2.御防家
御防家とは千年以上前に御防幽禅が興した退魔の家系である。
代々、退魔の技術は子孫に引き継がれていったが、500年ほど前に京での退魔師の争いから身を引き、樋山家に仕えているというのが、今の御防家の認識である。
実際のところは、京での活動は上位の退魔師の家と協議をし、条件をつけた上で認可されていたものであった。
条件は滅する対象について上位の退魔師にとって手に余るもしくは後々含めて退けるだけではリスクが高すぎるものに対してのみに限定されていたことと、管理しやすくするために技術に関しては一子相伝とすることだった。
また、御防家は有名な退魔師の家系と比べると能力が低かったが、滅することと安全に魔を退けるには難易度に大幅な開きがあり、また滅することのリスクを背負う存在を必要としていた。そういった特異性により京でも必要とされていた為、退魔師の争いがあったとしても巻き込まれる事はほとんどなかった。
何故、京から去ることになったのか。
魔を滅すると怨嗟や業が呪いとなって力を蝕んでいく。本来はその呪いを解く方法を持っていたが失伝してしまい、呪いは蓄積して力が失われていくようになっていった。その為、呪いが強く能力の維持が近いうちに困難になることがわかった際、その当主はかなり離れた分家から養子をとって技術を授けてから当主の座を譲り、当主は呪いを新しい当主から遠ざける為に御防家から離れ遠い地で最期を迎えるようにしていた。本来はそういった形で御防家は力を維持してきていたのである。
500年ほど前の当主もまた力の衰えを近くしており分家筋から養子をとろうとしたが、当主は急死しその養子候補も当主の息子により暗殺。その時点で正統である御防家は消える。
当然ではあるが力は衰えたままであり、解呪すらできなくなってしまい、衰退に拍車がかかる。そして、まともに活動できなくなった為に京を離れることになって地方豪族の元に身を寄せる事になるが、更に力は衰え続けて各地を転々とすることになり、江戸末期には今の樋山家の一族に仕えることになる。ちなみに、その頃には一子相伝ではなく、力を失ったら使い捨てと言う状態になっていた。
これが、御防家の都落ちの真実である。
ちなみにこの樋山家に仕えるようになってから明治以降樋山家の権力を傘に廃刀令を無視して刀を使い続けていた。本来、刀を使う必要の無いもので500年ほど前までは自衛の為に所持していただけのものであったが、力が衰えてからは行使するには刀を媒介にせざるを得ず、退魔だけでなく所謂恐喝・殺人といった汚れ仕事も行うようになっていった。その為、明治に入ると御防家の悪名から逃げる為に苗字は主流を佐藤、有力な傍流を鈴木・高橋・田中・岡島(後に岡嶋)とした。岡嶋だけ他家に比べそこまで多くない苗字なののだがその理由は今の御防家の人間にとっては謎である。
『まあ、岡嶋のは話し合いの前に先走って申請しただけなんじゃがの』
なんともうっかりな理由である。
ちなみに、ダイジェストと幽禅の感想である。
当初、幽禅は御防家の行く末を見届けようと思っていたが、死後200年ほどで解呪法の失伝。
『200年であんな簡単なものを失伝するとか思わなかった。超スピードとか催眠術とかそんなチャチなものじゃねえ(ry』
死後500年ほどで正統後継者の断絶。
『ないわぁ・・・もっと早い段階で子どもに養子の必要性を伝えるべきじゃったのに、ないわぁ・・・』
都落ちして地方豪族を転々として順調に力を失う。
『あ、こりゃもう再起は無理じゃな』
そんでもって、もっとも碌でもない樋山家に仕えて、汚れ仕事も行うようになる。
『ちょ!?ねーから思いっきり泥ぬりまくりじゃろ!?パックってれべるじゃねーよ!!』
それから樋山家のやりたい放題を補佐しつつ、一緒になってやりたい放題しはじめる。
『滅べ、とっとと滅べ』
そして、宗次の出奔。
『お、面白そうだからこいつについていこう。』
こんな幽禅を見て長い年月はこうも人をゆるくさせるのだろうか?と思う宗次なのであった。
ちなみに、解呪法については出奔後のある日ものすごい遠回りな方法だった事を知り幽禅はへこみにへこむのだった。