素晴らしいということですね」

 秋から冬へと向かう季節の中で、真っ赤に燃える紅葉と若松緑に刺激を受けた世良は、瞬く間に重症の域まで発熱していた。

「いろいろ考えていらっしゃるようだけど……。秋は大人の恋が始まり終わる季節なの。それも一瞬のうちに。だから焦っちゃだめよ。追いかけたら厄介なことになるから、じっとしていることが肝心だわ。おっと、ごめんなさい。その辺りのことは、わきまえていらっしゃるわよね。有名小説家だもの。そうそう、多分このままだとカフェに着くのが夕方になるから、今日も富良野に宿泊ということになりそうだけど。それでも良いかしら?」

 察しが良い春日雪子は、周囲に聞こえないよう声を落とした。

「春日さんのおっしゃりたいことが痛いほど分かりました。これですっきりです。それと宿泊の件は、成り行き任せということで……」

 上書きに疲れ果てていた世良は、作りかけのメール文をきれいさっぱり削除した。そして吹っ切れたようにお茶を飲んだ。


 春日夫妻のジャガーと四人が乗ったワンボックスは、湯の沢温泉から富良野国道へと戻った。二台は五、六キロ南へ走った所で高速道路と並走する道道一三六号線を東に進み、四本の大きなタワーがそびえるトマムリゾートに吸い込まれた。

「少し早いけどお昼にしましょう。ここで素晴らしい景色を見ながらお昼ご飯を食べて、それから私達のお店にご招待するわ」

 春日夫妻と富田、野川、世良親子の六人は、リゾート内のレストランでランチを済ませた。

 女性三人が固まったテーブルでは、食後のコーヒータイムが始まった。

「トマムは雲海ツアーでにぎわっていますが、まともに出る確率は極めて低いそうです。だから、天候に左右されがちな雲海を運よく見ることができた旅人は、誰でも人生観が変わると聞きました。自然の力って凄いですね」

 ひかりは、雲海を一望する写真を取りだした。

「そうね。わたし達二人も、北の大地に作り変えられたのかも知れないわ。それが大自然の包容力なのね」

 春日雪子は、雲海の写真をしんみりと見つめていた。

「わたしも大自然の中でやり直したい……。すみません、独り言です。春日さん達はよくいらっしゃるのですか?」

 カップの中でスプーンを回していた野川は、春日雪子の微妙な変化を見ていた。

「若い頃はときおり散策に来ていましたが、といっても五〇代の頃のことだけど、最近ではお店の周りを散歩する程度ですかね。ここは四季を通じて素敵な所よ。外国のリゾート地みたいでしょ」

 なぜか春日雪子は声を詰まらせた。

「幻のカフェの周りにある景色もカナダや北欧のようでしたよ。世良先生の携帯で見たかぎりでは、間違いなくセピア色の風を感じました。あんな素敵な林の中を散歩できれば幸せですね」

 野川は自分のストールを雪子の肩にかけた。

「正直あの風に吹かれたら、どうしようもない程おしゃれな気分になるの。だから散歩コースにしたのかも知れないわね。あなた達、思い切って大自然の懐に飛び込むといいわ。素直な気持ちで飛び込むの。そうすれば心と体の時間を巻き戻すことができるはずよ。わたし達も十分癒されてきたから頑張ることが出来たの。でも、あっという間だった」

 雪子は窓の外を見つめながら、「ありがとう。温かいわ」と漏らした。

 このとき窓ガラスに映っていたのは、誰も知らないもう一人の春日雪子だった。


 食事のあと、世良と富田は春日扇を誘い出し、駐車場に停めてあるシルバーのジャガーを取り囲んでいた。

「この角度からがいいですね。このタイプが一番ジャガーらしく見えませんか? 失礼ですが、春日さんのジャガー歴は長いのですか?」

 車のことが気になっていたのは、富田よりむしろ世良だった。

「これは二〇〇二年ものだけど、その前は中古のマークツーに二〇年くらい乗っていました。長年ジャガーと付き合ってみて分かったことは、人が車を選ぶのではなく車が人を選んでいるのだということです。車の気持ちを本当に分かってくれる人をね。今まで色々なトラブルを経験してきましたけど、嫌になって手放そうと思ったことは一度もありません。ただ正直に言いますと、蹴飛ばしそうになったことは何度かありましたよ。でもその度に車と一体化していく実感が伝わり、乗せられているのだなと思い知らされるのです。この二台目に乗り換えてから今まで全く故障など無かったのですが、きのう旭川から帰る途中でウォーターポンプがいかれてしまいましてね。すぐに手放そうかと悩んだけど、結局修理することになりました。ついでに他の部品も交換したから、軽く十年くらいは問題なく走ると思います」

 春日はボンネットフードを開けた。

「ウォーターポンプですか? それは大変でしたね。じつは私もこれと全く同じタイプで同じ年式のジャガーに乗っていたのですが、去年の車検で手放しました。もっと乗っていたかったけど、娘の車を買うことになって仕方なく……。やっぱりジャガーはいいですね。まして老紳士が乗っている姿は本当に絵になります。この車が走った後に舞い上がる落ち葉を見ていると、嫌みのない気品を感じました。すみません。老紳士だなんて言ってしまって、それほど春日さんにはこのジャガーがお似合いだということです」

 世良はエンジンルームを懐かしそうに見つめた。

「ずっと眺めていても見飽きませんよね。世良さんもこのタイプのジャガーに乗っていたとは知りませんでした。僕もこの車が欲しくて購入を考えていた時期がありましたが、輸入車は故障が多いと聞いて心細くなり国産車を選びました。いま思うとジャガーにするべきだったかな?」

 富田はジャガーのボディーを優しくなでた。

「まだまだ若いのだから、いくらでもジャガーに乗るチャンスはありますよ。私の場合は降りる時期が近付いたようで、そのうち免許証と一緒に手放そうと思っていますがね……」

 新しい所有者を待つ銀色のジャガーが、トマムのリゾート地に品よく溶け込んでいた。

 ふんわりした心地よい秋風がトマムの森を吹き抜け、のんびりした柔らかい日差しが地面を照らし、ゆったりした時間が六人の前を通り過ぎた。


 午後二時になりかけた頃、二台はトマムリゾートを出発していった。

 午前中と同じようにシルバーのジャガーが前を走り、四人乗りのワンボックスがその後ろをついて走った。道東自動車道トマムインターの前を通過し、鮮やかな紅葉が続く一一一七号線を川沿いに北上すると、真横に見える線路は石勝線から根室本線へと変わった。

 比較的ゆっくりした速度で流してくれる春日のジャガーは、国道三八号線に合流したところを左へ曲がり南富良野方面に向かった。

「予定通り上川南部をかるく一周しちゃいましたね。富良野滞在が長引くようなら道内一周に挑戦してみようかな。野川さんも一緒にどう?」

 富田はルームミラー越しに後部座席を見つめた。

「私は結構です。富田さん一人で行ってください。それよりトマムで見かけたハーレー仲間からの情報ですけど、今日は紅葉前線が真っ盛りだから何処へ行っても感動の嵐だそうですよ。実はわたしもハーレー乗りなの」

「野川さん、素敵ですね。私もハーレーに乗りたいと思っていました。いつか二人で北海道一周のツーリングに出かけませんか? 仕事に疲れたとき、ここの自然を満喫すれば元気になれると思います」

「きっとなるよ。豪快な秋を間近で見て心まで燃え上がったら、いくら頑固なストレスでも吹き飛ぶわ。春日さんが教えてくださったように、素直な気持ちで飛び込みましょう」

 野川とひかりはバイクの話題に夢中だった。

「あのワンボックス、また後ろに付いてきました。何だか監視されているような気がするのは自分だけでしょうか? どうも変だな……」

 ルームミラーを見ていた富田がつぶやいた。

「本当だ。これと同じタイプのあいつですね。少しスピードを緩めてみたらどうですか?」

 世良はサイドミラーを覗き込んだ。

「思い過ごしでしょ。だって追い越して行ったじゃない。後ろばっかり見ていると、春日さんのジャガーを見失うわよ。ねえ、ひかりちゃん」

 野川は軽く笑い飛ばした。

 国道三八号線狩勝国道は、南富良野の街中で九〇度右に曲がったあと、しばらく走っていくと緩やかな上り勾配になる。その先に見えてくる樹海峠は、南富良野町と富良野市の境界線にあった。赤や黄色に染まった樹木に濃い緑がまばらに混ざり、山全体が絵具を散りばめたように覆われている。春日夫妻が乗るジャガーは相変わらず軽快な走りを見せ、一定の車間でついて走るワンボックスの四人は、北海道の自然が演出する色彩のスライドショウを眺めて走った。

 国道三八号線を西へ進む二台は東山交差点から道道二五三号線に進路を変え、森と畑の入り混じった丘陵地へと入った。

「今迄の峠道も良かったけど、畑の中を走るのも気持ちいいですね。北海道ならではの広大でうねりのある風景には、ハーレーが似合いそうだわ」

 野川は直線道路をうっとり眺めた。

「だったら、ハーレーに乗って農作業ヘルパーにでも通ってみたら? ほら畑にいる人達を見てごらん。じゃがいもの収穫をしているよ。きっとイモもちが大好物の野川さんなら即戦力として大歓迎だね」

「富田さん、ハーレーにじゃがいもは似合いませんから。ひかりちゃん、何か言ってあげて。この分からず屋さんに」

 野川の表情が一変した。

「収穫祭の食べ放題ツアーはどうかしら。わたし達二人分の費用も富田さん持ちってことで」

 ひかりの一言で、野川に笑顔が戻った。

 四人が乗ったワンボックスは、春日夫妻のジャガーを追って『フォックスリバー』へと一歩ずつ近づいていた。

「あっ、キタキツネ! 今日二回目ですよ」

 世良が小川の方を指差した。

 土手の上から三匹のキツネ達が、二台が過ぎていくのを見送っていた。


 昼食をとって二時間以上が過ぎたころ、程よい温もりを保つワンボックスの車内で小さなあくびが始まった。浅い眠りに着いた野川とひかりに続き、眠気に負けそうな世良はサンルーフを見上げ背伸びした。そのときワンボックスの車体が小刻みに揺れはじめた。

「富田さん、大丈夫ですか! そろそろ交代しましょうか!」

 世良は真顔で言った。

 ふらついて走る富田への呼びかけは、後ろの席で眠りかけていた野川とひかりを起こし、ワンボックスの車内に僅かな緊張を持ち込んだ。

「もう大丈夫です。目が覚めました。びっくりさせてすみません」

 富田は笑いでごまかした。

「居眠り運転はダメですよ! これでも飲んでください」

 揺り起こされた野川は、冷たい缶コーヒーを差し出した。

 二台は収穫真最中の畑を抜け、紅葉樹が生い茂る林の中を走り始めた。見上げれば抜けるような青空のところどころに、小さな雲のかたまりが浮んでいた。そのときジャガーとワンボックスの周囲だけが、カーテンのような小雨に取り囲まれた。

「雨だ。どうして? 周りはあんなに晴れているのに不思議ね」

 まだ眠たさが残っていたひかりは、見渡す限りの青空からいきなり降ってくる小雨を珍しそうに眺めていた。

「狐の嫁入りだろう。このあと必ず虹が出るよ」

 世良の予想どおり、降りだした雨は夢のように消えてしまった。どの方向に出るか分からない七色の虹に、四人の期待が膨らんだ。

「見てください。虹がかかっています!」

 野川とひかりが声を揃えた。

 すぐに止んでしまった天気雨、真っ青な空と色づいた紅葉、ススキと絡み風に流される雪の妖精、そして十勝岳に掛かった虹が混じり合い、幻想的な広がりを見せた。四人がその光景に目を奪われたのも束の間、視界を一気に閉ざしてしまうほど富田が急ブレーキを踏んだ。

 原因は、畑の脇道から飛び出してきた車を避けるためで、両方向ともに優先順位がある訳でもなく、譲り合いの精神からすればお互い様だったと言える。片方は何事もなかったように走り去り、もう一台は現場に停まったままである。それは左フロントを脱輪して動けなくなった車、つまり四人が乗っていたワンボックスだった。

「なんて奴だ。まったく。さっき追い越して行ったワンボックスに違いない」

 興奮気味の富田は車外に飛び出た。他の三人も後を追った。

「相手も脇見かしら。ぶつからなくて良かったわ」

 野川は胸に手を当て深呼吸した。

「あのドライバーだけど、『粉雪』でこっちを見ていた人じゃないかな」

 ひかりが首を傾げた。

「まさか、他人のそら似さ。まずは車を上げよう。あれっ、ジャッキが無い……」

 世良がトランクを覗いたとき、常備されているはずの車載工具すべてが無かった。

「一度バックしてみます。前から押してもらえませんか?」

 乗り込んだ富田は、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 同時に車外から三人で何度も押したが、タイヤが空転するばかりでワンボックスが動き出す気配はなかった。四人はこのとき、自力脱出の道が閉ざされていることに初めて気付いた。

「ジャガーがいません」

 野川とひかりの弱々しい声が響いた。

 追い打ちをかけるように、畑の中に取り残された四人は、すぐ前を走っていたはずの春日夫妻とここではぐれた。


「もしもし。計画通りうまくいきました。これでしばらくは動けないでしょう」

「ご苦労さん。だが、動けないままというのも困るが……」

「それは大丈夫です。この後どうしたら良いでしょうか?」

「依頼者の要求は、到着を少しだけ邪魔すること。現場からも終了の連絡があったところだ。だからもういい」

「承知しました。引き揚げます」

 悪巧みに幕が下りたようだ。


 車内に戻った四人は、すぐさま電話連絡を試みた。富田がレンタカー会社、野川がロードサービス、ひかりが『フォックスリバー』、そして世良は友人にかけた――。

「だめです。何度掛けても留守番電話になります。今日に限って休みでしょうか?」

 富田は返信依頼のメッセージを入れた。

「レッカー車は全て出払っていて、二時間待ちの状態だそうです」

 野川は根気強く他のロードサービスにも掛けてみたが、行楽シーズンということでどこも人手不足だと告げられてしまった。

「誰か『フォックスリバー』の住所か電話番号を聞いていませんか? きのう『粉雪』で聞きそびれてしまいました。すみません」

 世良は若松緑に発信したが、まだ睡眠中なのか繋がらなかった。迷ったあげく「おはようございます。しびれ感は治まりましたか? 昨日は僕もしびれました。ごめんなさい。連絡を待っております」と、車外に出て小声で留守番電話に残した。

「ごめんなさい。私も聞いていませんでした。ひかりちゃんは知らないの?」

 野川の声が小さくなっていく。

「携帯には入れてなかったようです。そうだ、アドレス帳にあったかもしれません。探してみます」

 ひかりの返事に三人の期待が集まった。

「ありました! 掛けてみます。富田さん、これをお願いします」

 ひかりは、電話番号を記入したメモを富田に渡した。

「やっぱりこのナビには登録が……、あっ、画面がフリーズしました。原因不明の症状です。これだと再起動は無理かも知れません。残るは携帯ですが、この付近の道は地図アプリに掲載されていませんでした」

 富田の指がナビ画面から離れた瞬間、現在地も分からなくなった。

「呼び出しはするけど変ですね。番号が違うのかしら……。それともまだ帰り着いていないのでは? もしかすると、わたし達がいなくなったことに気付いて迎えに戻っているのかも知れませんよ。だとしたら脱出できるわ」

 望みを捨てきれなかったのは、ひかりだけではなかった。

 森と畑が混在する富良野の何処かで、四人はなす術もなく途方に暮れた。今まで何も考えずジャガーだけを追いかけてきたため、何処へ向かって進んでいたのか見当もつかなかった。それにもまして、今立ち止まっている場所さえ説明できず、レッカー車が見つかったとしても呼ぶことも出来ない状態だった。

 傾きかけた日差しが、動きを止めたワンボックスを照らしている。畑の中に間延びした車の影が、寂しさだけを助長していた。次第に無口になってゆく四人は、夕日に照らされ赤く染まる富良野の山並みを、黙って眺めるしかなかった。近づいていたはずの幻のカフェが、四人の前から遠退いて行くようだった。


 すでに三〇分以上経過したが、一台の車両も見かけることはなかった。『こうなったのは誰の運気が低迷していたのだろう』などと、四人は運勢の順位を秘かに探り合っていた。

「あっ、またいましたよ。神の使い」

 世良の言葉にキタキツネが振り向いた。

「これで三回目だわ。憑かれたのかしら。ひかりちゃん、どう思う?」

 野川は、ひかりの手を握りしめた。

「良いことの前兆では? キタキツネを一日に三回見ると願いごとが叶うと聞きました」

 ひかりの言う通り、希望の星が現れた。

「農作業用のトラクターが後ろからやって来ます!」

 ルームミラーを見ていた富田が叫ぶと同時に、車外に飛び出た四人は一列になってトラクターの前に立ちはだかった。

「すみません。脱輪しちゃって困っていました。けん引して頂けませんか……」

 世良は、トラクターのエンジン音に負けないくらいの大声で話しかけた。

「お安い御用だ。ワイヤーロープが後ろにかかっているから、フックに取り付けてくれるかい。この手袋を使うといいよ」

 トラクターのドライバーは、世良よりも大きな声で快諾してくれた。

 ワンボックス車の引き揚げ作業はあっという間に終わった。

「心ばかりのお礼です。受け取ってください。それと『フォックスリバー』というカフェはご存じありませんか?」

 程よい包みなどあるはずもなく、世良はA4の用紙に現金を包んで差し出した。

「気にするなって! 困ったときはお互い様だよ。あいにくだがカフェの方は知らないね」

 年配のドライバーは世良の手を遮り、さらに続けた。

「とりあえず、この砂利道を真っ直ぐ行けば舗装道路に突き当たるから、それを左折すれば国道の方に行くし、右折すれば北に向かって行くことになるよ」と言ってすぐに立ち去った。

「ありがとうございました」と、四人揃って連呼する姿が、トラクターが見えなくなるまで続いた。

 先ほどのキタキツネが、相も変わらずワンボックスの前方に見えている。

「ナビも先導車も失くしましたが、神の使いが右側にいるので、突き当りを右折ということでよろしいでしょうか?」

 富田は思いつきで進路を決めた。

 すぐに他の三人からも「了解、出発進行」と返ってきた。四人を乗せたワンボックスは、ようやく動き出した。


 時計の針が四時になろうとする頃だった。平地を過ぎて林の中を走り始めたワンボックスの前方に、眩しすぎる光景が現れた。澄み切った青空の下に雪を頂く山がそびえ、琥珀色に輝くカラマツ林が道路の両側に続いている。その中でひと際目立つ存在の大木が、夕陽に照らされ一段と輝きを増した。煌めきながら落ちていく枯れ葉の下には古めかしい洋風の建屋があり、小川の向こうにシルバーのジャガーが行儀良く停まっていた。

「たどったルートと建屋の様子は違いますが、それ以外は昨日見た光景にそっくりじゃないですか。おしゃれな哀愁が漂っています。『フォックスリバー』ですよ。さあ、行きましょう!」

 世良が促した。

 木陰になっているせいか道路から見えにくく、幻のカフェと言われる理由はそのためだった。ワンボックスはジャガーの真横に停車した。

 程良く枯れた洋風造りの建屋の側にフォックスリバーと書かれた小さな看板があり、コーヒー豆特有の甘酸っぱさとほろ苦さをブレンドしたような香りが漂っていた。四人は一歩ずつ低い階段を上がり、焦る気持ちを抑え分厚い木製のドアをそっと開けた。

「こんにちは……。お邪魔します」

 世良が真先に入った。

「いらっしゃいませ……。お待ちしておりました。少し寒くなってきたので、お部屋を温めていたのよ。疲れたでしょう。さあどうぞ」

 ダイアン・キートンに似た春日雪子の笑顔は、冷えた四人の心を温かく迎えてくれた。

「少し遅れてしまい、今になりました」

 世良がつぶやくように言った。

 富田も野川もそして娘のひかりも涙目になった。

「今日は朝から無理をさせてごめんなさい。あのドライブコースはいつ見ても美しいのよ。だけどね、心が燃え上がった後のおめかししたくなる感覚は今が一番なの。それを感じて欲しかったの。説明するより見てもらう方が早いと思ったから誘ったけど、良かったでしょ?」

 春日雪子の優しさが四人の心に沁みた。

「ルームミラーに映っていたワンボックスが、あなた方ではないことになかなか気付きませんでした。途中で分かって引き返したけど、まったく見つけ出せなかった。それにこの場所も簡単に分かるだろうと甘く考えていました。申し訳なかったですね。そのおかげでと言ったら失礼ですが、焙煎していた豆をいい具合に挽く時間稼ぎができました。入れたてです。さあ皆さん、どうぞ召し上がってください」

 アル・パチーノに似た春日扇が、本気の一杯を差し出した。

「おいしいです。苦みも酸味も丁度いいですね。真心のこもったコーヒーを入れて頂いて有難うございます」

 春日扇が提供してくれた一杯は、世良が歩んできた人生で一番味わい深いものになった。カウンターの椅子に腰掛けていた三人もしみじみとした雰囲気に浸った。

「世良さん、どうでしょう。あのジャガーとこの店を引き受けてもらえませんか? ここに住んでみませんか? カラマツ林とキタキツネが最高の人生をみつけてくれますよ」

 春日雪子は真剣な眼差しで世良を見つめた。

「ここからの眺めも素晴らしい。もう心の中は空っぽです」

 世良は夕陽に染まる風景を見つめるだけで、もう一つはっきりしなかった。

 コーヒーの香りがたちこめるレトロな造りのカフェに、神楽岳へと落ちていく夕日から最後の一刺しが届き、穏やかな黄昏時間が流れた。


 夕闇に包まれたカラマツ林に月光が射している。エゾフクロウの歌声に誘われたのか、新たな訪問者が『フォックスリバー』にやって来た。

「車が入ってきましたよ。お客さんでしょうか?」

 ヘッドライトが富田の顔を照らした。

「こんばんは。お邪魔します」

 世良とひかりは、聞き覚えのある声に素早く反応した。

「雪子じゃないか。どうしてここに?」

 世良は呆気にとられた。

「おかあさん! 遅かったじゃない。今まで何処にいたのよ?」

 ひかりは雪子の元に駆け寄った。

「あら、二人とも元気だった? これでも早い方だと思っていたわ。それにしても、ここは最高の場所ね」

 雪子の呑気さ加減はいつものことだった。

「お騒がせしてすみません。妻の雪子です。この方が富田さん、そちらの女性が野川さん、そしてこのカフェの……」

 世良は慌てて紹介を始めたが、違和感を覚え途中で止めた。

「ご無沙汰しております。この度は主人と娘がお世話になり、ご迷惑をおかけしました。打ち合わせのとき以来ですね」

 世良雪子はお辞儀をした。

「お久しぶりです。こちらこそ世良先生のお力添えで大変助かりました。ありがとうございます」

 富田もかるく頭を下げた。

「おかげさまで今度のイベントもなかなかの反響でした。これも先生と秘書様のお蔭です」

 野川はにっこり微笑んだ。

「そうだった。二人とは初対面じゃなかったのか。それではカフェの……」

 紹介を始めた世良を尻目に、雪子は勝手に喋り始めた。

「はじめまして、じゃないですね。春日さん、お元気でしたか? 取材のときはご協力ありがとうございました。以前と全くお変わりなさそうで、その若さがうらやましいです」

 雪子は、春日雪子と手を取り合った。

「あなたもお元気そうでなによりだわ。ここに座ってちょうだい。あなた達が帰ったあと、『幻のカフェ』という特集記事のおかげで少しだけお客さんが増えたのよ。ひかりさんの話では、密かな人気になっているみたい。でも、もうおしまいよ。わたし達、引退するつもりなの。残念だけど歳には勝てないわ」

 春日雪子は悲しげな表情に変わった。

「特別ゲストに入れたてをお持ちしました。久しぶりですね。あなたが来店してくださるのを心待ちにしていました。いまもご主人にここのことをお願いしていたところです。現状を維持してくださるならすべて差し上げます、とね」

 春日扇は世良に向き直った。

「本当に美味しいです……。ねえ、春日さんのお誘い、男だったら二つ返事で引き受けるべきだと思うけど、あなたはどう思っているの?」

 雪子もコーヒーを飲みながら世良を見つめた。全員の視線が集中する。

「北海道の形をしたアザもそうだけど、春日さんとの出会いに運命を感じたのは事実だよ。でもなぁ……」

 世良はため息をついた。この三日間の出来事が、瞬時に駆け巡ったからだった。

「もしかして、展開が小説に似ているから気に入らないのかしら? それとも他に悩みでもあるの? 溜息なんかついちゃって」

 雪子から鋭い視線が放たれた。

「小説は意識してないけど、正直なところ商売の経験もないし、それに一人だと少し無理がありそうだなと思ってさ。それだけだよ」

「安心してちょうだい。富田さんと野川さんがいるじゃない。頑張ってね」

 お気楽な雪子は、役人二人に笑顔で手を振った。

「失礼だよ。二人とも都合があるのに、勝手なことを言っちゃいけないって」

 世良は、雪子の言動に呆れるばかりだった。

「世良先生! 小説を地で行ったらいいじゃないですか。僕はもう決めましたから。ここでスローライフを始めましょう。それを任務と思えばいいのです」

 富田は即答した。

「青い空、山の紅葉、実りの秋、この『フォックスリバー』、どうしようもないくらい好きです。そして今からやって来る白い冬も大好きです。わたしずっと迷っていたけど、ここに来た瞬間、揺れていた気持ちが安定しました。世良先生、フォックスリバーの灯を消さないように私もお手伝いします。それとハーレーには北海道が似合いますから」

 野川は素直な気持ちを打ち明けた。

「父さん、私も近いうちにこっちへ転勤願いを出すつもりよ。野川さんとハーレーに乗るの。それまで頑張って」

 ひかりもその気になっている。

「三人の決意は早かったようだね。それでは春日さん、幻のカフェ『フォックスリバー』を私に任せてください。立派な二代目になります。富田さん、野川さん、お休みのときはよろしくお願いします。それと、ひかりもそのうちに!」

 世良もようやく移住に踏み切った。

「やっぱり世良さんしかいないと思っていたわ。富田さん、野川さん、それにひかりさんも、皆さん本当にありがとうございます。これでやっと安心しました。『フォックスリバー』をよろしくお願いします」

 店を引き継ぐ決意をした四人に対し、深々と頭を下げた春日夫妻は、「少し休憩してきます」と言い残し奥の部屋に入った。

「ところで君はどうするつもりなの。まだ聞いてなかったけど?」

 何かと抑えられ気味だった世良は、ようやく雪子と正面から向き合った。

「そうねー。そのうち書き物を仕上げて家の処分が済んだら、旭川支社への転勤願いを出そうかと思っているの。だからもうしばらく頑張ってちょうだい。二代目のマスターさん! それと若松緑からの伝言で、『復活です。わたしの先生! 連絡します、必ず』だって。何だか意味深だけど、このお店のことで良いのかしら?」

 常に先手取る雪子に、世良はまたしても及ばなかった。

「決まっているだろ。それしかないよ。『連絡は君の方に』と伝えといて。とりあえず一度帰って荷物を整理するよ。神の使いに移住の報告をするのはその後だね」

 若松緑の名前を聞いた世良は、慌てて話題を変えた。

「だめよ。引き継ぎもあるし、そんな時間はないでしょ。送り届けてあげるから、心置きなくここに染まってちょうだい」

 都合よく現れた雪子に背中を押され、レールの上を走る電車のように今後の人生が導かれた。キタキツネとエゾフクロウの鳴き声が、世良の未来を励ましているようだった。

 月に照らされたカラマツ林に、『フォックスリバー』がくっきりと浮かび上がっている。店内にいる五人は、奥の部屋で休憩中の春日夫妻を待ち侘びていた。

「春日さん達、部屋に入ったまま出てこないけど大丈夫かしら? 何かあったのかも知れないわ。あなた、ちょっと覗いてみてよ」

 雪子は世良の腕を引っ張った。

「いいのかな。勝手に入っても……。すみません。失礼します。あっ!」

 世良は思わず大声を出した。それは、いるはずの春日夫妻はどこにも見当たらず、向かい側の扉が不自然に開いていたからだ。異常を感じた他の四人も駆け込んできた。

 部屋の中央に置かれたテーブルには、店舗と車両に関係する書類、それと鍵が二組置いてあり、達筆な字のメモ書きも添えられていた。

『二代目の皆様へ。私達の意思を快く引き継いでいただき、心より感謝しております。これでようやくこのカフェも安泰です。もう少し時間をかけてご挨拶したかったのですが、別れが辛くなりそうなのでこのまま退席させて頂きます。勝手なお願いばかりでごめんなさい。またどこかでお会いしたときは、よろしくネ! 春日雪子』

『引き継がれた皆様、この三日間の出来事を思うと今までの人生で一番楽しく充実した時間でした。あなた達と一緒に過すことが出来て何より光栄です。ありがとうございました。気まぐれなジャガーにも言い聞かせてありますからご安心ください。春日扇』

「やっぱりアル・パチーノとダイアン・キートンだね。洒落の効いた人たちだったよ。それではホテルを探すとするか」

 世良は、春日夫妻が用意してくれた道標へと決心したようで、カラッとした口調のまま部屋を出て行った。

「お任せください。ロイヤルホテル富良野に部屋を取りました。わたしはアシスタントですから」

 気配りを忘れない野川は、すでに追加の予約を済ませていた。

「粉雪もおさえました。今日は魚介類がお勧めだそうです。新たな船出を祝してパッといきましょう」

 手回しの良い富田は、最高の飲み会を段取りしていた。

「粉雪だったら春日さん達に会えるかも……。おかあさん、先に行くね」

 ひかりは三人を追って、ワンボックスに向かった。

「皆さん三日間ご苦労様。じゃあねー」と、雪子は小声で見送った。そしてカウンターの椅子に腰掛け、ノートパソコンのワードを開きながら携帯の発信ボタンを押した。

「もしもし、緑? うまく行ったわ。ハリウッドスターさん達の演技も上手だったし、ドタバタの改装も間に合ったし、これでやっとカフェの開店が出来そうよ。名所の復活だね」

「雪子、おめでとう。何となくだけど小説っぽくなったじゃない。それに占冠での講演もご苦労様」

「ありがとう。小説の影響を試すつもりはなかったけど、読んだ人はストーリーを追っかけるものかも知れないわ……。でもあなたの功績が一番よ」

「それは褒め過ぎでしょう。わたしなんて……。それより長い間休業中だったというカフェを、よくも短期間で再開させたわね。いつも思うけど、大胆で活動的で何でも筋書き通りにしてしまうあなたがうらやましいわ」

 一瞬言葉を詰まらせた若松緑は、まだ小説を読み終えてなかった。

「緑だって積極的に再現してくれたじゃない。『燃える秋だから心にも火を付けましょう。上手くいけばリスク回避のワクチンになるわ』なんて体当たりのアドリブで、あの人を誘惑する戦略はお見事の一言に尽きるわ。くすぶっていた火種も消えたようだし、ほどよい刺激にはなったでしょう。何度も読んでくれたのね。まさにパーフェクト! 役者の二人を抑えてあなたがスーパースターよ」

「そうかしら? 市長や窓口担当者まで協力させたあなたこそ最強のフィクサーだわ。桂木くん、ぼやいていたわよ、『犯罪者に仕立てられた』って。でもその甲斐あって改装現場を見られずに済んだだろうし、じらされたことであの人たちの思いも最高潮に達した。やっぱり何事もタイミングって大事だね。ところで主人公さんにばれてないの? 建物と車の購入費用が自分の退職金だということ、それに策略とも言える移住のあらまし」

「大丈夫。抜かりはないわ。だけど『策略』はひどくない? わたし的には『仕組まれた』の方が好きかも知れない」

「分かっているの? 究極の賛辞だよ。このセリフが似合う黒幕は、雪子しかいませんから」

「素直に喜んでいいのかしら……。ねぇ、第一部にあった『日本で一番美しい道』と言えば分かると思うけど、幻のカフェをお披露目するから来てくれる?」

「えっ、第一部……。何処なの。それって富良野でしょ?」

 若松緑は不安になった。はっきりした場所を知らなかったのだ。

「何言っているの。ここは青い池のある美瑛の白金よ。最後の方に書いてあったじゃない」

「ということはビルケの森? ちょっと待って、まったく意味が分からない」

「緑ったら演技派ね。熟読したのに知らない振りなんかしちゃって!」

「何が演技よ。確かに秋風模様のカラマツ林のことは書いてあったけど、はっきりした場所はなかったと思うわ。それに富良野のことばかり並べ立てておいて、今さら美瑛だったなんて信じられない!」

「あら、ごめんなさい。この名称は第二部のくだりだったわ。そしてキーパーソンはあなたよ」

「そんなの知る訳ないでしょ。相変わらず強引なやり方で、わたしまで試したってこと? それともヤキモチ?」

「まさか。それに大親友を試したりしないわ。あなたにはここで働いてもらうの。二代目さんとの相性もバツグンだから、オーディションに合格よ。仲よくね」

「はいはい。どうしても二代目春日雪子を演じさせたいって訳ね? 好きにすれば」

 若松緑は諦めたのか笑みを浮かべた。

「ありがとう! 展開に弾みをつけられるのは緑だけなの。早く機嫌直していらっしゃいな。今夜のボトルはきっとあなたも唸るはずだから」

 雪子はウィンクしながらワードを閉じた。

「ふん、どうしようかな……。極上の銘柄だったら行ってあげてもいいけど?」

「任せなさい。道案内するわ。しぼりたての『ブルーシャトー白金』なら朝まで平気でしょ。おしゃれな田舎で乾杯よ!」

                                      了


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― 新着の感想 ―
[一言] 今回も素敵な作品拝見させていただきました。 ありがとうございます。 前回と全く別な登場人物・ロケーションですが、anさん作品のすごい所は不思議な空間に引きずり込む感じの力強さです。しかも 作…
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