第2話 配信と放課後の境界線
朝の教室は昨日と変わらない匂いがしていた。チョークの粉、紙のにおい、少し湿った制服の袖。誰もが自分のペースで朝の時間を動かしている。だけど、俺――春崎晴――の胸の中には小さな緊張がくすぶっていた。しおりの秘密を知ってから、日常の一つ一つが少しだけ色濃く見える。
「晴、今日の放課後、ちょっと手伝ってくれない?」
昼休み、しおりから来た短いLINEはいつもの不器用な文体。文面だけだと何も分からない。だが「手伝って」という単語には、彼女の現場(配信活動)に関わる何かが含まれている。俺は少し胸が跳ねて、予定を空ける返信をした。
放課後、二人で帰る途中。駅前の小さな広場にあるベンチに座って、しおりはそわそわと荷物を弄った。今日はフードも被っていない。夕陽が彼女の髪を薄く赤茶色に染める。
「今日の配信、ちょっとミニ企画を考えてて……晴、助手やってくれない?」しおりが小声で切り出す。目はまっすぐ俺を見て、いつものボソボソした話し方だ。だが、その目の中にはプロ意識が光る。
「俺が助手?」と俺は聞く。「何するんだ?」
しおりはポケットから小さな箱を取り出した。中には手作りっぽいクジがぎっしり詰まっている。「視聴者参加型で“しおりのポンコツ検証”ってコーナーをやろうと思って。指名したら晴にリアルで無茶振りしてもらうの。配信だと塩対応だけど、現実の私のポンコツを見せるっていう……その、バランス取りのための演出協力をお願い」
口に出す彼女の言葉はぎこちないが、要は視聴者の喜ぶネタを作るための“現実でのからかい役”だ。俺は一瞬逡巡した。想像するシチュエーションは色々ある。だが、考えれば考えるほど彼女の顔が浮かんで、手伝うことに対する抵抗は消えた。
「いいよ。面白くなりそうだし」と俺は答える。しおりの唇がほんの少しだけ緩んだ。
翌日、放課後。配信のための“ロケ”は放課後の図書室で行われた。図書室は学校の許可を得て使っているらしく、静かなのにどこか緊張感が漂う。配信の機材が段ボール箱に入っていて、しおりはノートパソコンと赤いマイクを丁寧にセットしている。俺は指示されたとおり、視聴者からの“無茶振り”を読む役だ。
配信が始まると、画面の向こうのコメント欄はすぐに賑やかになった。普段とは違う“裏側”の雰囲気を出しているためか、コメントは温かくも興奮気味だ。「晴きた!」「幼馴染来ちゃダメ〜」「見逃せないw」――そんな文字列が流れる。
「じゃ、まずは軽めから行くよ」しおりはコントローラを持つ手を少し震わせながら言った。アバターでは見せることのない、リアルなしおりの動揺がこちらにも伝わる。画面越しに受ける“プロの塩”と、教室の中で息を詰める“素のしおり”との間に、奇妙な二重写しができていた。
数本目の無茶振りのとき、事件は起きた。画面内のコメントに「この学校って○○高校だよね? 制服のリボンが○○のやつだし!」という書き込みが現れた。瞬間、図書室の空気が止まる。しおりの手が止まり、俺の心臓が一拍早くなる。
配信上はアバターと声だけでやっているとはいえ、学校が特定されれば大きなリスクだ。運営からの方針やファンの一部の過熱を考えれば、場所や人間関係の露見は許されない。
「やばい……」しおりの声は子音が抜け、耳元でしか聞こえないほどの小ささになった。「誰かがここに……」
俺は冷静を装ってコメント欄をスクロールする。書き込み主はアカウント名に制服の学校名を含むような単語はないが、写真付きで投稿しているアカウントもあるかもしれない。幸い、今は書き込んだだけでそこまで特定できる状況ではない。だが、油断はできない。
「一旦配信止める?」と俺は囁いた。
しおりは首を横に振った。「やめたら余計に怪しまれる。ここは冷静に対処しよう。コメント拾って、ジョークに変えるの」
彼女は深呼吸をして、普段の“塩対応”的テンションを意識的に作り上げた。画面越しの声はピリッと角が立ち、いつもの“シオ・クレール”が戻っている。俺は横でアドリブの台本担当だ。視聴者の書き込みに対して、しおりが「ふーん、じゃああなたは探偵ね。晴、彼を追って」と言えば、俺が「探偵役は無理だ。俺は探しても途中でコーヒー買うタイプ」と切り返す――そんな風にして流れを変えていく。
しおりはそれを見事に使いこなし、コメント欄の空気を笑いに変えた。視聴者も笑いに乗り、個人情報に踏み込む書き込みはほどなく消えていく。二人の即興は緊張を笑いに変え、配信は再び安定した。
配信が終わった後、しおりは椅子にもたれて息をついた。「危なかったね」と俺が言うと、彼女は目を閉じて小さく笑った。
「晴、聞いてほしいことがある」としおりが言った。「今日は配信で協力してくれてありがとう。あと……私、無理して塩でいるところあるよね。視聴者受けするからって、冷たく見せるけど、正直疲れる。リアルのしおりって、もっと抜けてるし、たまに情けない。そんな私でも、晴は見捨てない?」
その言葉に、俺は少し驚いた。彼女がそんな弱音を見せるのは珍しい。昔から強がりで時々人と距離を取るタイプだったからだ。しかし今の彼女は真剣で、脆く、手を差し伸べたくなる。
「見捨てるわけないだろ」と俺は自然に答えた。「幼馴染だし。別に塩でもポンコツでも、しおりはしおりだよ」
しおりの目にうっすら光るものが見えた。ありがとうと言いかけて唇を噛む。二人の間に言葉にならない温度が流れ、図書室の時計のカチカチが妙に大きく聞こえる。
その日の帰り道、しおりはぽつりと言った。「また、手伝ってくれる?」と。俺は即答した。「当たり前だ」
ただ、どこかで気づいていた。秘密を共有することは、時に二人を近づけ、時に危険を招く。しおりの活動がもっと大きくなれば、見えない綻びが増えるだろう。俺たちはその綻びをどうやって繕っていくのか。まだ答えはなかった。
夜。家で配信のアーカイブを確認すると、コメント欄には「今日の配信、あの2人のやり取り神回」「幼馴染ってマジかよ!?」といった反応が並んでいた。中には「学校バレっぽい発言あったけど大丈夫?」と心配する声もある。俺は画面の光を見つめながら、しおりのことを守るためにできる現実的な方法を考え始める。
──そう。守る、って言ってしまったらちょっと格好がつくが、実際はもっと不器用だ。だけど、幼馴染として、友達として、俺は彼女の“現実”を壊したくない。それだけははっきりしている。
翌朝、学校の廊下でしおりとすれ違ったとき、彼女は小さく手を振った。いつものぼそっとした返事で「昨日はありがとう」と言った。その声はほんの少しだけ強く聞こえた。
ゲームの次のレベルは、きっともっと難しい。だけど、クリアの仕方は一つじゃない。俺たちはまだ試行錯誤の途中だ。それでもいい。始まったばかりの物語は、二人で少しずつ形を変えながら進んでいくのだから。




