第39話 夜のマンション前、距離ゼロの会話は危険すぎる件
しおりのマンション前。
夜風が少し冷たくて、でもしおりの声がそれを全部ぬるくしていく。
「……晴、来てくれてありがとう」
フードを深くかぶったまま、しおりが俺を見る。
その目がいつもより潤んでいて、光が揺れていて、まともに呼吸ができない。
「眠れなくて……どうしても晴の顔、見たかった」
ぽつりと言うその声が、夜気にじわっと溶けていく。
「いや、俺もちょっと落ち着かなかったから。来たかったし」
そう言うと、しおりが少しだけ肩を揺らして笑った。
「……やっぱり、晴だなぁ」
「どういう意味だよ」
「ううん、なんでもない」
嘘だ。
絶対なんでもなくない。
しおりは、エントランス横の少し影になった場所まで歩いていく。
俺に向かって指先でちょいちょい、と呼ぶ。
その仕草だけで、心臓が3回転くらいする。
「ここなら、人に見られない」
「お、おう」
「そんな緊張した声出さないでよ……。余計に、変な気持ちになる」
変な気持ちって何。
けど聞けない。
聞いたら終わる気がする。
しおりはすぐ横に立って、俺の袖をそっとつまんだ。
昼間と同じ仕草。
でも夜のせいか、距離感がぜんぜん違う。
「晴ってさ……今日、楽しかった?」
「そりゃ、めっちゃ楽しかったけど」
「……よかった」
その言い方が優しすぎて、胸の真ん中がじんわり熱くなる。
「私ね、今日ずっと胸が苦しくて……これ、なんなのかなって考えてたの」
「苦しい?」
「うん。苦しいけど、嫌じゃない。むしろ……ずっとそうでいてほしいって思っちゃうくらい」
そんなの分かってる。
それ、たぶん俺と同じ。
「晴はどうなの?」
しおりがゆっくり近づく。
俺の胸のすぐ近くで、しおりの瞳がまっすぐこっちを見る。
逃げ場なんてない。
「……しおりといると、俺も、なんか変になる」
「変って?」
「……近いと、心臓の音うるさいし、ずっと気になるし」
「それ、私のこと……」
しおりが一歩、さらに踏み込む。
距離が一瞬で“ゼロ”に近づく。
「……好き、ってことじゃないの?」
息、止まった。
心臓なんてもうバレてるのに、顔まで熱くなる。
夜道の静けさが逆に残酷なくらい大きく感じる。
俺が言葉を探してると、しおりがそっと俺の胸に手を置いた。
シャツ越しでも手が熱い。
「ねえ、晴……正直に言ってほしい」
「……俺は」
「うん」
「ずっと、しおりのことが気になってた」
「……」
「今日で確信した。俺も、お前のこと……」
その瞬間。
しおりがほんの少し顔を近づけてきた。
夜の光が、まつげの影を綺麗に落とす。
「……晴」
その声は、呼吸よりも近くて、触れそうで、甘くて――
「言わなくていいよ。今は……聞いたら、抑えられなくなるから」
俺の言葉をそっとふさいで、しおりは微笑んだ。
「でも、分かった。晴の気持ち……ちゃんと届いた」
そのとき、マンションの入り口のライトがふっと明るくなる。
誰かが外に出てくる気配。
二人して反射的に距離をとる。
「っ、危な……」
しおりは小さく息を吐いて、俺の袖をもう一度つまむ。
「今日は……ここまでね」
「……ああ」
「でも、まだ終わりじゃないよ?」
「……どういう意味だよ」
「次会ったとき、ちゃんと続きするから」
心臓が死ぬほど忙しい。
「また連絡する」
そう言って、しおりはエントランスに入る前、振り向いた。
「晴。……来てくれてありがと。ほんとに」
その笑顔がずるい。
そのまま彼女は、静かに階段を上っていった。
夜風だけが残った。
だけど俺の胸はまだ、さっき触れた手の熱のままだ。




