第1節 心配
ここから第5章です。
目を通してくださりありがとうございます。
第1節はトウヤとフラン。第2節はヴァイスとセリーヌです。
第5章は2節分で終わります。
短いです。ごめんなさい。
空が茜色に染まりだす。
自宅から望める海は、余すところ無くオレンジ色に変わり、穏やかな水面に揺らされる。
海は、空の色を全身に等しく浴び、間接的に夕焼けをかたどっている。しかし、水面に浮かべる色は一様ではない。ゆらゆらとさざ波で色調、濃淡を変化させ、海は有機的にも思えるキメ細かい褐色の肌を露出させている。
目を細めれば、遥か遠くに一隻の船。
海と空に挟まれた船は、茜色の空間の中で煙を立ち上らせ、自己を主張させながら帰路を辿る。遠くに聞こえる汽笛が耳を掠め、飽きるぐらいの連続音が脳に残響する。
平穏な日常とでも言うのか、窓の外に飾られたセピア画は、ここ数日の内にめまぐるしく降りかかった出来事を俺に懐古させ、感傷的な気分にさせた。
「刺身は美味しいですね。醤油につけてやると、こうも至上の一品になるのかと改めて思い知らされます」
視界の片隅に映るフランが、箸を片手に、魚の切り身を掴んでいる。掴まれた赤身は、表面をきらきらと輝かせ、新鮮さを示すと同時に、食欲を掻き立てる。
「箸の使い方が上手くなったな」
「トウヤこそ、魚の捌き方が上手くなりましたね」
初めこそ魚をボロボロにしてました、とフランが付け加え、俺の苦笑を誘う。
「そうだな。大変だったけど、どうしても食べて欲しくてね」
「私もトウヤの故郷の料理を食べてみたかったのです。ですから風情を味わうのに、箸の使い方を覚えるのもやぶさかではありませんでしたよ」
「フォークで刺したら台無しになってしまうからな」
投げやりに言う俺に対して、そんな気がします、とフランが無理矢理な理解を示す。
そうして、もくもくと食事を進める俺とフラン。
しばしの沈黙が空間を満たす。
そんな中で一つだけ気がかりな事があった。
俺は自分でそれを上手く纏められないまま、口を開く。
「窃盗愛好家が現れたとして、一番盗まれたくない物はなんだ?」
「そんなの聞くまでもないでしょう」
俺の大した意味の無い質問に、大した価値を見いだせず存外に答えるフラン。
そうして再びの沈黙が訪れる。
「な、なぁフラン」
「どうしたんですか?」
随分とぎこちなくなってしまったが、沈黙を破り発した言葉の勢いを駆り、本当に聞きたかった事を尋ねてみる。
「レザードだとかミハエルとかいう男の知り合いはいるか?」
意味が分からないのか、頭に疑問符を浮かべ怪訝な顔をするフラン。
俺の頭をよぎるのは、ヴァイスに見せられた悪夢。
間を置いて、質問の本質を理解し、フランはいたずら笑みを浮かべる。
「いませんよ。何ですか? 浮気してるとでも?」
「あッ、いや、違うんだけど……一応な」
「何が違うんですか? ふふ」
フランは意地の悪い顔をして、俺の支離滅裂な返事を揶揄して様子を伺っている。
いつの間にか箸を置いたフランは、机に肘を乗せ頬杖をつき、頬に添えられた指で、美しい肌をなぞりながら恍惚の表情を浮かべている。
にやにやと機嫌の良さを表すいやらしい目元につられ、口元が自然と吊り上っている。なんとも愉快そうだった。
そして簡潔に一言――。
「嫉妬ですか?」
「違う!」
咄嗟に否定したのだが、声が強張ってしまい、苦し紛れの嘘はおろか滑稽を強調するだけに終わった。
「……いや……違わない。そうだ」
もはや修正を余儀なくされ、気恥ずかしさを感じながらも、言葉を正してやる。
「ふふふ。浮気なんてしてませんし、これからする事もないでしょう」
「はぁ……」
分かりきっていた事なのだが、どこか安堵を覚えずにはいられなかった。
胸を撫で下ろしながら、深く吸い込んだ息を吐く。脅迫的な緊張から解放されるのが、全身の感覚を通して分かった。
言葉を飲み干すような間を経て、フランが口を開く。
聞き漏らしてはいけない、そう思わせる程の真剣な眼差しだった。
「私にはトウヤ、あなたしか居ません」
「あ、あぁ……!」
それは心からの言葉だった。
たった一言。その一言だけで、全てがどうでもよくなる。
全身に抵抗を構築しても意味をなさず、嬉しさが全身を駆け巡る。
我ながら単純だとは思うが、抗う事は出来なかったのだ。いや、抗う必要など無い。むしろ、永遠に浸っていたい。
重すぎる程の情愛。しかし、それを身に受けても不思議と苦しくはなかった。
「でも、あなたは違うみたいですね」
「えっ」
フランが凍てつくような視線で俺を捉える。
「あなたが金髪の美女と街を歩いていると、耳にしました」
急速な温度変化。声に抑揚は無く、ゴミを見るような目で俺を射抜く。
「えっ、違う」
「何が違うのですか? なんでも騎士様らしいですね」
再度、咄嗟に否定を述べたのだが、フランが展開する氷点下の雰囲気に凍えて砕けていった。金髪の美女、騎士とは恐らくイザベルの事だろう。
「教師の次は騎士ですか?」
「ち、違う」
「女性の騎士なんて珍しい。しかも容姿端麗とあれば、さぞ魅力的でしょう」
「違う」
「冒険者の依頼で知り合ったんですか? あなたが冒険者になってまだ日が浅いというのに、なんという手の速さですか」
「ち、違う」
「街中で追いかけっこするなんて、非常に仲がよろしいんですね」
「ち、違うって!」
「違うってどういう意味ですか?」
「えっと……」
「そもそも女の騎士と二人で街など歩いていないという意味でしょうか?」
「そ、それは……違わない……」
俺は上手く誤解を解く方法が思い当たらず、フランを直視する事が出来ずに顔を伏せる。
顎から滴る汗が、目に映った。気が付くと、全身に汗を浮かべ、歯を食いしばっていた。
垂れる汗は一滴、また一滴とズボンに染みを作っていく。
「こっち向け節操なし」
「あ」
静かな怒号に、俺の小さくなった肩がビクッと震え、こわごわと顔を上げる。
通常のフランではあり得ない暴言に、俺の間抜けな声が漏れる。
「危ない事はしていませんか?」
食事の手を止めたままフランが問う。
その問いに、先ほどの冷たさは無かった。
視界に映る彼女は、懸念で顔に影をひそめ、純粋に俺の身を案じている。
そうなると、『危ない事』とは、依頼に関する事だろう。
それならば――。
「していない」
俺はそう断言する。
冒険者として活動し始めて受けてきた依頼は、フランの危惧を考慮するような、ごくごく自然な内容ばかりであった。護衛は、討伐みたいに戦闘を前提とした依頼ではない。戦闘の可能性があるとしても、必須ではないので比較的安全と言える。
だが、嘘だ。吸血鬼を滅ぼし、死闘の果てに竜を屠った。大犯罪者と対峙し、不死鳥の猛攻を躱して捕縛に至った。
それは紛れもない命のやり取りで、刹那程でも判断を間違えていれば、俺は今こうして彼女と向き合っていない。異界の地に身を沈め、墓の下で彼女の話に耳を傾けていただろう。
そして俺だった物が、語りかける彼女に応える事はない。一方的な会話は一字一句残らず全て、彼女の胸にしまわれ、彼女を感慨にふけさせる。恐らく後悔と共に。
「そこまでして見つけたい物があるんですか?」
「……」
いともたやすく俺の嘘を看破したフランは言葉を続ける。それに対して、返す言葉は見つからなかった。
「トウヤ、あなたは人より強いかもしれません。しかし人間である以上、殺されれば死にます」
「……」
「心臓を貫かれれば、息が出来なくなります。頭を吹き飛ばされれば、理解も及ばぬまま死ぬ事になります」
「……」
「死ぬ事を覚悟してまで、冒険者をやる意味はあるのですか?」
「……でも、これしか出来ない」
今度はフランが言葉を失う。続ける言葉が見つからないのだ。互いの言葉を殺すやり取り。
「私はあなたを失うのが何より恐ろしいです」
「それは俺だって変わらない」
「だから死なないでください。他の女性のもとへ行っても、あなたが生きている限り、私はあなたを取り戻せます。しかし、死んだらもう取り戻せません。だから絶対に死なないでください。冒険者をやめろとは言いません」
「あぁ……分かった」
「窮地で選択を迫まれたら自分の命を選んでください。何を犠牲にしてでも生き延びてください」
悲痛な祈りにも似た願いが胸に突き刺さる。いつしか彼女の小さな身に溢れさせてしまった不安を自覚すると共に、心臓を茨で巻きつけられた。綺麗事では済まない事態に差しあたったのならば、フランの言葉を思い出す事になるだろう。
はぐれた子供のように、行きあてを失った言葉が宙に舞い、俺にそれ以上の言葉を紡がせる事は無かった。
読んでくださってありがとうございます。
よろしかったら、これからもどうかよろしくお願いします。




