前日譚 強面ボディガードは、高嶺の花に恋することをまだ知らない
直江虎之介の仕事は、一言でいえばボディガードである。
かつては警視庁警備部でSPを務め、要人警護にあたっていた。
数年前、直属の上司だった不動が退職し、外資系企業の役員やVIPの警護に特化した『不動セキュリティサービス』を立ち上げた際、直々にスカウトされた。
真面目で責任感の強い虎之介だったが、警察組織のしがらみには馴染めなかった。もっと現場で『誰かを守る』ことに集中したいと考え、不動の誘いを受けて転職したのである。
現在は、その実力を買われ、三十歳という若さで第三警護チームのリーダーを任されている。
そしてつい先日、一つの長期任務を終えたばかりだった。
今回の警護対象者は、来日した海外IT企業のCEOだった。四十代半ばの精力的な人物で、十日間の滞在中、チームは二十四時間の交代制で警護にあたった。
任務期間は、七月下旬から八月初め。例年よりも厳しい暑さが続き、スーツ姿での警護は体力を消耗した。
だが、長期案件そのものは珍しくない。
暑さ以上に問題だったのは、そのCEOが非常に気まぐれだったことだ。
早朝になって突然、皇居の周りを走りたいと言い出したかと思えば、会食を終えた深夜に、銀座の時計店へ行きたいと言い出す。予約していた高級料亭を直前で変更し、SNSで見つけた寿司店へ向かおうとしたこともあった。
予定が変わるたび、移動経路や周辺状況を確認し直さなければならない。警護する側にとって、行き当たりばったりの行動ほど厄介なものはなかった。
それでも虎之介は不満を口にせず、部下に的確な指示を出し続けた。
「班長、少し休んでください。昨夜も、ほとんど寝ていないでしょう」
副リーダーである陣内に心配されたが、虎之介は首を横に振った。
「俺より先に、夜勤の二人を休ませろ。警護対象者を飛行機に乗せるまでが任務だ。最後まで気を抜くな」
「……了解しました」
虎之介は、仕事に厳しい。
だが、部下に無理をさせることはなく、休憩や交代の時間も必ず守らせる。自分よりも部下を先に休ませることも、皆が知っていた。
最終日の午後、CEOを空港まで送り届け、搭乗した飛行機が無事に飛び立つのを見届けて、ようやく肩の力を抜いた。
「班長~、やっと終わりましたね」
最年少の部下である杉村が、凝り固まった肩を回す。
その隣で、陣内が眼鏡を押し上げながらたしなめた。
「杉村。行儀が悪いぞ」
「でも陣内さんだって、せいせいしてますよね?」
「……一番大変だったのは、班長だろう」
二人が同情するように虎之介を見る。
滞在二日目から、CEOはなぜか虎之介を気に入り、外出するたびに同行を求めるようになった。そのため虎之介は、部下を交代で休ませながら、自分はほとんどつきっきりで警護することになったのだ。
身辺警護には慣れているが、これほどまとまった睡眠を取れない任務は久しぶりだった。
帰社して報告を終えると、社長の不動が労うように言った。
「直江、長期任務、ご苦労だった。明日から一週間、特別休暇だ。ゆっくり休め」
「ありがとうございます」
今回、最も負担の大きかった虎之介には、一週間の休暇が与えられた。陣内や杉村たちも、順番に代休を取ることになっている。
「班長、一週間も休みかあ。いいな~。オレも彼女と旅行に行きてえ!」
杉村が羨ましそうに虎之介を見上げる。
「おまえも代休は取れるだろう」
「一週間まとめてっていうのがいいんですよ~! 有休が残ってれば、長期休暇にできたのになあ」
「杉村は、有休をほとんど使い切っているからな」
班内の勤務表や申請書類を取りまとめている陣内が、眼鏡を押し上げながら指摘する。
「この前、彼女と旅行に行くのに使っちゃったんですよねえ」
「なら、今回は諦めろ」
「班長、冷たいっす!」
杉村が大袈裟に肩を落とす。
陣内は虎之介へ向き直ると、穏やかに告げる。
「班長が休暇の間は、私が指揮を執ります。訓練のことも心配せず、ゆっくり休んでください」
「ああ。頼む」
休暇明けにも、今のところ長期案件は入っていない。しばらくは落ち着いて過ごせそうだった。
「では、失礼します」
虎之介は不動と部下たちに挨拶し、会社をあとにした。
途中でスーパーへ寄り、豚ロース肉とキャベツ、豆腐を買う。
長期任務中は、コンビニのおにぎりやサンドイッチ、弁当など、手軽に食べられるものばかりだ。久しぶりに、出来合いではない、自分で作った飯が食べたかった。
虎之介のマンションは、会社の近くにある。
単身者向けの1DKで、一人暮らしには十分な広さのはずだが、身長一八八センチで体格もいい虎之介には、少し狭く感じられる。壁際に専用のスタンドで保管しているロードバイクが、場所を取っているせいもあるだろう。
「ただいま」
誰もいないと分かっていても、帰宅すれば必ず声に出す。幼い頃から、挨拶だけは欠かさないよう厳しく躾けられてきたからだ。
十日ぶりに帰った部屋には、真夏の熱気がこもっていた。
「うっ……」
すでに夕方になっても、締め切った室内はまるで蒸し風呂だ。
虎之介は急いで窓を開け、扇風機を回して、こもった熱気を外へ逃がした。
しばらくしてから窓を閉め、エアコンをつける。
それから米を研いで炊飯器のスイッチを入れ、シャワーを浴びて汗を流した。
部屋着のTシャツとハーフパンツに着替えると、ようやく任務を終えた実感が湧いてきた。
「はあ。やっと休めるな」
独り言を呟きながら、キッチンに立つ。
豚ロース肉を焼いて生姜だれを絡め、千切りにしたキャベツを添える。
一人分だというのに、大皿に山盛りのキャベツと生姜焼きが乗っていた。任務中はまともな食事ができなかったので、ここでしっかり食べておきたい。
それから、豆腐とわかめの味噌汁を作り、炊きたてのご飯と一緒にダイニングテーブルへ並べた。
虎之介は椅子に座ると、箸を取った。
「うまいな」
自分で作る料理は、当然ながら自分好みの味付けでうまい。
濃いめの生姜だれが絡んだ肉とキャベツを一緒に頬張れば、白いご飯がいくらでも進む。
飲み物は酒ではなく、氷をたっぷり入れた烏龍茶だ。
炊きたてのご飯に、生姜焼きと熱い味噌汁。額にじんわりと汗が滲むが、よく冷えた烏龍茶が火照った体に心地よかった。
本音を言えば、冷えたビールも飲みたい。だが、任務明けには酒を飲まないと決めている。
疲労が溜まった体にアルコールを入れれば、回復が遅れる。体が資本の仕事だけに、体調管理を疎かにするつもりはなかった。
「どうせ、あとは寝るだけだしな」
酒は、疲れを紛らわせるためではなく、楽しめるときに飲むほうがいい。
「明日は、朝に軽く走って、洗濯と掃除をして……ロードバイクの整備もしておくか」
休暇中の予定を考えながら、虎之介は箸を動かす。
せっかく一週間の休暇をもらっても、一緒に遊びに出かけるような友人はいない。子どもの頃から武術に打ち込み、今も休日の楽しみといえば、トレーニングとロードバイクくらいだった。
おまけに口下手で、女性と接するのが苦手だ。
当然、恋愛にも縁がないまま生きてきた。
(杉村は、彼女がいるんだったな)
長く一人で暮らしてきた虎之介にとって、家族ではない大切な誰かがいるというのは、少し羨ましくもあった。
「……いや、オレはこれでいい。独りで」
自分に言い聞かせるように呟く。
明日からの休暇も、いつもどおり、家事とトレーニングだけで終わるだろう。
食事を終えると、使った食器と調理器具をすぐに洗い、明日のランニングウェアを用意する。
時刻はまだ早かったが、久しぶりの自宅のベッドに横になると、すぐに眠りへ落ちていった。
+ + +
陸翔はベッドに寝そべりながら、スマホを眺めていた。
ピコン、と軽い音が鳴り、画面の上部にカレンダーの通知が表示される。
『日曜日 十三時半 ラウンジ待ち合わせ』
「ああ、明日か」
うっかり忘れるところだった。
親友に予約を入れてもらったあと、待ち合わせの日時をカレンダーに登録し、前日に通知が出るよう設定しておいたのだ。
「どんな人だろう」
ホームページで見た、彼の後ろ姿を思い出す。
体格のいい男で、スーツがよく似合っていた。肝心の顔は写っていないけど、レビューは良かった。
陸翔はスマホを胸元に置き、目を閉じる。
「……当たりだといいけどなぁ」
明日、実際に会ってみれば分かることだ。
念のため、当日の朝にも通知が出るよう設定を追加し、陸翔はスマホを枕元に置いた。
(終)




