エピローグ
「即位してからまだ三か月だろ? ほんとうに大丈夫なのか?」
「はい。ツキクサ様のお力添えもあり、既に新体制が盤石化しつつありますから」
べガルアスが亡くなってから三か月。
一時は混乱に陥ったルスティカーナも、今ではかつての盛況を取り戻しつつあった。
キノカが人の身を取り戻したあの日。ツキクサは途中で意識を失い、次に目を覚ましたときには、二週間もの月日が流れていた。みんな泣きながら飛びついてきて大袈裟だなぁと思い、同時にみんながそれほどまでにツキクサを大切に思っているのだと実感できて、なんだかむず痒い気持ちになった。嬉しくて泣きそうになった。
ツキクサが寝ついている間に、〈地下〉に収容されていた〈エボルバー〉は解放された。しかし過去に犯罪歴がある〈エボルバー〉については変わらず捕縛しているようで、悪には相応の制裁を加えようという姿勢が、如何にも正義に従事するリバルらしいなと思った。人体治験で精神を病んでしまった人には、一生涯かけて国が支援していくようだ。一度起きてしまったことをなかったことにはできない以上、それがベストな善後策と言えるだろう。
また今後は〈エデンの塔〉を廃止するという声明が、これまたツキクサが寝ついてる間に出されたらしい。べガルアスに恭順に仕えている姿しか見ていなかったのでてっきり受動型だと思っていたのだが、どうやらリバルは状況判断力に秀でてた能動型のようだった。そのことに、三か月間ルスティカーナの再建事業に携わっていて気づかされた。リバルは王たる才知を持ち合わせていた。べガルアスはリバルの才能を見越して、彼を側近にしていたのかもしれない。
「とはいっても、まだ色々あるだろ。隣国との物流問題とか、経済水域問題とか……」
「たしかに問題は山積みですが、しかしいつまでもツキクサ様に頼らせていただくわけにはいきません。ツキクサ様もいずれは旅立たれます。そうなった際に、誰もツキクサ様の抜けた穴を埋められないとなっては困りますので」
「なるほど」
リバルが言うように、今現在ツキクサは少々働きすぎている。間違いなく、リバルに次いで政経に影響を及ぼしている。樹立からかなりの歳月が過ぎた国家でならこの働き具合で問題ないのだが、しかし新政権樹立からまもない国家でこの働きは反って悪手だろう。
頷いてツキクサは言った。
「わかった。なら俺はここらで手を引くよ」
「はい。今日まで尽力していただけたこと、心より感謝申し上げます」
深々と頭を下げてくる。
「相変わらず堅苦しいなぁ。けどなリバル、王たるもの時には傲岸不遜に徹することも大切だ。国のトップがぺこぺこへつらってたとなっちゃ、バカにされちまうからな。だから謙遜もほどほどにしとけよ」
「肝に銘じておきます」
「おう。〈特別国政補佐官〉からのアドバイスだ」
にっと微笑んで身を翻して足を進め、しかしすぐに伝え忘れていたことを思い出し振り返る。
「べガルアスは立派な王だったよ。リバルには酷薄な部分しか見せなかったかもしれないが、彼は死の間際まで国民の幸福を憂えた偉大な王だった。お前も負けないようにがんばれよ!」
青瞳に小さな灯を宿し、リバルは大きく頷いた。
「はい。必ずやべガルアス陛下に劣らぬ偉大な王となってみせます」
「困ったらいつでも連絡しろよ。俺は生涯ルスティカーナの〈特別国政補佐官〉みたいなもんだからさ」
べガルアスと交わした約束は、これまでもこれからも果たしていくつもりだ。
かくして、半年に及ぶルスティカーナでの任務は幕を閉じた。
任務終了の旨を伝えるため、目的地に向かう途中にある小さな空き地のベンチに腰掛けて、〈輔弼連合〉に連絡を入れることにする。が、なかなか連絡がつかない。
(まあ、すんなり出られたらそっちの方がびっくりなんだけどさ)
夜空を見上げると、一面の黒にぽつりぽつりと白い粒が散らばっていた。蒸し暑さを孕んだそよ風が頬を撫でていく。夏は好きだ。なぜなら――
『お疲れ様です。ツキクサ〈特別国政補佐官〉』
ようやく応答した。
『ご連絡いただけたということは、任務が満了した、と解釈してお間違いないでしょうか』
やや震えた声色であることを、ツキクサは聞き逃さなかった。
「はい、仰る通りです。本日を持ちまして、ルスティカーナでの任務を終了したことをお伝えさせていただきます」
『長役お疲れ様でした。つきましては次の任務の手配を――』
「その必要はありませんよ」
『え?』
「此度の任務を持ちまして、私は〈特別国政補佐官〉を退職させていただきます」
相手は言葉を詰まらせた。
『……どうしてですか?』
数瞬の沈黙を挟んで紡がれた二の句は動揺に震えていた。
「どうしてもなにも、命を狙われれば縁を切りたくなるのが当然だと思うのですが?」
『……いったいなにを仰られているのか、存じかねます』
「モモエを派遣して俺を殺そうとしたのはアンタらだな?」
『っ! で、ですから――』
図星のようだ。
「感謝はしてるよ。アンタらのおかげで俺は健康で強靭な肉体を作ることができたし、ほかでは決して培えないような智慧を手に入れた。貯蓄も充分すぎるほどに潤った。贅沢しなりゃ、一生働かずに生きていけるような大金だと思う」
『で、では、いったいなににご不満を――』
「アンタらいったい、〈祝福の欠片〉を集めてなにをしようと企んでるんだ?」
『……』
沈黙ほど如実に後ろめたさを物語るものはない。ため息をついてツキクサは言った。
「アンタらがなにをしようが、俺の知ったことじゃないよ。人類の平和の希求を目標に掲げるアンタらが成し遂げようとしてることだからきっと歴史に残る大業なんだろうし、それなら、代償が必要とされることもないだろうからさ」
キノカが人の身を取り戻したという奇蹟。あれは、ツキクサとキノカの純朴なる想いが引き起こしたものではないかと仮説を立てている。自分のためではなく、誰かのために〈祝祭〉を望んだのならば、代償は必要とされないのではないだろうか。そう奇蹟に理屈をこじつけたが、実際のところはわからない。解明できなくても構わない。もう関わることはないのだから。
「けど、ひとつ忠告しておく」
言ってしまえば、〈輔弼連合〉に連絡する必要はなかった。なぜなら彼らは、ツキクサはモモエの暗殺により命を落としたと認識しているからだ。
モモエの報告を真に受けた彼らは、今頃動顛していることだろう。なぜ、ツキクサが生きているのか。モモエが偽りの情報を漏らしたというのか。
彼らは少し学んだ方がいい。なんでも自分たちの思い通りにはいかないと。
「俺の仲間に少しでも手出したら容赦しねぇからな」
『……』
「今後二度と俺に干渉するな。それだけ守ってくれるなら、俺もアンタらになにもしない」
『……承知いたしました』
「それでいい」
これで言いたいことはすべて言った。通話を切ろうと耳から通信機を離し、
「あと、モモエ〈国政補佐官〉も本日付で退職だ。彼女にも一切干渉するな」
最後にそう言い残し、ツキクサは通信機を切った。
「ふう。これで厄介ごとは片付いたかな」
手のひらサイズの通信機をゴミ箱に投げ捨てて、ツキクサは目的地に走って向かう。足取りが軽いのは、退職による解放感と直近に迫った未来に対する高揚感からくるものだろう。
「やっべ、三十分も遅れてんじゃん。さすがにもうはじめちまってるかなぁ……」
時計台の示す時刻を見て、ツキクサは走るペースを上げた。
◇
夜の帳が降りてからも変わらず活気の漂いつづけるセントラル街を抜けると東区に出る。
東区の大部分は住居が占めている。日用雑貨店や個人経営の飲食店がひっそりと営業しているが、どの店も繁盛しているとは言い難く、セントラル街との客足の差は一目瞭然だ。
そんな東区に、木造建築がレトロチックな雰囲気を醸している一軒の建物がある。一階は酒場で、二階は宿泊宿。そんな変わった造りになっているこの店に、ツキクサは三か月ほど逗留している。
コンコンと扉をノックすると、「はいはーい」と、どこか投げやりな聞き慣れた返事が返された。ぱたぱた騒がしい足音が徐々に近づき、「おまたせしましたー」と扉が開かれる。
「すんません。今日この店貸し切りでして――」
紅玉めいた瞳が目を惹く金髪の少女だった。華々しい売り子衣装に身を包んだ少女は、ツキクサを見るなり、ぱっと容姿に劣らぬ華やいだ笑みを浮かべる。
「お帰りです、サクサクさん。皆さん待ってますよ。ささ、入って入って」
そう言う彼女の前髪はばっさり切られていて、かつてのように根暗な印象はまるで受けない。
ここは第一試練で助けた少女――アリスの働く酒場だ。
「もうすっかり接客にも慣れたみたいだね。声色も視線も完璧だ」
「へへ、そっすかねそっすかね? 自分、売り子が段々板についてきてますかね?」
「もう一人前の売り子だと思うよ。アリス目当てで遠方から足を運んでる客もいるんだろ?」
「矯めつ眇めつしやがる客には、蔑んだ微笑みを返すサービスを提供してます!」
「貴重なお客さんになんともご無体な……」
「私の中で、男はサクサクさんかそれ以外っすから」
どこか恥じらうような笑みを見せた。アリスはよく笑う子だ。だから話していて楽しい。
ここ三か月、住み込みで働いているアリスと同じ生活空間に身を置いているため、彼女とはもはや家族も同然の間柄にあった。親密な間柄を仄めかすように、アリスはいつからかツキクサを「サクサクさん」と呼ぶようになった。悪い気はしなかったし、むしろ嬉しかった。
店の中に足を踏み入れると、木の床がピキッと軋んだ音を立てた。
店内は右手がカウンター席、左手がテーブル席となっている。カウンター背後の棚に並ぶアンティークな酒瓶は、如何にも酒場といった風だ。インテリアのほとんどが木造のため、部屋全体に仄かに樹木の匂いが充満している。
ひとつのテーブル席を除いて空席だが、しかし店は満席時と大差なさそうな幸せの音色に満ちている。弾んだ声色。幸福を孕んだ笑い声。
あっ、とひとりの少女が声を上げた途端、それがぴたりと鳴り止み、皆の注目が一斉にツキクサに集まる。
「おかえり兄様っ!」
「ただいま」
とんがり帽子をかぶったキノカは、今日も変わらず上機嫌だった。
キノカは二階に住んでいるので遅刻しなくて当然なのだが、レンとカリナとモモエも既に腰を据えていて、やはりびりっけつはツキクサのようだった。
「ごめん。待たせたかな」
「気にすんな。女四人、男ひとりで俺が肩身狭い思いしてただけだよ」
「おいおい、雄とか雌とかツレねぇ分類すんなよ。オレらは等しく友だちだろ?」
「うんうんっ! カリナお姉ちゃんの言う通りだよっ!」
「あぁっ、キノカちゃんにお姉さん呼びされるのは私だけの特権だと思ってたのぃ~!」
「ちょ、ピーチさんそろそろ飲むの辞めた方がいいんじゃないすか? 顔、真っ赤っすよ?」
騒がしく賑やかな空間だった。
レンとカリナとモモエには、ルスティカーナ再建の手伝いをしてもらっていた。ツキクサが頼んだら、ふたつ返事で聞き入れてくれた。気立てがいいにも限度があると思う。
キノカはアリスと一緒に酒場経営の手伝いをしている。キノカにはありふれた日常を満喫してほしかったから、ちょうどいい職場だと思った。
テーブルに料理はなく、飲みものしか置かれていない。どうやらツキクサがやってくるまで、食事はお預けにしてくれていたようだ。
「じゃんじゃん頼んじゃってください。サクサクさんがこの店買えるくらいの大枚叩いてくれて店長大喜びっすから。たぶんメニューにない料理を頼んでも用意してくれますよ」
「むしろドリアと酒だけでよく持ってるなこの店……」
メニュー表を見てレンが絶句していた。それにはツキクサも同意だった。
アリスが言ったように、メニュー表にない料理を注文しても、店長は当然のように作ってくれた。どれも味も見た目も素晴らしいもので、なぜドリア以外のメニューが存在しないのか、不思議に思えてならなかった。一番好評なのはドリアだった。ドリアだけ格別に美味しかった。
「そういえばモモエ、〈国政補佐官〉を辞めるって連絡しといたからな」
「すぴーすぴー……」
「もう寝てるのかよ……」
まぁ大ジョッキのビールを何杯も呷っていたので、当然の末路なのかも知れないが。
「まったく、こんなヤツが〈国政補佐官〉だったなんてオレは未だに信じらんねぇよ」
呆れたように言いつつも、突っ伏すモモエに自身の羽織を被せるカリナは微笑んでいた。なんだかんだ可愛い妹のように思っているのかもしれない。カリナはモモエよりひとつ年上だ。
「俺も今日付で〈特別国政補佐官〉辞めたんだ。ところでカリナ、村の方は問題ないか?」
「ん、大丈夫だよ。そうでなきゃここに留まってねぇし。……それがどうかしたのか?」
「いや、前に約束したからさ。カリナが困ったら手を貸すって」
「いいよいいよ、オレのことなんか気にしなくて。任務済んだから、キノカと旅に出るんだろ?」
ルスティカーナでの任務が済んだらキノカと旅をする。前々から決めていたことだった。
「旅よりもカリナお姉ちゃんの方が大切だよ。ほんとうに手を貸さなくて大丈夫?」
「お前ら兄妹はほんといいヤツすぎるよ。……あ、そういえば俺もツキとキノカちゃんの旅に同伴したいんだけどいい?」
「あ、オレオレも! 友だちと旅とか超楽しそうじゃねぇか!」
「旅っすか。いっすねぇ~。……わ、私も行こうかな? ひとり留守番するのも寂しいし」
「だってキノカ。ふたり旅じゃなくなりそうだけど平気か?」
「うんっ! みんな大歓迎だよっ! へへっ、ますます旅が楽しみになってきたなぁ~」
弾けるようにキノカは微笑んだ。その笑顔に寂しさを覚えつつも、それよりも遥かに大きな喜びがツキクサの胸の内を満たしていた。期待で胸が高鳴っていた。
「……私は、むにゃむにゃ……キノカちゃんのお姉さんになって、ツキクサさんの……妹に、なるんですぅ……むにゃむにゃ」
「悪いが、妹はキノカひとりで満席だ」
モモエの寝言に脊髄反射で反論すると、どっと場が笑いに包み込まれた。よっ世界のお兄様とか、相変わらずのシスコンぶりだなとか、焼いちゃうくらい深い兄妹愛っすねぇとか、兄様は相変わらずだなぁとか聞こえてきたが、聞こえていないふりをした。
「……るせぇよ」
兄が妹を好いてなにが悪いと言うのだろうか。
◇
食後にケーキが運ばれてきた。蝋燭が乗ったケーキだ。
今日はキノカの、そしてツキクサの誕生日だった。
部屋の電気が落とされた。蝋燭の火が暗闇にゆらゆらと揺らぐ。
兄様もいっしょにとキノカに言われたので、ふたりで息を吹きかけて蝋燭の火を消した。
お誕生日おめでとうと、友だちが拍手と共に言祝いでくれた。
キノカ以外からはじめて貰う言祝ぎだった。
友だちが誕生日プレゼントを渡してくれた。
キノカ以外からはじめて貰うプレゼントだった。
友だちと微笑みながらケーキを食べた。
甘くて美味しいケーキが懐かしくて、思わず涙ぐんでしまった。
「素敵なプレゼントをありがとう兄様。わたし、す~っごく幸せだよっ!」
「……あぁ、俺もだよ」
キノカがいて、友だちに囲まれて。
こんな誕生日が訪れるなんて夢にも思っていなかった。
「ありがとうみんな」
目尻に溜まる光の粒を拭い、ツキクサは微笑んだ。
「みんなと出逢えて、俺、さい~っこうに幸せだっ!」
それは、ありのままの感情に彩られた無邪気な微笑みだった。
―FIN―