第14話 封筒の名前、光の底に沈む声
封筒の中の紙は、一枚だけ。白く乾いた質感の上に、タイプライターで打たれた文字が整然と並んでいた。
「被験者記録 第07号:春崎晴」
俺は息を飲んだ。
その紙片の端に、もうひとつ名前が印字されている。
「共同対象:篠原しおり」
理解が追いつかなかった。
隣でしおりが唇を震わせている。指先が、紙を掴んだまま離れない。
「……これ、どういうこと?」
問いは宙に消えた。
男――旧放送局に潜んでいた“声の主”は、壁際のモニターの光に照らされていた。
帽子を脱ぎ、深い皺のある額を晒したその顔は、どこかで見覚えがある。
学校の前で子どもたちに声をかけていた、あの柔和な地域スタッフ。
だが、目だけが異様に静かだった。
「驚くのも無理はない」
彼は淡々と口を開く。
「君たちは七年前、この場所で“声の実験”に参加している。
無意識のうちに録音された幼少期の音声――あれが、夜猫のプロジェクトの原型だ」
頭が真っ白になる。
七年前。俺としおりがまだ小学生で、学校帰りに路地裏で拾った古いカセットテープ。
中に録音されていた“声真似遊び”。
俺たちはそれを面白がって、何度も再生しては笑っていた。
だが、その後――誰かがそのテープを持ち去った。
「……あれを回収したのが、私だ」男は言った。
「“人の声に宿る印象”を収集し、AI音声に変換する試みだった。
やがてその技術は、VTuberの“声”に応用された」
しおりの顔色が変わる。
「つまり……“白月しお”の声も……」
「半分は君自身、半分はその時の“記録”。
夜猫はそれを再構成して、“理想的な人格”として公開した。
本来、仮想人格は君の影――だが、影がいつの間にか君の一部を侵食した」
男の声が、低く響く。
俺は足元が崩れるような感覚に襲われた。
夜猫の正体は、ただのアンチ集団ではなかった。
“声”そのものを集め、人格を人工的に再構成する実験装置。
その中心に、俺たちの記録が使われていた。
「……じゃあ、俺たちは最初から“作られた関係”なのか?」
「違う」
男は首を振った。
「実験が終わったあとも、君たちは自分の意思で声を交わし続けた。
だから今の君たちは、本物だ。
だが、あのテープが残っている限り、“もう一つの君たち”は生き続ける」
沈黙。
空調の音すら止まったような静けさの中で、しおりが前を向いた。
「……だったら、そのテープを止める」
彼女は机の上のラップトップに手を伸ばし、ファイル一覧を開いた。
“VoiceOrigin_07.wav”――その名が光っている。
カーソルが震える指の下で止まった。
「待て」男が言う。
「それを消せば、“しお”の声も消える。
VTuberとしての君の存在も、ネット上から跡形もなく」
「構わない」
即答だった。
「だって、それでも私は“私”だから」
彼女の目に迷いはなかった。
俺はその横顔を見て、ただ頷いた。
たとえこの決断がどんな結果を呼んでも、隣で受け止める。
クリック音が小さく響いた。
画面が一瞬、白に染まり、ファイルは消えた。
次の瞬間、スタジオ全体が低く唸る。
サーバーが自動で反応し、連動していた配信システムが動き出した。
壁のモニターが次々に点灯し、コメントが流れ始める。
「何これ、真っ白になった」
「“しお”が消えた?」
「終わり? それとも始まり?」
しおりの名前が一瞬画面に浮かび、次の瞬間、全ての文字が黒に塗りつぶされた。
音声が途切れ、照明が落ちる。
暗闇の中、男が静かに言った。
「……これで終わりか。だが君たちは、確かに自分の物語を選んだ」
外の風が吹き込む。
割れた窓から朝の光が差し込み、埃が舞う。
その光の中で、俺は耳を澄ませた。
――遠くで、小さな声が笑っていた。
子どもの頃に録った、あの“声真似遊び”の最後の一節。
「またね、はる」
俺は目を閉じた。
光の底に沈むその声が、消えていく。
静けさの中で、世界がひとつ、やり直しの息をついた気がした。
だがモニターの隅に、ただひとつだけ残った文字列があった。
「New User Detected : ID_08」
その瞬間、冷たい汗が背筋を伝う。
終わりではない。
“次”が、もう動き始めている。




