記憶買います
ドリーム社の待合室のソファーに男は座って待っていた。と、ドアが開き、白衣を着た男が声をかけた。
「山根さんお待たせしました、どうぞ中へ」
山根と呼ばれた男は中へ入る。白衣の男は山根に椅子を勧めると、口を開いた。
「はじめまして、査定課長のハリスです。何を売りたいのですか?」
ハリスは山根を見た。やや緊張しているように思えたが、中肉中背のふつうの中年の男性だった。
「……記憶です、記憶を買い取って頂きたいのです」
「わたしどもで記憶を買い取ることは可能ですが、いったん買い取った記憶はキャンセルして脳組織へ戻すことはできませんよ?」
ハリスはそういいながら、この人物の素性を推測した。金に困って記憶を売りにくる人間は今までにも多くいた。ドリーム社が宣伝しているわけでもないのに客が多いのは、多額の金で記憶を買い取っていることが、評判になっているからである。
「はい。それは承知しています」
山根は言った。
「それでは承諾書にサインをお願いいたします。お金は記憶の読み取り後に即金でお渡しいたします。こちらへどうぞ」
とハリスは装置のある隣室へ山根を案内した。山根は丸椅子に座らせられ、ハリスは慣れた手順でアームの先に端子のついた装置を山根の頭部に装着した。
「楽にしてください。すぐに終了いたします」
ハリスは装置のスイッチを押した。
……十分後、山根はリカバリールームのリクライニングチェアに座っていた。上着のポケットには封筒に入った紙幣がのぞいていた。
山根はなぜここにいるのかは、ぼんやりと覚えがあったが、切迫してこの会社を訪れた理由が思い出せなかった。
今までの人生は起伏が多く、辛いことが多かったことは覚えている。ただ具体的な詳細な記憶が今は欠落していた。その空白の部分がドリーム社に買い取られた箇所なのだろう。辛かった人生の記憶を消したいというのが動機ではなかったか。山根はポケットの上から紙幣の厚みの感触を確かめた。アパートの家賃を払って、うまいものも食える。これからのことは、そのあとでゆっくり考えればいい。山根はドリーム社をあとにした。
大金を手にして最初にやりたいことがあった筈だった。それがなんだったか、思いだせなかった。このとき、山根は何か大変なものを喪失したような気がしたが、それがなんなのかは、ついに思いだせなかった。
ハリスは山根という男から買い取った記憶の詳細をディスプレイで映像化して確認していた。そこへ部下がやってきた。
「どうですか、先ほどの記憶は?」
「あの男の記憶には絶え間のない悲哀が充満している。幼いときの愛情に恵まれなかった記憶の原型から始まって、破綻した結婚生活に至るまで、失意と苦痛の連鎖だ」
「使えますか?」
「いま検討中の対話型デバイスの推察能力の向上にぴったりだ。AIに求められているのは使用者に寄り添う共感能力だ。誕生から成人にいたるまでの人生の起伏の再現には役にたつ」
「デバイスが人間的になりますね」
「そのとおり。実際の人間の記憶をチップに埋め込むことで高度な対応が可能になる」
街の公園のベンチでは、最新型の対話型デバイスを手にした裕福なカップルが楽しそうに語り合っていた。一方、離れたところには記憶を買い取られてアイデンティティーを喪失した人々が視点の定まらない表情でぼんやりとたたずんでいた。
その中に記憶を欠落させた山根の姿もあった。




