第36話 朝焼けの合図と、短いインタビューの裏で
朝の光がまだ薄い時間、スマホの通知が小さく震えた。
「地方局の取材、朝9時入りで決定。顔出しなしの条件維持。台本はなし、インタビューは短め」――古沢からの淡いメッセージだった。昨夜の約束通り、しおりは「ルールは守る」と言ってくれた。だけど短い取材でも、外向きの場はいつも緊張の一瞬を孕む。
俺はキッチンでコーヒーを淹れながら、彼女のことを思った。寝起きの髪が乱れても、彼女の横顔はきっと今日も可愛いだろう。心の中で軽く笑い、バッグに小さなハンカチと予備のマスクを入れる。準備は、優しさの一形態だ。
駅で落ち合うと、しおりはいつものキャップに濃い色のコートを羽織っていた。顔は隠しているが、目線が澄んでいる。彼女は俺に小さく手を振り、肩の力を抜いてみせた。「晴、今日は緊張するけど、短いから大丈夫」と言ったその声に、本当の覚悟が滲んでいる。俺はぎゅっと手を握って、無駄な言葉はかけずに「一緒だ」とだけ返した。
局の待ち合わせ場所はこじんまりしていた。カメラは一台、小さなスタッフが数名。田島がすでに到着していて、資料ファイルを抱えていた。にこやかに「公共放送だし、落ち着いて行こう」と声をかけてくれる。プロの安心感が場の空気を和らげる。
インタビューは、生放送の短いコーナー内で使われるという。しかも「顔なし」で素材を使うのは初めてらしく、局側も慎重だ。プロデューサーがこちらの条件を何度も確認する。しおりはそれに真摯に応え、こちらの運営チームも弁護士の文言を手渡す。現場には守るべき線がはっきり張られている。守る人がいると、被写体は強くなる。
控室での短い時間、しおりは背筋を伸ばして窓の外を見ていた。俺はそっと隣に座り、彼女の肩越しに差し入れたサンドイッチを差し出す。「緊張する?」と聞くと、彼女は小さく笑って「少し」と答えた。でも、その「少し」は大きな意味を持っていた。ここに来るまでの道のりは、目に見えるほど楽じゃなかったはずだ。
「俺、今日の台本作ってみたんだけど」俺は冗談半分で言って、口笛のように簡単な質問と受け答えを紙に書いて見せる。しおりは紙を覗き込み、鼻で笑った。「晴らしい演出。だけど、台本は要らないよ。本当のことを少しだけ話すだけでいいって。短い方が、伝わるから」そう言って指でハートを小さく作る仕草をした。その仕草は配信の時のクールな塩対応では出てこない、無防備なしおりだった。
スタジオに入ると、カメラマンがマイクの位置やバイノーラルのセッティングを最終確認している。ここでも顔は見せない。顔がわからない代わりに、音の細部が重要になる。しおりの呼吸、衣擦れ、バーを叩く指のリズムがすべてマイクに入るように調整していく。丁寧な仕事が、彼女を守る装甲になる。
担当プロデューサーの一人が短く言った。「本日は“声と言葉”を通じて伝える構成にします。顔が見えないからこそ、言葉が力を持ちます。時間は90秒。準備はいいですか?」しおりは小さくうなずき、目が強く光る。俺はその目を見て、胸が熱くなった。
いざ本番。カメラの赤ランプが静かに点き、局のディレクターが合図を出す。しおりはマイクに向かって呼吸を整え、画面越しの視聴者に向けて短い言葉を紡いだ。
「私は——声で生きています。でも、声は時に誰かの道具にもなる。今日ここにいるのは、私一人の物語だけじゃない。誰かが大切にした声が、知らないところで消費されることのないように、私たちは選ぶ権利を持ちたいんです」
言葉は短い。けれど、その声には確かな重さがあった。画面の外で、プロデューサーが息を呑む音がした。田島は目を細め、控えめに拳を握っている。局のタイムキーパーが軽くオッケーを出し、90秒は無事に終わった。
インタビュー後、スタッフの一人がそっと近づいてきた。「よかったです。顔が見えなくても、伝わりました。問題提起としても丁寧でした」と言ってくれる。しおりは小さく安堵の笑みを浮かべる。彼女は緊張していただろうけど、伝えることを選んだ。裏方の精巧な配慮が、その選択を支えた。
さて、帰り道。駅のコーヒーショップで二人きりになった瞬間、しおりは視線を外してから言った。「あの90秒で、ずっと胸の中にあったものが少し楽になった気がする。晴がそばにいたからだよ」頬にほんの少しだけ赤みが差す。俺は胸がきゅっとなる。「大げさに言うと、俺の仕事は君の保護者じゃないけど、便利屋くらいにはなれるよ」と笑って返すと、しおりはくすりと笑った。
その夜、俺は彼女を家まで送った。薄暗い路地、二人きりの時間。顔を見せるわけではないが、彼女の吐息の温度がすべてを語る。「今日はありがとう」としおりが言う。俺は少しだけ照れてから、「いつでも」と答える。彼女が手をぎゅっと握り返す力に、俺は未来の重さと甘さを確かめた。
ベッドに戻ってから、しおりの配信や今回の放送に寄せられた反応をちらっと確認する。賛同のメッセージが多い。だが同時に、匿名のアカウントがまた別の断片を投げつけている痕跡も見える。ID_08やID_09の残響が完全に消えたわけではない。だが今日の90秒が与えた影響は確かだ。人々は「声」を考え始めた。
俺は枕元で小さくつぶやいた。「次は普通のデート企画、もっと楽に行こう」――心の奥で、しおりが何と返すかを想像してほほえむ。彼女の“塩”が、時々甘さになる瞬間を、俺はまだまだ見たい。
ページの最後に小さな予告だけ残す。次回は、しおりが提案した「視聴者参加型散歩企画」。顔出し無しで、全国の“声”を繋ぐ試みだ。暖かさと危うさが隣り合わせの新しい物語が始まる——だけど今回は、二人で背中を合わせて進める準備ができていた。




