第31話 君と出かける日曜日――塩対応ヒロインのリアルデート大作戦
「明日、二人で出かけない?」
しおりがそう言ったとき、俺の心臓は確実に一拍余分に跳ねた。
数週間前までは、夜の路地で缶のふたを拾ったり、サーバーログを追ったりしていた――それが俺たちの日常だと思っていたのに、今は全然違う景色が目の前に広がってる。日曜日、二人だけで出かける。それだけで胸が軽くなる。ふわっと、春先の風みたいな期待。
「どこ行く?」俺はよくある無難な質問を投げる。
しおりはちょっと照れて、でも真剣な顔で答えた。「普通に、散歩して、お昼はあの小さなパン屋さんで。あと、近くの古本屋を見たいなって思ってる。特に意味はない、ただ一緒に歩きたいだけ」
塩対応の“白月しお”が配信ではクールに決めてるってことは、俺は知ってる。だがリアルしおりは、塩を舐めたみかんみたいにちょっとすっぱくて、意外と素直なところがある。俺はそれが好きだ。というか、好きになってしまっているのを自覚するのが少しだけ怖い──でも、今日はそれを忘れて楽しもう。そう決めた。
日曜の朝。集合は駅前の改札。俺は少し早めに着いて、改札の前で靴底を調整していると、向こうから見慣れたスニーカーが近づいてきた。しおりだ。帽子で顔を隠し、でも帽子からはふわりと出た髪が可愛い。水玉のワンピースにスニーカーという、意外とラフな組み合わせ。彼女は見つけるとちょっとだけ目を泳がせて、でもすぐに微笑んだ。
「晴、遅刻しないでよね」
「そんなに早く出たわけじゃないよ」俺は強がる。内心は全然余裕がない。
歩き始めると、会話は自然に弾む。日常のこと、配信の裏話(これは伏せどころ満載)、相変わらずの幼馴染ネタ。しおりは時々、配信では絶対言わない“本音”をぽつりと混ぜてくる。そんな瞬間に、俺はなんでこんなに幸せなんだろうと自分で驚く。
古本屋では、しおりが静かに本をめくる指先を見ていた。彼女が選んだのは、表紙の色が褪せた短編集。俺たちは同じページで立ち止まり、肩が触れる。しおりの肩は意外に温かくて、ふっと息が漏れる。
「ねえ、晴って昔からそういうの読む?」彼女が小声で訊く。
「読むよ。君が好きそうなのを手当たり次第借りてたくらい」俺はあっけらかんと答える。
しおりはちょっとだけすねたように見える。「ふーん、信用できない答えだね」
その塩っぽさが可愛い。
パン屋は小さくて、すでに行列ができている。だが並ぶ価値のある匂いがする。しおりは迷わずカレーパンを選び、俺はクリームパン。外のベンチに腰かけて、二人で交互にかじる。噛む音がやけに大きく聞こえたのは、俺だけだろうか。
「配信のとき、顔出さないのに凄いよね」男の声が横から聞こえる。視線を向けると、二十代後半くらいの男性がスマホを握りしめ、こちらを見ている。パン屋の近所の常連らしい。彼の目が一瞬あたり、俺としおりを交互に見て小さく笑った。
「白月しおさんですか?」彼が訊く。目が本当は優しい。しおりの顔が一瞬固まる。リアルでは顔を出さない――それが彼女のルールだった。ここで「はい」とは言わないだろう。
しおりははっと顔を上げ、ちょっと慌てて言い訳っぽく、「え、えーっと、すみません、よくある間違いですよね!」とごまかす。彼は気まずそうに笑って立ち去る。俺は内心ホッとした。バレることを恐れてるんだ、しおりは。でもバレないように振る舞う彼女の手つきが、やっぱり愛おしい。
その後、古本屋で買った本の話題から、突然「しおりはVの世界でどんな人に励まされた?」という話になった。彼女は少し考えてから言葉を綴る。
「リスナーの中には、私の配信で救われたって言ってくれる人がいる。私、そういう言葉がすごく嬉しい。でも同時に……それを“売り”にするのは、やっぱり嫌だなって思う。誰かの痛みを道具にするようなことは、したくない」
その目は真剣で、言葉の揺れがある。俺はただ黙って頷く。彼女の倫理観はあの日の決断から変わってない。
街角を抜けると、空が曇りはじめた。遠くに雷鳴の気配。予定より早めに帰るか――そんな話をしていたとき、携帯が震える。画面には運営のアイコン。小さな警戒音が鳴った。
「何?」俺が訊くと、しおりはスマホの画面をちらっと見て、「古沢さんから。マーケットでまた変な人が映像配信してるって」と答える。僅かなことだが、昔の緊張が胸を刺す。だが今日はデートだ。俺は即座に決める。
「ここで対応する。古沢に切り替えて。配信は俺が見張る。しおりは先に駅まで戻ろう」俺は提案する。しおりは眉をひそめた。「いや、私は一緒にいる。怖いけど、一緒なら大丈夫」その言葉が胸に刺さる。幼馴染冥利に尽きるというやつだ。
結局、二人でベンチに座りながら、携帯を開いた。古沢の画面が小さく揺れている。向こう側の雑踏に、また見慣れたシルエットが立っている。配信は始まっているが、今回は煽りとか暴露ではない。誰かがゆっくりと、古い物語の切れ端を流しているだけ。けれどそれで動揺する人もまだいる。
「やっぱり、私はここにいるべきなんだよね」しおりが小声で言った。嗚呼、俺はやっぱり守りたいと思う。特別扱いする理由など山ほどあるけど、今日はそのうちの一つだけでいい──俺はしおりの傍らで携帯の画面を食い入るように見ながら、つぶやいた。
「俺がいるよ。隣にいる」
しおりは一瞬目を伏せて、小さく笑う。「来週の配信、手伝ってくれる?」彼女は照れ隠しにそんなことを言う。俺は即答した。「ああ。だってそれが俺の仕事だから」
雨はぽつぽつと降り始め、木々が濡れる音がする。駅へ戻る道、傘は一本。俺は当然のように自分の傘を差し出す。しおりは少しだけ驚いて、でも素直に傘の中に入る。肩が触れる。濡れた髪が頬に当たり、彼女の体温が伝わる。
「今日、ありがとう」しおりが言った。声には余計な塩がない。素直な感謝だ。俺はそれ以上言葉を出さずに、ただその温度を胸に覚える。駅前の人混みは相変わらずだが、俺としおりの間だけ時間の針がゆっくり動いている気がした。
ホームで電車を待つ間、雨は勢いを増した。しおりが隣で震えるから、俺は肩を軽く抱く。そのまま、自然に、唇が触れるか触れないかの距離で言葉が漏れた。
「しおり、今日みたいな日が、もっと続けばいいな」
彼女は一瞬驚いた顔をしたあと、目を逸らして「ばか」とだけ言った。だが顔は赤い。言葉の代わりに、その小さな“ばか”がすべてを語っているように思えた。俺は笑ってから、小さく答える。
「俺もばかだけど、君のばかでいたい」
電車が来る。ドアが開き、俺たちは並んで乗り込む。人混みに押されながら、しおりの手をそっと取る。彼女はぎゅっと握り返してくれる。確かな温度、確かな重み。ささやかな日曜日の終わりに、俺は少しだけ未来を見た気がした。
まだ物語は続く。配信も、場所も、記憶も。だが今は――ただしおりと、並んで歩いた日曜の記憶が、息をしている。それでいい。明日はまた違う問題が来るだろうけど、俺たちは一緒にいられる。それが何よりの力だ。
――終わりじゃない、始まりの一つ。




