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勇者と寄り添う聖女の背中を見て、俺は恋人を辞めた。手紙一通で消えた俺を、聖女様が血眼になって追っているなんて冗談だろ?  作者: ledled


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第1話 積もり重なった不信の終着点

薄暗い宿屋の一室。石造りの壁は外の冷気を容赦なく吸い込み、部屋の中は吐く息が白くなるほどに冷え切っていた。木製の安机の上に置かれた古びたランプが、心もとないオレンジ色の光を揺らしている。俺はその頼りない光を見つめながら、ベッドの端に腰掛け、ただじっと両手を握りしめていた。手のひらには剣を振り続けたことでできた分厚いマメがあり、あちこちに古い傷跡が残っている。それが、俺という人間を端的に表していた。


俺の名前はカエル。魔王討伐という途方もない目的のために結成された、勇者パーティの一員だ。職業は戦士。聞こえはいいが、実際のところ俺の力など、伝説の武具に選ばれた勇者や、神の奇跡を体現する聖女に比べれば、路傍の石ころのようにありふれたものに過ぎない。俺にできることといえば、最前線で泥に塗れながら剣を振り回し、仲間たちの盾になって魔物の爪牙を受けることだけだ。特別な魔法が使えるわけでも、神託を受け取れるわけでもない。ただの、実直で頑丈なだけの男。それが俺の客観的な評価であり、俺自身もそれを痛いほど理解していた。


そんな俺が、なぜ世界最高峰の戦力である勇者パーティに名を連ねているのか。理由はたった一つだった。


「エララ……」


静寂の中、無意識にその名前が口からこぼれ落ちた。聖女エララ。透き通るような白銀の髪と、深い海のような蒼い瞳を持つ彼女は、今や世界中から崇められる希望の象徴だ。だが、俺にとって彼女は、そんな仰々しい肩書きを持つずっと前からの、ただの幼馴染だった。

豊かな自然に囲まれた辺境の村で、俺たちは兄妹のように育った。泥だらけになって森を駆け回り、木の実を奪い合い、日が暮れるまで秘密基地で語り明かした。エララは昔から優しくて、花や動物を愛する少し泣き虫な普通の少女だった。俺はそんな彼女の笑顔が好きだったし、彼女が泣いている時は、絶対に俺が守ってやると心に誓っていた。

俺たちはいつしか恋人同士になっていた。明確な言葉を交わしたわけではないが、互いの手が触れ合う熱も、見つめ合う視線の優しさも、間違いなく愛情と呼べるものだった。


しかし、彼女が十五の時、その身に聖女としての規格外の魔力が宿っていることが教会によって見出された。彼女は村を離れ、王都へと召し上げられることになった。俺は絶望的な力の差と身分の違いに一度は諦めかけたが、それでも彼女を一人で過酷な運命に立ち向かわせるわけにはいかないと決意した。血を吐くような特訓を重ね、幾度も死線を潜り抜け、俺は戦士として彼女の護衛役に志願したのだ。

すべては、愛する彼女の隣に立つため。彼女の力になり、その笑顔を守り続けるため。その一心だけで、俺はここまで戦い抜いてきた。


だが、そのささやかな願いは、勇者ガレスの登場によって脆くも崩れ去りつつあった。


ガレスは、神に選ばれた正真正銘の勇者だ。圧倒的な剣技と強大な魔力を併せ持ち、誰もが彼を英雄と称賛した。だが、その華々しい栄光の裏で、彼は極めて傲慢で独占欲の強い男だった。彼は世界を救うという使命を大義名分にして、自分の思い通りにならないものを徹底的に排除しようとした。

そして最悪なことに、ガレスはエララに執着していた。


『聖女は勇者を支えるために存在している。だから彼女は、俺の隣にいるのが最も自然なのだ』


ガレスはことあるごとにそう嘯き、エララを自分の所有物のように扱った。移動の際は必ず彼女を自分の馬の横に歩かせ、食事の時も隣に座らせた。エララが少しでも俺と話そうものなら、あからさまに不機嫌な顔をして割って入り、俺に対して冷酷な視線を向けた。


『ただの戦士風情が、聖女の貴重な時間を奪うな。お前は自分の身の程をわきまえろ』


言葉の刃は、確実に俺の心を削っていった。悔しかった。自分の非力さが恨めしかった。もし俺にガレスを凌駕する力があれば、堂々と彼女を取り戻すことができたはずだ。だが、俺には彼に反論するだけの強さも、パーティでの発言権もなかった。


それでも、俺がこの理不尽に耐え続けられたのは、エララが俺を愛してくれていると信じていたからだ。彼女だけは分かってくれている。表面上はガレスに従っていても、心は俺と共にある。そう思い込んでいた。


しかし、最近の彼女の態度は、俺のその細い希望の糸すらも断ち切ろうとしていた。


「ごめんなさい、カエル。これは聖女としての務めなの」


その言葉を聞くたびに、俺の心臓は冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。

ここ数ヶ月、エララは俺との時間を極端に避けるようになっていた。二人で街を見て回る約束も、夜の焚き火の前で語り合う時間も、すべてその言葉によってキャンセルされた。

ガレスが彼女を呼ぶ。作戦会議だ、祈りの時間だ、精神統一の儀式だ。理由は何でもよかった。ただガレスが彼女を求めるだけで、エララは俺に対して申し訳なさそうな、しかしどこか諦めたような瞳を向けて、勇者の元へと歩み去っていくのだ。


俺は彼女を責められなかった。エララは生真面目で、責任感が人一倍強い。世界を救うという重圧の中で、彼女は『パーティの不和を招いてはいけない』『勇者の機嫌を損ねてはいけない』と必死に耐えているのだと、俺は自分に言い聞かせていた。

彼女は苦しんでいる。だから俺が我慢しなければならない。俺が嫉妬心をむき出しにしてガレスと衝突すれば、彼女をさらに追い詰めることになる。俺は彼女の良き理解者でありたかった。彼女の重荷を少しでも軽くしてやりたかった。

だから、どんなに惨めでも、どんなに寂しくても、笑顔を作って彼女を送り出してきた。


だが、俺の心はとうに限界を迎えていたのかもしれない。

彼女がガレスの元へ行くたびに、俺の胸の奥底には黒く濁った澱のような不信感が積もり重なっていった。本当に、彼女は嫌がっているのか? 本当は、圧倒的な力を持つ勇者の隣にいる方が、俺みたいな冴えない戦士と一緒にいるよりも心地よいのではないか?

そんな醜い疑念を抱く自分自身に吐き気を覚えながらも、俺はその考えを振り払うことができずにいた。


その夜も、俺は眠れずにいた。

時計の針はとうに深夜を回っている。本来なら明日の魔物討伐に向けて体を休めるべき時間だが、嫌な動悸が止まらず、ベッドの上で何度も寝返りを打っていた。

喉の渇きを覚え、水を飲もうと部屋を出た時だ。廊下の斜め向かいにある、エララの部屋の扉が僅かに開いていることに気がついた。

胸騒ぎがした。こんな時間に、彼女が自室の扉を開けっ放しにするはずがない。

足音を殺して近づき、隙間から部屋の中を覗き込む。

ベッドには誰もいなかった。掛け布団は綺麗に整えられており、そもそも今夜は一度もベッドに入った形跡がない。


「……どこへ行ったんだ」


胸の奥で、嫌な音が鳴った。危険な目に遭っているのではないかという心配と、それ以上に、見たくない現実を突きつけられるのではないかという恐怖。

俺は急いで宿屋を出て、夜の街を彷徨い始めた。

冷たい夜風が頬を刺す。街灯はほとんど消えかかっており、石畳の道は深い闇に沈んでいた。俺は周囲の気配を探りながら、入り組んだ路地をあてもなく歩き続けた。

そして。


街の裏側、廃れた倉庫が並ぶ薄暗い路地裏で、俺の足は地面に縫い付けられたように止まった。

月の光が、分厚い雲の隙間から差し込み、その場所だけをスポットライトのように照らし出していた。


そこに、エララがいた。

美しい銀糸の髪が夜風に揺れている。彼女の目の前には、金糸の刺繍が施された高価な服を着崩した男――勇者ガレスが立っていた。

俺は咄嗟に息を呑み、近くの木箱の陰に身を隠した。心臓が早鐘のように打ち始め、耳の奥でドクドクと血の流れる音が響いている。

こんな夜更けに、人気のない路地裏で二人きり。ただの作戦会議であるはずがない。

二人の距離は、ひどく近かった。互いの吐息がかかるほどの距離で、見つめ合っている。


『エララ。お前は今日も美しかった。俺の力に合わせて戦えるのは、この世界でお前ただ一人だ』


ガレスの甘ったるく、傲慢な響きを含んだ声が夜の静寂に溶け込む。


『……もったいないお言葉です、ガレス様。私はただ、聖女としての務めを果たしているだけですから』


エララは少しうつむき加減でそう答えた。

その声色は、俺の知っている凛とした彼女のものではなかった。どこか熱を帯び、抗いがたい力に身を委ねているような、ひ弱で甘い響きがあった。


『務め、か。堅苦しい言葉は嫌いだと教えたはずだがな』


ガレスはそう言うと、エララの細い肩に手を回し、強引に自分の方へと引き寄せた。

やめろ。離れろ。拒絶しろ。

俺は心の中で絶叫しながら、その光景を食い入るように見つめていた。頼む、エララ。嫌だと、やめてくれと言ってくれ。

しかし、俺の悲痛な祈りは、あっさりと踏みにじられた。

エララは抵抗しなかった。それどころか、彼女は自らガレスの広い胸に顔を埋め、すがるようにその服の裾を両手で握りしめたのだ。

まるで、甘える子供のように。あるいは、愛しい恋人に抱かれる乙女のように。


『……でも、カエルが……』


エララの口から、俺の名前が出た。ビクリと肩が跳ねる。

ガレスは鼻で笑った。


『あの無能な戦士のことか? あんな雑魚のことは気にするな。あいつはただの数合わせだ。いずれ適当な理由をつけてパーティから追い出してやる。お前の隣にふさわしいのは俺だけだ。お前もそう思っているのだろう?』


否定してくれ。

お前は間違っていると、私の愛する人はカエルだけだと、そう言ってくれ。

息を止めて、彼女の言葉を待った。世界が静止したかのように、時間が長く感じられた。

そして、彼女は口を開いた。


『……はい。わかっています。私は聖女として、あなたに寄り添うのが……私の、務めですから』


その瞬間。

俺の中で張り詰めていた糸が、完全にぷつりと切れた。

音を立てて崩れ落ちる音がした。それは、俺がこれまで積み上げてきた彼女への信頼であり、愛であり、自分自身の存在意義だった。

すべてが、根底から破壊された。

路地裏で、勇者の腕に抱かれ、彼に顔を埋める彼女の姿。

これが、彼女の言う「務め」なのか。

俺を避けて、俺を一人にしてまで優先したかったのは、この甘ったるい時間だったのか。


愛していた。信じていた。彼女の苦しみを分かち合おうと、自分の感情を殺してまで彼女を支えようとしてきた。

だが、それは俺の独りよがりに過ぎなかったのだ。

彼女にとって、俺の献身は「重荷」であり、聖女という華々しい立場にいる自分には不釣り合いな「過去の遺物」でしかなかったのだ。彼女は、力のある勇者に庇護されることを選び、そしてその免罪符として「聖女の務め」という言葉を使っていたに過ぎない。

俺は、見事にピエロを演じきっていたというわけだ。


激しい怒りは湧いてこなかった。ただ、全身の血が凍りついたような絶対的な冷たさと、底なしの虚無感が俺を飲み込んでいった。

肺の中の空気がすべて抜け出てしまったかのように、息がうまく吸えない。視界がグラグラと揺れ、足元から世界が崩壊していくような感覚に襲われた。

もう、ここにはいられない。

これ以上、あの二人の姿を見ていれば、俺は正気を失ってしまう。


俺は足音を殺したまま、ゆっくりと後ずさりした。木箱の陰から離れ、来た道を振り返らずに駆け出した。

背後から聞こえてくる、ガレスの低い笑い声と、それに答えるエララの微かな吐息。その一つ一つが鋭いナイフとなって俺の心臓をズタズタに切り裂いていく。

宿屋に戻るまでの道程をどうやって歩いたのか、まったく記憶になかった。

気づけば、俺は自分の部屋の冷たい床の上に座り込んでいた。


部屋の中は、先ほど出て行った時と同じように静まり返っていた。

ランプの火が、俺の惨めな姿を嘲笑うかのように揺れている。

どうすればいい。明日、どんな顔をして彼女に会えばいい。

『おはよう』と声をかけるのか? 『昨日も遅くまでご苦労様』と労うのか?

そんなこと、できるはずがなかった。あの光景を脳裏に焼き付けたまま、彼女の吐く嘘をニコニコと笑って受け入れるなど、俺の精神が耐えきれるわけがない。

結論は、すでに出ていた。

これ以上、俺が彼女の隣にいる理由はどこにもないのだ。


俺は弾かれたように立ち上がり、部屋の隅にあった粗末な背嚢を引き寄せた。

荷物をまとめる手に迷いはなかった。数着の着替えと、わずかな路銀。そして、使い慣れた一本の長剣。それだけだ。

勇者パーティに支給された見栄えの良い防具や、傷薬の類はすべて置いていくことにした。エララから貰った、魔除けのお守りもだ。今の俺には、それらのすべてが呪いのアイテムのように思えた。


荷造りを終えると、俺は机に向かい、備え付けの羊皮紙と羽ペンを手にした。

誰にも何も言わずに消えることも考えたが、それでは捜索隊を出されて面倒なことになるかもしれない。それに、最後に一つだけ、彼女に伝えておかなければならないことがあった。

インク壺にペン先を浸し、震える手で文字を綴り始める。

感情に任せて恨み言を書く気にはなれなかった。そんな気力すら、今の俺には残されていなかった。ただ、冷たく、淡々と、事実だけを記していく。


『エララへ。

突然こんな形でパーティを去ることを許してほしい。

最近の君を見ていて、俺はようやく自分の愚かさに気づくことができた。俺は、君が背負っている「聖女としての務め」の重さを、本当の意味で理解していなかった。

君がどれだけ悩み、何を犠牲にして勇者ガレスに寄り添おうとしているのか。今日、路地裏での君たちの姿を見て、すべてを悟ったよ。

君には、もっと相応しい場所がある。そして、相応しい相手がいる。俺のような実力のない戦士がいつまでも君の隣にいることは、君にとって邪魔でしかないのだろう。

俺はもう、君の聖女としての務めを邪魔しない。自由に、君の信じる道を歩んでくれ。

今までありがとう。どうか、お元気で。

カエル』


ペンを置き、羊皮紙をじっと見つめる。

文字が所々歪んでいた。視界がぼやけていることに気づき、俺は乱暴に目元を袖で拭った。

愛していた。本当に、心の底から愛していたのだ。だからこそ、その愛情がこれほどまでに醜い絶望へと反転してしまったことが悲しかった。

俺は手紙を二つに折りたたみ、机の中央の最も目立つ場所に置いた。


背嚢を背負い、剣を腰に帯びる。

部屋の扉を開ける前に、一度だけ振り返って室内を見回した。

ここで過ごした数ヶ月の記憶が、走馬灯のように脳裏をよぎる。エララと笑い合った記憶。彼女の作ってくれたスープの匂い。怪我をした時に、泣きながら治療してくれた彼女の温かい手。

そのすべてが、今はもう色褪せた幻だ。


「……さようなら」


誰に宛てたわけでもない呟きは、虚空に溶けて消えた。

俺は部屋を出て、宿屋の裏口から外へと抜け出した。

東の空が、ほんのりと白み始めている。夜明けの冷たい風が、火照った頬を冷ましてくれた。

街の門へと向かう足取りは、不思議なほど軽かった。心臓の半分を抉り取られたような喪失感と引き換えに、俺を縛り付けていた見えない鎖がすべて断ち切られたような、奇妙な解放感があった。

門番は居眠りをしており、俺が通り抜けても気づく様子はなかった。

街を出ると、目の前には見渡す限りの荒野が広がっていた。どこへ行く当てがあるわけではない。ただ、彼女のいない場所へ、勇者の噂すら届かない最果ての地へ行きたかった。


俺はフードを深く被り、一度も振り返ることなく歩き出した。

信じることに疲れ果てた戦士の心は、凍てつくような冬の荒野よりも冷え切っていた。

残された手紙が、エララの聖女としての仮面を粉々に砕き割り、彼女の人生を狂わせるほどの絶望を与えることになろうとは、この時の俺には知る由もなかった。

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