朝の庭
蝉の鳴き声が滝のように降り注いでいた。水分を含んでうなじにまとわりつく髪をうっとうしく思いながらスズは寝返りをうつ。
気持ちいい。
柔らかだが夜のあいだにたっぷりと湿り気を帯びた布団から落ちた先のフローリングはひんやりとスズの肌を冷やした。その硬さに飽いて顔をあげた先にはまだ早朝だというのに待ちきれないというように白く光る夏の庭と刺す光が簾を通して感じられた。
夏の朝の短い涼しさを甘受するスズの横では幼い子特有の寝汗をぐっしょりと纏いながらワカが安らかな寝顔で夢の世界をさまよっていた。薄手のタオルケットは小さな足のはるか先へと投げ出され、シアサッカーの生地のパジャマの裾は大きくめくれ上がっている。日頃、色の薄い猫っ毛のスズが羨む真っ直ぐな黒い短い髪が柔らかな頬に貼りついている。
小さな頭を優しく撫でてもまったく目を覚ます気配はない。めくれたワカのパジャマの裾を直すとスズは諦めて起き上がった。
庭の朝の水撒きはスズの仕事だ。パジャマからショートパンツとノースリーブのシャツに着替え、ビーチサンダルを引っ掛ける。夏は冬よりも太陽は高い位置を歩むけれど、この時間帯はスズの家の横の森の木に隠れて見えない。リビングの窓の真下にある植木鉢は周りを濡らさないようにジョウロで水をあげていく。ペチュニアやゼラニウムが彩る窓の下には今年、ワカの朝顔とスズのツルレイシが学校からの宿題として加わった。ツルレイシの実は日に日に大きくなっててもうすぐ食卓にのぼることができるはずだ。
ジョウロで水をあげ終わったら、次はホースで水をまいていく。大きすぎるホースを引きずり庭の隅から順番に。真夏の恵まれた光を浴びる草の成長は早い。予定外に伸びている草たちは濡れ、水と土とを纏わせてスズの白い足を汚す。しかしスズはこの仕事が好きだから不快に思わない。森から3辺を木に包まれたこの場所の早朝の空気はこの上ないほど静謐で綺麗だし、スズはこの庭の素晴らしいところを知っている。時期が来れば庭の隅の柿の木は甘い実を結んでくれるし、それは和室の窓の下に群がるイチゴやグミの木だって負けていない。今は隠しているけれど椿の木や蝋梅、枝垂桜は順番にスズの好きな見事な花を咲かせてくれる。
「あらあ、スズちゃん早起きさんねぇ」
クヌギの木の近くのフェンス越しから菊ちゃんの声が聞こえた。
「菊ちゃん、おはよう」
「おはよう、お庭の水まき?」
スズが頷くと菊ちゃんは優しく微笑んだ。
「さすがスズちゃんは働きものね。私は野鳥に餌をあげてるのよ」
菊ちゃんは隣の大きくて綺麗な家にひとりで住んでいる。少し前までおばあちゃんと呼んでいたけれど、菊ちゃんが「私あなたのおばあさんより若いわよ」と言ったことからスズは菊ちゃんと呼ぶようにしている。
「今日も三十度超えるらしいわよ。熱中症にならないようにね」
「菊ちゃんもね」
そう答えてから菊ちゃんは大丈夫だろうと思い直した。菊ちゃんはスズのおばあちゃんより少し若いくらいだけれど習い事にガーデニングにと精力的な人だ。実年齢を聞いたら驚くほど若いし、夏が嫌いな菊ちゃんの家の中はノースリーブでは入れないくらいにがんがんエアコンが利いている。
「ずっちゃん!ずっちゃあん!」
いつのまにか起きてきたワカがパジャマ姿に大きすぎるサンダルをひっかけて走ってきた。
「わか、お布団たたんできた?」
「ううん、あとでずっちゃんとたたむ」
えーたたんできてよ、と口をとがらせたスズをそっちのけにしてワカはスズの握ったホースの先をじっと見つめている。
「虹ができてる」
指さされた先に目を移せば、固そうな月桂樹の葉の間のスズの撒いている水に虹ができていた。
「じゃなくて、おふとん!最後の人がたたむって言ってるでしょ」
話を聞いてないワカにスズは言う。ホースの先を月桂樹からワカに変える。細かい水が降り注ぐ。
「きゃああああ」
冷たい水にワカが歓声をあげる。男の子なのにまだ高い、電話越しでスズと区別がつかないとよく間違えられる声。
「ずっちゃん!もっと、もっと!」
不満を表してかけたのに夏の朝に冷たい水は気持ちよかったらしい。どうでもよくなったスズは催促に応じてホースの先を強く押し、水圧をあげた。
スズのまいた水を吸い込んで庭の木々は艶めき、夏の鋭い太陽の恵みを待ちわびる。蝉の声が空中を支配する。鮮やかな緑が、熱気が、冷たい水が―夏のなにもかもがスズのことを待ちわびていた。