『リターン――善悪の知識の実事件』
リターン――善悪の知識の実事件
エバは夜明け前に水をくみに行った。家の中では、子どもが熱を出して寝ている。器を満たして持ち上げると、畑仕事で傷ついた指に縁が当たった。水面が揺れ、まだ暗い空が映った。
寝床のそばにはアダムがいた。子どもの額から布を取り、エバが運んだ水に浸す。子どもは目を開けず、熱い手で掛け布を握っていた。
「少し眠れ」
「熱が下がるまで、ここにいるわ」
「私もいる」
エバは布を絞ってアダムに渡した。彼は子どもの額へ載せ、ずれないよう端を整えた。庭園にいた頃、二人とも、こんな夜が来るとは思っていなかった。
朝になっても熱は下がらなかった。アダムは畑へ出て、夕方、麦と一緒に抜いたいばらを持ち帰った。枝の先には彼の血がついている。エバは麦を敷物に広げ、絡まった小枝を一本ずつ外した。
「手に刺さるわ。次から分けて置いて」
「すまない」
アダムは枝の束を受け取り、家の外へ運んだ。エバは敷物に残った小さなとげを拾い、指先に載せた。あの日、木の実に触れる前にも、こうして手を止めることができた。蛇から離れてアダムに話すことも、神の命令を思い起こすこともできた。
夜、子どもの呼吸が少し落ち着いた。アダムが寝床のそばに残り、エバは空の器を持って外へ出た。畑の端には、抜いたいばらが積まれている。枝に衣を引っ掛けないよう、彼女は手前で立ち止まった。
「エホバ、私は食べてはいけないと知っていました。蛇は、食べても死なず、神のようになって善悪を知ると言いました。私はその言葉を信じて、実を食べました」
家の中で、かまどの薪が崩れる音がした。エバは戸口を振り向いた。子どもの熱が下がっても、ほかの病がなくなるわけではない。畑にはまたいばらが生え、いつかは土を掘って家族を葬ることになる。
「私は、何が善で何が悪かを自分で決めようとしました。でも、あなたのように正しく決めることはできません。私が選んだことで、子どもたちまで苦しむことになりました」
エバは器を地面に置き、膝をついた。土に触れた指から、昼間取りきれなかった砂が落ちる。何を願っても、食べた実を枝へ戻すことはできない。それでも彼女は、声に出した。
「お願いです。もう一度、あの木の前に立たせてください。今度は蛇の言葉を断ります。あなたの言葉に従います。どうか、やり直させてください」
風がいばらの枝を動かした。返事は聞こえなかった。エバは器を持って家へ戻り、子どもの額の布を替えた。朝には熱が下がったが、彼女が庭園へ戻る道は開かなかった。
それからエバは、畑に種をまき、子どもたちに実のなる木を教えた。熟れた実を採るとき、枝を強く引けば翌年の芽を傷めることも教えた。あの夜に何を願ったかは、誰にも話さなかった。願いを口にしても、彼女が食べた事実は消えなかった。
長い時が過ぎた。荒野で、イエスは食べ物のない日を重ねた。サタンは石を指してパンに変えるよう促し、力や権威を差し出して、神に従う道から離れさせようとした。
イエスには、答えるまでの時間があった。空腹のまま石を見つめ、サタンの言葉を聞いた。それでも、自分のために神の言葉を曲げることはしなかった。誘惑を退けたあとも、人々に会い、教え、歩き続けた。
さらに時が過ぎ、ある女は台所の机で一通の手紙を読んでいた。差出人は、彼女の仕事上の失敗を知っている人だった。手紙には、そのことをほかの人にも伝えるつもりだと書かれている。冷めた湯のみが机の端にあり、外では夕食を作る家の換気扇が鳴っていた。
女は紙を裏返し、返事を書き始めた。相手のことを悪く書けば、読む人の目を自分の失敗からそらせるかもしれない。以前聞いた秘密を一つ書き添えれば、相手も黙るだろう。そこまで書いて、彼女は筆を置いた。
相手がしたことへの返事と、自分がしたことへの説明は、分けて書ける。女は最初の紙を破り、新しい紙を出した。事実と違う箇所だけを示し、自分が間違えた箇所には謝罪を書いた。封をする前に読み返すと、指の跡で紙の端が少し曲がっていた。
その手紙のことは、何千年も後の記録には残らないだろう。女は翌日も、別の場面で何を言い、どう行動するか選ぶことになる。あの日のエバにも、実を取る前の短い時間があった。自分の判断を神の言葉より上に置くかどうかは、遠い未来の一日にだけ問われることではなかった。
そして、キリストの千年統治が終わった。
地上に暮らす人々は、病人の額に布を替え続ける夜を経験しなくなっていた。食物を得るために、いばらと格闘する必要もない。復活した人たちから昔の暮らしを聞き、記録を読むことはできた。それでも、エバが畑の端で何を願ったのか、知る人はいなかった。
サタンが解き放たれると、人々の間に声が広がった。
「人間はもう完全になった。これからは自分たちで、何が善くて何が悪いかを決めればいい」
その言葉に従う人がいた。千年の良い統治を経験し、昔の病や死について知っていても、別の道を望む人がいた。誰かに引きずられたのではない。自分の足で、そちらへ向かった。
別の人々は、話を聞いたうえで立ち止まった。蛇がエバに告げた言葉を、彼らも知っている。エバとアダムは神の命令を知りながら、自分たちの判断を優先した。その先に何が起きたかも、彼らは知っていた。
「私たちには、選ぶ自由がある」
「だから、神の代わりに善悪の基準を決めようとはしない」
人々はそう答え、それぞれの仕事へ戻った。畑へ向かう者もいれば、家で待つ人のために食事を運ぶ者もいた。サタンの言葉を聞かなかったのではない。聞いたうえで、従わないと決めた。
エバはその人々の中にはいなかった。願いを口にした夜から、あの木の前へ戻ることもなかった。彼女がやり直したいと願った一日は、与えられなかった。
あの日のエバには、実を食べない自由があった。荒野のイエスは、誘惑にどう答えるかを選んだ。手紙を書き直した女にも、次の一行を選ぶ時間があった。千年後の人々も、差し出された言葉に、それぞれ答えた。
過ぎた一日には戻れない。エバが願ったあの日にも、戻れない。だが、まだ手を伸ばしていない実が目の前にあるなら、今、手を止めることはできる。




