ん!
放課後。誰も居なくなった教室で、俺は昨日出された数学の宿題を今やっている。やっている。いや、やらされている。ん? やる羽目になった。違うな、やる事になった。やらなくては帰らしてくれない事となった。
まあ、当然だ。宿題やってこなかったんだから。何でやってこなかったのかは覚えて無いが、何故かやってこなかった。
でもまあ、あと一問解いてしまえば帰る事が出来る。
「さて、微分の次は積分ですか。相変わらずワンパターンだ、先生も少しはひねったらどうなんだ? 退屈だな。あーあ」
俺が最後の積分の問題に取り掛かろうとした時、
「あ、あの……」
今にも消え入りそうな、甘く切ない声が後ろから聞こえて来た。
「……」
いつから居た?
これは数式でいっぱいになっている俺の頭に、まず浮かんで来た疑問だ。この女の子はいつからそこに居たんだ?
その子は少し緊張しているのか恥ずかしいのか前で手を組み、何か言いたそうな顔をしている。それから少しの間があり、彼女は俺の数学のノートが気になるのか見つめだした。
「ノート?」
取り敢えず俺はこの単語を口に出してみた。
「と、鳥山君、数学得意だよね」
彼女はなぜか俺の名前を知っている。確に俺は鳥山だ。キミは俺の事知っている様だが、俺はキミの事は知らない。
こんな黒髪のショートカットが良く似合う女の子なんて知らない。隣のクラスにも居ないよな? どこかで会ったのか?
「……ねえ」
名前くらい訊こうと思ったが、
「え!」
その子は急に話し掛けられた事に驚いたらしく、誰も居ない教室に響き渡る程の声を出した。
「え?」
「え、ああ。ごめんなさい」
今度は大きな声を出してしまった自分が恥ずかしくなったのか、顔を赤くして俺に頭を下げた。そんなに深く頭下げなくても良いのに。
「良いよ、別に。で、名前は?」
「原美咲です」
原美咲。彼女はそう名乗った。やはり知らない。
「素敵な名前だね。何組?」
俺の何でも無い軽い質問に、彼女は少し間を置きゆっくり言った。
「三つ目です」
三つ目? 三組の事か?
「杉村と同じクラス?」
「杉村? ああ、うん。マミちゃんと同じ」
「じゃあ、俺の事あいつに聞いたの?」
「ノート見せて」
いきなり話が飛んだ。さっきからこの子は、意味が解らない。
「適当に座りなよ」
俺は立ったままの彼女に座るように勧めた。が、
「喜んで」
また、訳の解らない返事をした。
「では、どうぞ」
俺は数学のノートを彼女に見せたが、原美咲はまったく興味を示さず、何かをずっと考えている様に見える。次は何を言い出すんだ? てか、ノート見たかったんじゃないのか?
「ぞくぞくしますね。数学って」
ぞくぞくって! この子は数学に興奮を覚えるらしい。
「定理とか法則には、確かにぞくぞくするかな?」
一応同意しておいた。
「何だ、同じじゃん」
彼女は笑顔でそう言ったが、次の瞬間、
「ん!」
叫んだ。
廊下まで響き渡るんじゃないかと思う程の声で、叫んだ。
「ん? え、どうしたの?」
突然目の前で「ん!」なんて叫ぶ女の子に始めて遭遇した。貴重な体験だよな、きっと。
「の、ノート」
深呼吸をするかの如く彼女は「ノート」と深く言った。ノートって言うと落ち着く体質なのか? また変な事しだしたぞ。
彼女は落ち着いた様だが、俺は何が何だか。まったく落ち着けない。
「と、と、とり、取り敢えず。取り敢えず数学好きだよね、鳥山君」
また、原美咲はそう言った。だったら何だ! 俺が心の中でツッコミを入れたか否かの時、今度は、
「ん? ん!」
一度疑問の「ん」を挟んでの「ん」を発した。その顔からは到底想像し得ない「ん」を発した。
何なんだ、この子は? 俺の事知ってる様だし、数学ばっかり言うし、突然「ん」とか叫ぶし、ノートで落ち着くし。一体、何目的で俺に近付いたんだ?
俺が頭の中で事態を整理していた時、
「あーあ、負けちゃった。ゴメンね、ミキちゃん」
彼女はそう言いながら、廊下に居る女の子集団に向かって手を合わせていた。五人いる。一人は隣のクラスのマミちゃん、他は知らない。
お前ら、いつから居たんだ! このツッコミと同時に俺の頭の中で、負けたってなんだ? この疑問も生じた。
「じゃあ、今度はサユリの番だからね」
ミキちゃんと呼ばれた女の子が言った。
「美咲みたいにはいかないよ」
今度はサユリと呼ばれていた女の子が言った。
「やるわね」
マミちゃんが放ったこの言葉で俺は思い出した。そうだ、だから宿題やってこなかったんだ。結構、練習したからな。
俺って、無意識的にやってたんだ。
マミちゃんに挑まれた、しりとり対決。今日だったのか……。