第2節 選択性
海が見える部屋。海岸に構える集合住宅の一室。
日が西から顔を出している。
海に反射する光が、朝を強く主張する。その展望を遮る物は無く、照る光が眩しい。
木材を使用した格子の木製窓は開けられている。縁を彩る色は優しいバターミルクで、ガラスには曇り一つ無い。窓を通して、遠くに見える大型船は煙を上げながら水平線をなぞっている。それはまるで飾られた絵画のようだった。
眺めていると風が、カモメの鳴き声と、さざ波の音を運んできた。二つの音は、見事なまでに調和し、意識しなければ一つの音に聞こえる。
潮の匂いが鼻をかすめる。ここには一年も暮らしている、『慣れ』というものだろうか、不快感はない。むしろ、音と匂いが乗った風が心地良い。
吹き抜ける風が、俺の髪と象牙色の髪をふわりと揺らす。
「フランセット、渡したい物がある」
「どうしたんですか? 改まって」
机を挟んで対面に座るフランが、首を傾げて疑問を呈する。
ちょうど朝食を取り終えた所だ。机の上には、縁を飾られた綺麗な皿が二つ佇んでいる。皿の上、僅かに残されたパン屑が、食後を証明している。
皿の横には花びらをかたどったようなソーサー。
フランは口に運んだティーカップを机の上に戻す。漂う湯気が、風に靡かれ消えていった。
靡かれた湯気の向こうで、フランは黙って俺を見据えている。次の言葉を静かに待っているのだ。
ふと視線が交わる。
フランの知性を宿したエメラルドグリーンの瞳に、興味が垣間見えた。
「これなんだが……」
俺はそう言って机を離れ、寝台の下に隠していた長方形の箱を取り出す。
それは純黒の箱。
重ね合わせた蓋がうっかり外れないように、注意を払いながら取り出す。
蓋の中央には筆記体が金で書かれ、小奇麗にまとまりつつも品を醸し出している。
それはまるで、黄金の瞳を持つ黒猫のような箱。
そしてその箱の大きさはちょうど、両足が収まる程度。
「その大きさだと違うようですね」
フランは残念そうに呟く。
しかしすぐに端正な顔が綻び、嬉しそうに微笑みを浮かべた。
「指輪かと思いました」
「えっ……」
不意をつかれた。
言葉の意味を考えると、どうもそういう意味らしい。
全身に感じる空白感を経て、次第に頬が熱くなる。微笑みと、フランが言った「指輪」に心臓を掴まれた。少年か俺は。
咄嗟の行動だった。
俺は気恥ずかしさを感じ、それを隠すために顎を引いて視線を落とす。
婚姻を仄めかされただけでこのざまだ。
頬が微かに紅潮するのを感じる。これ以上、赤みが増すのを意地で押しとどめた。
贅沢すぎる戸惑いだとは分かっているが、そうせずにはいられなかったのだ。
「あ、あぁ。……ほら、開けてみてくれ」
俺は俯くような頷くような曖昧な動作で箱をフランに直接箱を渡す。
片手で渡すそれに、フランは両手を差し伸べる。フリルの付いた白のブラウスから覗く透明な肌は均一で、白魚のような指で箱を受け取る。
視界の端に、にこにこと嬉しそうにしているフランが映った。
『指輪』は冗談なのか本気なのかは分からない。
しかしフランは、自分の期待に添わぬ贈り物だからといって無碍にする事は絶対にない。それだけは分かっている。
「うあ!」
淑女たるフランに似つかない驚愕の声が上がる。その声に思案を引き剥がされ、フランへと振り返る。フランの視線は、既に開けられた箱の中――綺麗なヒールに釘づけにされていた。
「世界に一つしかないヒールだ」
何気なく返したつもりの言葉は、口から出ると同時に自身の耳に入る。
間を置いて、自分が放った驚くほど安い言葉に、消え入りたくなった。直球もいいところだ。もっと自然な言い方があっただろ。
しかしそれは事実、世界に一つしかない、『コルヴィン』のヒールだ。隠す必要はない。
それに、自然と彼女が気づくまでそれを告げず、事実を知った時の彼女の反応を楽しむような、キザともいやらしいとも言えるようなマネは、俺には出来ないと思った。
「どうしたんですかこれ?」
フランが目を輝かせながら問う。しかしその輝きは、あくまで落ち着いた雰囲気の中にある。
「ほら、前言ってた折れたヒールの。本当は同じのを探してたんだが、どうしても見当たらなくて……直接コルヴィンに問い合わせたら」
「在庫が無いので、代わりにオーダーメイドはいかかがでしょう? と?」
「……まぁ、そんな所だ」
察しがよすぎる。
そう。俺は依頼の後、ギルドに預けていた五百万を握り締め――いや、五百万の一部を握り締め、ウシャリスのもとに出向き在庫を確認した。
残念ながら同一の品は無かったのだが、俺に憐れみを感じてか、ウシャリスがオーダーメイドをかってでてくれたのだ。
しかし、やけに気合いを入れていたので嫌々ではないだろう。
クレヨンを物凄い勢いで擦り減らしながら図面を引くウシャリスに、若干引きはしたが、この僥倖を手放す訳にもゆかず、そっと二十万を渡した。この世界〈ディプス〉の通貨単位、『ジルド』は日本円のそれとほとんど変わらない。『コルヴィン』のオーダーメイドだ。二十万ジルドは適正価格だろう。
それに対して、『お金はいりません!』と、とんでもない事を言うウシャリスに大人の余裕を見せつけ――今思えば俺の財力などウシャリスの足元にも及ばない、滑稽すぎる――颯爽と帰宅した。そして昨日、出来上がった品を受け取り、フランが帰宅する前にそそくさと自宅の寝台の下に隠したのだ。
「ヒールは折ってみるものですね」
「もっと違う言い方があるだろ……」
今だフランは嬉しそうににこにことしている。俺は椅子に座るフランを見下ろす形で傍に立っている。
頭をゆらゆら動かしながら、時に手に持つヒールを回転させ、時に顔に近づけ、余すところなく慈愛に満ちた顔で眺めている。
「綺麗です。花の飾りが付いています」
「あぁ。気に入ってくれて良かった」
そう言ってフランはヒールの先端部に付いた花の飾りを指でなぞり、愛でる。
「泣くほど嬉しいです」
満面の笑みが、どれほど嬉しいのかを代弁している。飾られた花に勝るとも劣らない笑顔が印象的で、気が付くと俺もつられて自然と笑みを浮かべていた。
そして互いに視線を合わせることなく、会話を交わす。
「履くのがもったいないです。飾ります」
「折角買ったんだ。使ってくれ」
機嫌がいいのだろう。靴を飾るなんて可笑しな事を言い出したのが微笑ましかった。
「嘘です。値段は聞きません。履けなくなりますから」
「高くもないし安くもない」
本当はそれなりに高かったが、無難に答える。せっかくの贈り物なのだから、どうしても使ってほしかったのだ。
「はたして私に履きこなせれるでしょうか」
「フランのためのヒールだ。フランが履きこなせないなら誰も履きこなせない」
きっと似合うよ、とありふれた世辞を送ると、「ありがとうございます」とフランは決められたやり取りのように言葉を返す。
「それにしても素晴らしい一品です」
「あぁ。芸術性も機能性も備わっているみたいだな」
それは美しくも、足を疲れさせない優しい構造をしていた。ヒールが高いにも関わらず、重心が足の裏全体に行き渡るように設計されているのが見て取れる。
「トウヤも一緒にデザインを考えたんですか?」
「いや、俺はフランの好みをデザイナーに伝えただけだ」
「例えばどのような?」
どのようなと問われて、実際にウシャリスに伝えた事を思い出す。ウシャリスの怒涛の質問責めを思い出して、少しばかり笑ってしまった。一つの質問に答えるごとに、「ほうほう!」と大げさに頷くのだ。そして、目の前に対象が浮かんでいるようクレヨンで絵を描いていく。それはまるで印象派の画家のようで、恐ろしい程の職人気質を否応なしに見せつけられた。
「そうだな……落ち着いた色が好きだとか、魚が好きだとか……愛用しているぬいぐるみを噛む癖があるとかも伝えたりしたな。それだけで想像が涌くらしい。すごいもんだな」
「へぇ。まさかそれ以上に余計な事、言ってないでしょうね?」
「余計な事なんて何一つ言ってない。後は身長、体重と体格くらいか。それと年齢は俺より少し」
「年齢ですか? トウヤ」
フランが遮るように口を挟んできた。抑揚が無く冷たい声だった。どうしたんだ、と俺はフランに顔を向ける。
そこで初めて気づいた。鋭い視線を向けられている。俺はその視線に全身をビクつかせる。いつもより多少細められた目には、温度が宿っておらず氷点下のそれだった。
急に機嫌が悪くなった。心まで凍らせるような視線が俺を貫く。
「上かと思ったんだが……俺が追い越したかもしれないと伝えた」
「まぁ、いいでしょう」
急遽、路線を変更して綴った言葉は、何とか彼女の逆鱗に触れるのを回避したらしい。フランは溜息を漏らしつつ、手に取ったヒールに視線を戻す。
「未来永劫、大切にします」
囁くような小さい声だったが、その言葉ははっきりと聞こえた。
象牙色の髪の揺れが止まる。それと同時に横腹に重みを感じた。
横に立つ俺に、椅子に座るフランが穏やかに頭を乗せたのだ。
緩急のある感情の変化が可愛くも面白くもあった。
惹かれている点を挙げるつもりはないのだが、フランは金にも名誉にも執着しない。ただただ自惚れかもしれない。唯一フランが執着するのは――。
そこで思考を破棄する。
考えれば考えるほど溺愛の深みに嵌る、そんな気がしたのだ。
第3章はここまでです。
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