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EVORVER  作者: 風戸輝斗
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第四章

 芳しい香りに鼻腔をくすぐられて目を覚ました。

「おっ、やっと起きたなツキクサ。朝飯用意しといたぜ!」

「おはようキノカ」

「ん、なんか言ったか?」

「なんでもない。いつものルーチンだ」

 カリナの前には、大皿が何枚も並んでいた。いくらか空き皿があるが、ほとんどの皿には煌びやかな料理が盛りつけられている。昨日同様、タブレット端末が用意されていたので、それを操作して用意したものだろう。

「朝食の前に軽くシャワーを浴びたいんだけどいいかな」

 唇の周りに付着したソースを舌先で舐め取り、呆れたように肩を竦める。

「朝起きてまずシャワーとか貴族かよ。……いや間違ってねぇのか? 〈特別国政補佐官〉ってアレだよな、確か国で二番目に権力を持つって……」

「今後働かなくても裕福な暮らしができるくらいには貯蓄があるよ」

〈特別国政補佐官〉は世界に十人しかいないため、かなりの好待遇である。もっとも、常に〈輔弼連合〉の監視下に置くため、という目論見もあっての計らいなのだろうが。

「はぁ~そいつはすげぇや……オレも〈国政補佐官〉目指そっかな」

「カリナには無理かな」

「希望の欠片すらも垣間見せねぇのな」

 ジトっとご不満な瞳を向けてくるが、変に期待させるわけにもいかないので仕方ない。

〈国政補佐官〉には、感情を殺して命令に恭順に従う機構的な態度が求められるので、感情がそのまま態度となるカリナでは〈国政補佐官〉になれないだろう。それに、カリナは素の姿が魅力的なのだから、その長所をこんなくだらないことのために潰さないでほしい。

 シャワーを浴びて部屋に戻ると、レンが目覚めていた。ほくほく顔で大皿料理を頬張るカリナの隣で、寝惚け眼を擦りながら黙々と箸を進めている。

「おはようレン。調子はどうだい」

「眠い」

 ツキクサも朝に弱い質だが、それ以上にレンは朝に弱いと、昨日いっしょに過ごしたから知っている。髪はボサボサで、目はしょぼしょぼで、服は乱れていて。それでも食事の手が緩まないのは、生存欲求に起因するものか。

「な~に寝ぼけたこと言ってやがる。もう八時だ。農家の朝は四時からだぜ」

「すごいな。深夜に寝たのにそんな早くに起きたのか」

 椅子に腰かけてバゲットを頬張る。

「いんや、今日はさすがに六時起きだよ。四時間も寝られれば充分だろ」

「俺は農家じゃねぇんだ。四時間じゃ全然寝足りねぇし、遅寝遅起きが定着してんだよ」

「そいつは残念、早死にしちまうなぁ~。それが嫌なら、常日頃から早寝早起きするこった」

 フォークの先を突き立ててカリナが窘めるが、レンはまるで気にしていない様子だ。

「ちょうどいいじゃねぇか。サユと早く逢えるし」

 シャキッと、レンがレタスを噛み締める小気味いい音が静まり返った部屋に広がった。ツキクサとカリナが返答に窮してしまったからだ。

「……あ、悪い。デリカシーがなかったな。ふあ~、どうも朝は頭が回んなくてなぁー」

 両眼を線にしたまま、レンはぱくぱくと料理を平らげていく。

「頭が回らない状態でよくそんなに食べられるな」

 レンといい、カリナといい、すごい食べっぷりだ。ツキクサが一目見ただけで胃もたれしてしまった豪勢な朝食のほとんどは、既にふたりの胃袋の中に収まっていた。

「っし、そろそろ締めのパンケーキといきますかぁ」

「俺の分のドルチェもよろしく」

「了解っと。ツキクサはなんにする?」

「僕はコーヒーだけで充分かな」

 味気ない朝食で済ませるのは今日までだろう。

 明日の朝食はどうしようか。近い未来に思いを馳せて、ツキクサは頬を和らげた。


「昨夜、叶えたい願いがあるって言ってたが、ありゃ建前的なモンか?」

 最終試練開始五分前。レンがそんな話題を振りかけてくる。

「どうしてそう思うんだ」

「はじめから妙だとは思ってたんだ。〈エデンの塔〉はこれまで何回も催されてるってのに、頂上に到達して願いを叶えたヤツはひとりもいない。けど、最終試練の内容を聞いて納得したよ。あぁなるほど、運営の遣いが到達を阻んでるんだってな。ツキに課せられた使命は大方そんなところなんじゃないか?」

 思考を巡らせていない時間がないのではないかと疑ってしまうほどに、レンはあらゆる物事を思慮深く観察している。まるですべて知っていながら推理立てたような物言いをしているのではないかと思ってしまうほどに……。

「さてはレンが〈国政補佐官〉だったりしてな」

「まさか。元暗殺者の俺にそんな大役が務まるはずがねぇよ」

〈輔弼連合〉は素質さえあれば過去の経歴など気にしないと思うので、今の否定材料では決定打にかける。

「……」

「どうした。そんな見つめて」

「いや」

 そんなはずないかとかぶりを振り、レンの推察に返答する。

「その通りだよ。僕は〈特別国政補佐官〉として、〈エデンの塔〉の攻略を妨害してきた」

「うっはー。そりゃ攻略できねぇのも納得だわ」

 カリナが感嘆と諦観の入り混じったようなため息をついた。

「けど、ツキは〈祝祭〉を享けていないワケだろ? 俺思ったんだけどさ、この〈エデンの塔〉ってのは、端から誰にも〈祝祭〉の権利を譲渡するつもりがねぇんじゃねぇのか?」

「……」

〈エデンの塔〉を執り行う真の目的。

 それは、治験サンプルとする〈エボルバー〉を確保することにある。

 黙秘しろとは言われていない。明かしてもいい。しかし明かすのは躊躇われた。

「ん。なんだ?」

 レンはすんなり許容するだろうが、この裏事情はカリナに明かすにはやや酷である気がした。昨日の試練で、関わりのほとんどない参加者をあそこまで憂えていたカリナだ。何人もの〈エボルバー〉が苦痛の渦中にあると知ったらどうなるだろう。最終試練に影響を及ぼすことは、想像に難くない。

「……その通りだよ。〈祝祭〉を既にべガルアスが享けていることはみんな知っているだろう。それですべてだ。〈祝祭〉の元となる〈祝福の欠片〉は、この国にひとつしか存在しない。仮に僕が最終試練で足止めに失敗したら、その時はべガルアスが直々に抹殺しにくるだろう」

「とんだ茶番だな」

 レンは苦笑する。どうやら今の説明だけで納得してくれたようだ。

「だとしたら、ツキクサの願いはいつまで経っても叶わねぇじゃん」

 カリナが言った。

「国王の〈祝祭〉を護衛するのが使命っつーなら、その使命を放棄して反旗でも翻さねぇ限り、ツキクサが〈祝祭〉を享けることはできねぇじゃん。それともあの願いは嘘っぱちなのか?」

 昨晩、ふたりに打ち明けた。ツキクサは、かつての日常を取り戻したくて戦っているのだと。

「いいや。正真正銘、あれは僕の叶えたいと思っている願いだよ」

 その言葉に偽りはない。それは間違いなく、ツキクサの原動力となっているものだ。

「だから僕は雌伏し続けたんだ。忠実な下部という認識を確固たるものにするためにね」

 不敵に微笑んだ。カリナは首を傾げ、レンはくくっと含み笑いを漏らした。

「友だちが国家反逆を起こそうとしてるのに止めないのか」

「ツキじゃなかったら止めてるさ。お前さんがそうするってこたぁ相応の理由があんだろ? とすれば、背を押すのが友人としての務めだと思うんだがどうよ?」

「どうよと言われてもね」

 苦笑するしかない。ただ、確かなことがひとつだけあった。この瞬間、ツキクサはレンと出逢えてよかったと心の底から思っていた。

「つまりどういうことだよ?」

 カリナが疑問を漏らす。

「どうやら俺たちは、歴史的瞬間を見ることになるみたいだ」

「歴史的瞬間?」

 カリナがオウム返しした直後、「まもなく最終試練を開始します」という運営からのアナウンスが入った。ほどなくして部屋の入口に〈転移装置〉が出現する。

 ツキクサは腰を持ち上げて足を進め、転移直前に振り返って言った。

「この腐った俗事に終止符を打つ。手を貸してくれ」

 レンは「おう!」と力強く頷き、カリナはぱちぱちと瞬きしながらも「ツキクサの頼みなら断らねぇぜ!」と、胸の前でぐっと両こぶしを握り締めた。

「ありがとう。ふたりに出逢えてほんとうによかった」

 最終試練をクリアし、べガルアスから〈祝祭〉を奪い、キノカを救ったのちに、〈地下〉に捕縛された〈エボルバー〉を解放する。

 すべてをひとりで行うのはさすがに骨が折れそうなので、協力してくれる仲間がいてくれることはツキクサにとって予期せぬ僥倖だった。

 もうすぐすべてが終わる。

「キノカ……」

 十年願いつづけたその瞬間が、すぐ手の届く場所にまで近づいている。

 眩い光が全身を包み込んでいく……。


 ◇


 目を開くと、薄暗い部屋の中にいた。床下照明の仄かな橙色のおかげで、かろうじて近くにいるほかの参加者の顔が見える。タイル張りの硬い床の感触は、第一試練で味わったものだ。

「おい見ろ!」

 どこかで声が上がった。声に振り返れば、ひとりの男が頭上を指差していた。指先が示す先を追いかけると、そこにはきらきらと極彩色を放つ立体ひし形の結晶があった。

(毎度質の悪いことをする)

〈祝福の欠片〉だ。〈祝祭〉を享けるには、あの欠片を手に入れなくてはならない。もっとも今の所有者はべガルアスなので、彼が絶命しない限り、〈祝福の欠片〉を手に入れても〈祝祭〉を享けることはできないのだが。

「いよいよって感じだな」「お母さん、待っててね」「誰にも〈祝祭〉は譲らねぇ」

〈祝祭〉を享けるために〈祝福の欠片〉が必要であることは、参加者の誰もが認知していることだ。報酬が目に見えて場の熱量が沸々と滾っていく中、透き通った声が響き渡った。

「それではこれより最終試練を開始します」

 運営からの短いアナウンスが入ると、しんと静謐が十秒ほど場を満たした。続く補足説明はなかった。運営らしき姿も確認できない。

「で、誰が〈国政補佐官〉なんだよ?」

 参加者の誰もが思っているであろう疑問を誰かが口にした。

「どうする。正体が割れてない今の内に奇襲を仕掛けるか?」

 隣にいるレンがボソッと漏らす。幸いにもレンとカリナはツキクサのすぐ近くにいた。

「やるならやるで構わないぜ。どのみち戦いは避けられねぇんだからさ。……仕方ないんだ」

 自分に言い聞かせるようにカリナは言った。戦斧を握る手は震えていた。

「その必要はないよ」

『水鳴』を腰だまりから引き抜きながらツキクサは言った。

「この程度なら僕ひとりで充分殲滅できる。リスクを負ってまで奇襲を仕掛ける必要はない」

「ツキが言うとすごい説得力があるな。……了解。その時が来たら指示を飛ばしてくれ」

〈国政補佐官〉とかなり抽象的な言い回しがされているため、開始早々戦いの火蓋が切られることはなかった。皆、猜疑心を募らせ、疑惑の瞳を炯々と光らせている。

「ん」

 やがてひとりの男の注意がツキクサに向いた。

「お前なんじゃねぇか?」

 その瞬間は必ず訪れると思っていた。

〈国政補佐官〉が秀逸なる〈エボルバー〉であることは誰もが知ること。恐らくは、誰よりもインパクトのある勝利を収めたであろうツキクサが嫌疑にかけられるのは時間の問題と言えた。

「なにか証拠でもあるのかい」

 白を切って、レンとカリナに目を配る。こうなった以上、戦火が交えられる未来はすぐそこに迫っている。昨日カリナが言っていたように、〈国政補佐官〉がもうひとり忍び込んでいるという可能性に淡い期待を寄せていたのだが、どうやらそううまく世界は回っていないようだ。

「昨日の戦いっぷりがなによりの証拠だろ。みんなもそう思うよな?」

 男が首を巡らせて共感を求めた直後、しゅんっと白い光が男の首を掠めた。無音の一閃だった。剣筋は誰の目にも止まらず、苦悶の声が上がることもなく、しかし意識を失う男を見て、誰もが嫌でも理解させられた。

「そうだとも。僕が〈特別国政補佐官〉だ」

 気絶した男を引き寄せるツキクサの瞳には、底知れぬ戦意を感じさせる輝きが宿っていた。琥珀色の瞳の上で揺らぐ青白い炎。小さく、儚く、しかし洗練されたが故にそう見えているだけで、その冷徹さの内側に秘められた強い覚悟を、誰もが本能的に理解していた。

「ひっ……」

 誰もが畏怖していた。腰を抜かし、手に持った武器を落とし、中には失禁する者もいた。

 果たしてどれだけの参加者が、この状況で戦う意志を持っているのか。

「できるだけ苦しめたくないんだ。抵抗しないでくれると助かる」

 それでもやらなくてはならない。

〈国政補佐官〉の討伐が最終試練のクリア条件である以上、〈特別国政補佐官〉であるツキクサのクリア条件は、参加者全員を討伐することなのだから……。


「オレたちなんもしてねぇんだけど」

 昏倒した参加者を部屋の端に運び、そっと横たえながらカリナが言った。割れ物を扱うような丁寧な所作からも、彼女の優しさが滲み出ている。

「そんなことないよ。現にふたりは後処理を手伝ってくれているじゃないか」

「さてはお前、端からオレたちを雑用以外で使う気なかったな?」

「大切な友だちに汚れ仕事は押しつけられないよ」

 峰打ちで沈めた参加者一同の移動が完了したところで、胸ポケットから連絡機を取り出して参加者を〈地下〉に移動させるよう運営に指示を出す。ふたつ返事で承諾される。部屋の隅に並ぶ参加者が発光を放ちはじめた。参加者は〈転移装置〉でしか移動できないが、運営はいつどこにいる参加者でも意のままに移動させることができるのだ。

「俺たちは気絶させなくていいのか」

 首をこきこき鳴らしながらレンが尋ねてくる。

 一時はレンが〈国政補佐官〉なのではないかと勘繰っていたが、どうやらツキクサの杞憂に終わったようだ。やや早計かもしれないが、ツキクサにはレンが敵であるとは思えない。

「問題ないよ。事情を説明すれば、べガルアスは話を汲んでくれる。あの人は寛容だからね」

「なのに謀反を起こすってこたぁ、裏で相当ヤベェことでもやってんのか?」

「そんなところだ」

 話を切り上げて、べガルアスに最終試練が終わった旨を伝えるために連絡を入れる。ポリシーなのか、彼は毎度試練が終わる度に直々に足を運んでツキクサを労ってくれる。例に漏れず、今回も足を運んでくれることだろう。

 ――その瞬間がはじまりだ。準備は既に整っている。

「ん、なぁふたりとも」

「おいリナ、今ツキは取り込み中だからどうでもいい話は後にしろ」

「勝手にどうでもいいって決めつけんなよ。わりかし重要な話だから聞いてんだよ」

 常に懐に通信機を忍ばせているはずなのだが、べガルアスが応答する気配はまるでない。

「最終試練に勝ち進んだヤツって、確か十七人いるんだよな」

「それがどうした」

「いやさ、今数えたらツキクサが倒したヤツが十三人しかいねぇんだよ」

 ようやくべガルアスが連絡に応じた。

「陛下、ご連絡申し上げます。ただいま――」

『汝はもう、ルスティカーナの〈特別国政補佐官〉ではあるまいよ』

「え?」

 腑抜けた声を漏らした直後、背後からカンっと金属質のなにかを弾き返す音がした。ほどなくして腰に違和感を覚えて視線を下ろせば、『万夏』の姿がない。

「――厄介な〈エボルブ〉です」

 暗がりからどこか聞き覚えのある女の声がした。女性と言うよりは少女に近しい声色。

 この展開は予想していなかった。連絡機をしまい、『水鳴』を正眼に構えてツキクサは叫ぶ。

「敵がいるッ! ふたりとも気を抜くなッ!」

「――あぁ、やっぱり仲間なんだ」

 その声は真後ろから聞こえた。より正確に言えば、背面やや右。両手で持つ『水鳴』を右手だけで握り締めた刹那、鞘の先端を右手で掴み、柄頭を後方に向けて勢いよく突き放つ。

 空を切っただけだった。

「――ならいろいろと利用できそうですね」

 その声は正面から聞こえた。

(どうなってる?)

 この一瞬で、背後から前方に移動したというのだろうか。しかし、ツキクサが確認した限り、高速移動を可能とする〈エボルブ〉を宿す参加者はいなかった。とすれば、試練とは無関係の第三者が奇襲を仕掛けているというのか。

(……いや、いたなひとり)

 彼女は万物を倍増する〈エボルブ〉を宿していた。

 その〈エボルブ〉が使われた場面を、ツキクサは目にしている。

『いちいち取りに行くの面倒じゃないですか』

 そう言って、彼女はプレートに盛られたスイーツを倍増していた。

 平和的な力の使い方だと思った。そしてあまりに軽率だと思った。

 だから警戒していなかった。身なりからしてそうだ。

 しかしそれは相手を油断させるための、韜晦にすぎなかったのだろう。

「『万夏』! 僕はいい! レンとカリナを頼んだ!」

「――〈特別国政補佐官〉なのに、まだそのような温情をお持ちなんですね」

 正面の暗がりから声が聞こえた。――が、これは意識を惹くための誘導なのだろう。本命は別にいる。意識を凝らす。……かすかに気配を感じた。

 身を翻し、ツキクサは横水平に剣を振り放った。

「わ、すご」

 かすかな驚愕を露わにするウェイトレス姿の少女は、ツキクサの渾身のカウンターをすんでのところで躱していた。僅かに擦り切れた服の布地が、ひらひらと地面に舞い落ちる。

「安心したよ。姿が見えないものだから、脱落したんじゃないかと心配してたんだ」

「優しいんですね、おにーさんは」

 にこりと相好を崩すと、少女は自身の衣装を荒々しく掴み引き裂いた。

「ですがその優しさは、果たして〈特別国政補佐官〉に必要とされるものなのでしょうか」

 かくしてウェイトレス衣装の下に隠されていた、糊の効いた亜麻色の制服が姿を見せる。右肩に縫われた刺繍が意味することは、〈輔弼連合〉に所属する人間しか知らない。

 ツキクサの制服に縫われた薔薇の刺繍が意味するのは、その人物が〈特別国政補佐官〉であるということ。そして少女の制服に縫われた桜の刺繍が意味するのは――

「〈国政補佐官〉モモエ。べガルアス陛下の命に従い、〈特別国政補佐官〉ツキクサの抹殺処分に着手します」

 その人物が〈国政補佐官〉であるということだ。

 ツキクサに短剣を突き立てて、モモエはこれまでの柔和な印象とはほど遠い、冷め切った瞳を向けてくる。機械めいたその瞳から、おおよそ意思と呼べるものは感じられない。

「まさか本当に〈国政補佐官〉が混じっていたとはな」

 空気を切り裂く音がかすかに聞こえる。……暗器の類だろうか。背後から頭部に迫りくる見えない凶器を鞘で弾き飛ばし、ツキクサは鞘をつけたままの剣をモモエに突き立てる。

「〈国政補佐官〉の君にその任務は、少々荷が重いんじゃないかな」

「どうでしょう。やってみないと結果はわかりませんよ」

 聞き終わるが早いか、ツキクサはモモエの首筋めがけて剣を薙ぎ払う。

「っと。危ない危ない」

 そう言うモモエには傷ひとつついていない。強いて言うなれば、剣に絡みついた風が彼女の前髪を少し揺らした程度か。

 モモエは僅かに後ずさり、ツキクサの攻撃を回避していた。回避できたということは、剣筋が見えているということ。

「さすがは〈国政補佐官〉と言ったところか」

 追撃しようと腰を下ろしたツキクサの元に、またも背後から暗器らしきものが投擲された。


 モモエは万物の倍増という〈エボルブ〉をこの上なく戦闘に適した形で出力している。

 ツキクサの太刀筋について来られるのは、自身の身体能力を倍増しているからだろう。小柄で俊敏なものだから、ツキクサの剣はなかなか彼女を捉えることができない。

 かといって防戦に徹し劣勢状態にあるわけでもなく、彼女は両手に持った短剣で、ツキクサに息つく間を与えず連撃を畳みかけてくる。

 短剣の先端から時折透明な液体が滴り落ちる様子を見るに、恐らくは毒薬の類が塗布されているのだろう。どれほどの効力を秘めているのかは定かでないし、そもそも毒薬と決まったわけでもないのだが、なんにせよ微かな被弾さえも許すわけにはいかない。

 ツキクサの剣とモモエの短剣が交錯する度に、星々が夜空を駆け抜けるように燐光が瞬く。

 そして時折、彗星の如く闇を突き抜ける光がツキクサに迫る。

「くッ!」

 その光が、ツキクサをなにより苦境に追い込んでいる障害であった。

 第三試練のように、会場が光に照らされていたのならば、苦戦することはなかっただろう。遠距離攻撃は死角から意表を突けるため有効なのであって、見えてしまえば、ほぼ例外なく直線の軌道を描いて迫るものだと相場が決まっているため脅威にならない。

 しかし、大部分が闇に包み込まれたこの場においては、遠距離攻撃がなによりの脅威となる。

 常に目の届く範囲に注意を払っているからなんとか防げているものの、少しでも気を抜けば、凶器はツキクサに致命傷を負わせることだろう。これまで放たれた暗器の軌道の先には、決まってツキクサの急所があった。正確無比な投擲から推察するに、投げ手にはしっかりとツキクサが見えているのだろう。〈エボルブ〉で視覚を強化している、といったところか。

「どうしたんですかおにーさん。〈エボルブ〉が封じられてしまえばこの程度なんですか?」

 遠距離攻撃で集中力を散らし、近距離戦でジリ貧に追い込んで決定打を見舞う。

 モモエの戦略はこんなところだろう。

「そういう君は、〈エボルブ〉でやりたい放題だな。身体能力を向上し、自身を複製して片方は近接戦に、もう片方は遠距離戦に徹する。短剣に塗布されてる毒薬の致死量も倍増されているのだろう」

 万物を倍増する。それは即ち、自身をコピーすることも可能にするのだ。

「当然じゃないですか。私は〈国政補佐官〉で、おにーさんは〈特別国政補佐官〉。同じ〈国政補佐官〉という括りにあれども、その差は歴然です。現に今も、地の利を得て、おにーさんの〈エボルブ〉を封じて、それでようやく拮抗しているわけですから」

 斬舞はやまない。ツキクサは被弾を防ぐので手一杯だ。

「私ほどおにーさんの天敵はいないと思うんです。おにーさんの『視認した相手の〈エボルブ〉を無効化し、かつ自身に付与する』という常軌を逸した〈エボルブ〉。しかしそれは、一対象にしか発動しないと、〈輔弼連合〉の資料で明らかになっています」

 それは極秘事項だ。それをモモエが知っているということは、この一件には〈輔弼連合〉も一枚噛んでいると見て間違いないだろう。モモエはべガルアスにツキクサの抹殺を依頼されたのか。あるいは〈輔弼連合〉に抹殺を依頼されたのか。無碍にはできない問題だ。

「分離している私に、おにーさんの〈エボルブ〉は通じません。しかし厄介なのは、おにーさんの第二の〈エボルブ〉である『万夏』でしたが、天が私に味方したのか、ちょうどいい人質がいました」

 レンとカリナのことを言っているのだろう。

 ふたりは『万夏』が守っているので、ツキクサが気に掛ける必要はない。『万夏』がいれば、今頃モモエとの戦いに決着がついているのだろうが、ないものねだりしても仕方ない。

「となれば、私の勝利は約束されたようなものです。……そろそろ疲れてきたんじゃないですか? 潔く諦めてくれれば痛いようにはしませんよ?」

「まさか。この程度で音を上げる人間が〈特別国政補佐官〉になれるわけがないだろう」

「しつこいなぁ」

 強気な姿勢を取ってはみたものの、実を言えばツキクサはかなり疲弊していた。なにしろ、既にツキクサは十三人の〈エボルバー〉と剣を交えているのだ。〈特別国政補佐官〉に最年少で任命されたツキクサと雖も人間。無敵でも不死身でもない。体力にも当然限界がある。

「……ふぅ。…………はぁ」

「実は片目もほとんど見えていないんでしょう。私、知ってますよ。おにーさんの〈エボルブ〉の代償は一時的な視力の低下。最終試練で、おにーさんはどれだけ力を使ったんですか?」

「……さぁ。覚えていないな」

 自覚できるほどに、剣筋が悪くなってきた。

 剣の重量を軽くするために鞘を外すか。

 ……いや、モモエを殺すわけにはいかない。外せない。

 ならば『万夏』をこちらに引き寄せるか。

 ……いや、レンとカリナを危険に晒すわけにはいかない。引き寄せられない。

『秘技』……は、鞘を外せないことと同様の理由で棄却する。

 一旦モモエとの近接戦闘から身を退いて、まずは遠方から投擲を仕掛けるモモエを……いや、そうしたところで結果は変わらない。今戦っているモモエが遠距離攻撃を仕掛け、今遠距離攻撃を仕掛けているモモエと近接戦を繰り広げることになるだけだ。

「そろそろ限界なんじゃないですか?」

 考えろ。

 なにか、モモエを殺さずして制圧する方法を――


 ――パンっと、乾いた音が轟いた。


「これまでみたく余裕で勝つのかと見守ってりゃあ、珍しく苦戦してるみてぇじゃねぇか」

 レンが銃を発砲した音のようだ。構えられた白光りする拳銃の銃口から、白い煙がモクモクと上がっている。

 と、これまで休みなく押し寄せていたモモエの攻撃の手が突如として止められる。

「っ、これはいったい……貴様一体なにをしたっ!?」

 モモエの激昂の矛先にいるレンは、にっと小馬鹿にするように口の端を釣り上げた。

「なぁに、ちょっくら嬢ちゃんを俺の『檻』の中に引きずり込んだだけだよ」

 続けて黒光りする拳銃を天井に構えて、ぱぱぱんっ、と連続で銃弾を撃つ。どんな意図があっての行動なのかと頭を悩ませたのは数瞬のこと。

「なっ……」

 天上に明かりが灯された。レンが撃ったのは、眩い光を放つ粘着質の発光弾のようだった。

 かくして、もうひとりのモモエの姿が白日の下に晒される。

「うわっ、同じヤツがふたりいやがる……」

 ぱちぱち瞳を瞬かせたカリナは、やおら戦斧を構えて、捕食寸前の肉食動物めいた猛悪たる目つきでモモエ(遠距離攻撃担当)に交戦の意を示す。

「ま、なんでもいいんだけどよ。てめぇのせいでツキクサの計画が台無しになっちゃあオレたち困んだよ。だからまぁ、殺しはしねぇが足止めさせてもらうぜッ!」

 言い終わるが早いか、カリナはモモエ(遠距離攻撃担当)めがけて猛進する。

「ツキ! こっちは俺たちにまかせろ! この剣……『万夏』だったか? も、自由に使っていいから、とっととそいつを倒せ! お前さんの野望はこんなトコで潰えるちゃっちいモンじゃねぇだろ!」

 カリナに追従するレンが、ツキクサに叱咤激励してくる。

「……まったく、ふたりとも無茶しやがって」

 モモエは単身でも充分に手強い。レンとカリナの〈エボルブ〉は把握しているし、些細な所作からふたりの戦闘技術もおおよそ目途がついている。

 ふたりで立ち向かって、ようやくモモエに拮抗するくらいだろう。

 無傷とはいかないかもしれない。命を落としてしまうかもしれない。

 けれど、レンは言った。俺たちにまかせろ、と。とっととそいつを倒せ、と。

「すぐに終わらせるから、少しだけ持ち堪えてくれよ」

 レンとカリナから視線を外し、意識を目の前にいるモモエに集中させる。すると、『万夏』がちょうど手元に戻ってきた。

「ふたりを守ってくれてありがとう」

『万夏』の鞘を撫でて、再びモモエに目を向ける。

「ちっ……」

 計画が破綻したのだろう。そう断言できてしまうほどに、歯軋りするモモエの顔からは苦衷が漏れ出ていた。

 未熟だなと思う。〈国政補佐官〉たるもの、如何なる場においても真なる感情を露呈させてはいけない。基礎中の基礎だ。

「まぁ僕が言えたことではないけどさ」

 そうつぶやくツキクサの顔には淡い笑みが浮かんでいた。

「悪いな。こうなったら僕は負けない」

 右手で『水鳴』を握り、半身に構えてやや腰を低くすると、隣に『万夏』が並んだ。

「いや、『僕たち』は負けないかな」


『万夏』が戦闘に加わった今、モモエを仕留めるのは難しくない。が、これまでのように気絶させてはいけないので、強打を見舞うわけにはいかない。

「くっ、んぐっ……な、なんですか、私を手玉に取って遊んでるんですかっ」

「まさか。そんな余裕はないよ」

 立て続く連戦で、腕はかすかに痺れていた。先刻モモエが指摘したように、右目はほとんど見えていない。呼気は荒く、全身からじんわりと汗が噴き出し、足裏は焼け付くように痛む。

 そんな不調はおくびにも出さず、ツキクサは剣戟を交えながら一瞬の隙を探る。

 モモエは、べガルアスの遣いなのか、〈輔弼連合〉の遣いなのか。真相をモモエの口から聞き出すために、昏倒させて決着をつけることはできない。モモエが意識を保ったまま、敗北を突きつける必要がある。

「賢明な君なら、状況が理解できているはずだ。僕がなにを望んでいるか、聞かなくてもわかるだろう」

 先とは一転し、今はモモエが防戦を強いられている。時折〈万夏〉が力ない反撃を急所に見舞うが、それがツキクサが本気を出せばいつでも息の根を止めることができるという意思表示であるということは、モモエも薄々感づいているだろう。

 理想は投降だ。そんなツキクサの希望を嘲笑うように、モモエは乾いた笑みを漏らす。

「諦めるくらいなら死んだ方がマシですよ。任務が私の生き甲斐です。〈国政補佐官〉である私にしか存在意義はありません。ただのモモエという少女に、生きる資格なんてありませんよ」

 生きるのに資格なんて必要ない。

 そう反論しそうになったが、口にしたところでモモエの神経を逆撫でするだけだろう。

「そうか」

 諦めるつもりはなく、説得できる見込みもない。

 となれば、頼れるものはひとつしかない。

「なら手加減する必要はないな」

 すぅと息を深く吸い込み、力強い横水平払いを繰り出す。

「あぐっ……!」

 剣先がモモエの左手の甲を捉える。手離された短剣が、からからと音を立てて床を滑走する。

 息つく間を与えず、逆方向からもう一撃畳みかける。が、さすがは〈国政補佐官〉と言ったところか、歯を食いしばって後方に飛び退き、モモエは死地を脱する。

「はぁはぁ……手を抜いていたんですか、ずっと」

「君くらいの年頃の女の子と対峙すると、いつも妹を思い出して手を緩めてしまうんだ」

 モモエの左手はぷるぷると痙攣を繰り返している。だらんと垂れ下がった手首を見るに、左手は潰したと見ていいだろう。

「舐めた真似をッ!」

 苛立たしく言って右脚を振り上げると、パンプスの先端から長く細い針が射出された。

 やはり甘い。平静を繕って虚を突いた暗撃なら未だしも、感情任せに放たれた秘蔵の一撃では恐れるに足らない。冷静さを欠かなければ、容易に迎撃できる。そしてツキクサには、それを可能とする経験に裏打ちされた智慧と磨き抜かれた洞察力があった。

(回避する必要もないな)

 あるいは、ツキクサが回避することを見越してのものなのか。

 いずれにせよ、迎撃の必要はない。

 次の目的部位めがけて剣を振り下ろす。

「うっ!」

 狙い通り、檜皮色の鞘はモモエの右手に握られた短剣を捉えた。短剣が遠くに飛んでいく。

「はぁはぁ……」

 かくして武器を失い無防備になったモモエだが、その瞳から未だに交戦の灯火は消えない。左手を潰した時点で音を上げると思っていたのだが、大したものだ。この諦めの悪さは、元来彼女に備わっているものなのだろう。使命感でここまで耐え忍ぶことができるとは思えない。

「どう……したんですか。とどめ、刺さないんですか」

 息も絶え絶えながら、挑発的に口の端を釣り上げた。

「……」

 右手をスカートの内側に伸ばすと、先とは異なる形状の短剣が姿を見せた。

 果たしてどれだけの暗器が備えられているのだろうか。

 武器を破壊してもキリがなさそうだ。気は進まないが、第二案に移行することにする。

「私はまだまだ戦えますよ。勝利を確信するにはまだ早いんじゃないですか?」

「いいや、僕の勝ちだ」

 第一案――モモエの武器を削ぎ落とし、屈服せざるを得ない状況を強いる――は、端から希望的観測に近しいものだと見立てていた。

 故にはじめから第二案が計画されており、そして準備は既に整っている。

「〈万夏〉、拘束しろ」

 ツキクサが言った直後、モモエの四肢に黒い触手が絡みついた。

「なっ!?」

 モモエの背後には鉄黒の細長い棒がそびえ立っており、触手の出所はその棒であった。触手に引き寄せられて、モモエの背中は棒に隙間なく密着する。はじめジェルのようなてかてかとした淡い光沢を纏っていた触手は、徐々に金属質の物体特有の重層感溢れる輝きを宿していき、やがて支柱となっている棒と同様に鉄黒色となって硬直する。

「う……動け、ない……」

 かくしてモモエの捕縛に成功した。

(ふたりは……)

 首を巡らせようとした直後、「うわッ! 消えたッ!」とカリナの甲高い声がした。

 振り返ればそこにもうひとりのモモエの姿はなく、傷ひとつないレンとカリナの姿があった。

「よかった無事で」

 とりあえず一段落ついたようだ。


「これもおにーさんの〈エボルブ〉ですか」

 四肢が拘束されてなお、モモエの瞳から勇猛な光が消失することはなかった。

「いいや。これは『万夏』に備わっている〈エボルブ〉だよ。『万夏』は自在に形状を変化することができるんだ」

 安直だが、万の形に変化できるから『万夏』と名付けたのだ。

「そんな情報は〈輔弼連合〉にありませんでした。視認した相手の〈エボルブ〉を無効化し、かつその〈エボルブ〉を自身に付与する力に加えて、本人の意思とは別に独立した行動を取る剣を常備携帯している。卓越した〈エボルブ〉の複数所持、並びに先天的に備わった潜在能力の高さを評価し史上最年少の〈特別国政補佐官〉に任命した。それが〈輔弼連合〉の保有するおにーさんの情報のすべてです」

「そりゃ負けねぇわけだわ……」「ん~よくわかんねぇけど、とりあえずツキクサがすげぇってことはわかったよ」

 レンは微苦笑し、カリナは「さすがオレの友だち!」と上機嫌にしていた。

「しかし、この現象は情報になかったものです。おにーさんは、まだ〈エボルブ〉を隠し持っているんですか」

「買い被りすぎだ。そもそも僕は〈アボルバー〉じゃない」

「なに言ってるんですか。現におにーさんは複数〈エボルブ〉を宿して――」

「君は〈国政補佐官〉に向いていない」

 モモエの反駁を遮って言った。自分の情報などどうでもいい。

「まず感情的になりすぎだ。〈国政補佐官〉には、いつでも冷徹に物事を見据えて、冷酷に処理する機械的な姿勢が求められる。君は一喜一憂がすぐ顔に出る。それが君に〈国政補佐官〉が向いていない理由のひとつ目」

「な、なんですか、いきなり……。先輩風吹かして説教ですか」

「次に暗殺の手際だが、あまりにやり方が迂遠すぎる。第一試練終了後に僕に接近しただろう。なぜあの時に奇襲を仕掛けなかったんだ。僕の〈エボルブ〉を理解しているのなら、不意打ちがもっとも有効であるという結論に至るのが当然の成り行きだろう?」

「……仕掛けましたよ、奇襲。カヌレに毒を盛りましたよ。でも、おにーさんが食べてくれなかったから……」

「それが甘いと言っているんだ」

「……カヌレだけに?」

「話を逸らそうとするな。君はそれでも〈国政補佐官〉なのか。そんな態度では――」

「そ、そこまで言わなくてもいいじゃないですかぁ~!」

 と、えんえんモモエが泣きわめきはじめてようやく正気を取り戻した。

「ひどいよぉ~! 私だって、一生懸命やってきたのにぃ~!」

「……」

「おにーさんより一歳年下なのにぃ~! いじわるだよぉ~!」

「……」

〈特別国政補佐官〉になるまでに、過酷な日々を過ごした。

 無数の同期が命を落とした。何度も吐瀉物をぶちまけた。感情が徐々に息をしなくなっていった。自分が自分でなくなっていく実感があった。やがて〈特別国政補佐官〉ツキクサとして過ごす日々があたりまえになった。自分を「俺」ではなく「僕」と呼ぶようになった。会話に感情ではなく理屈を求めるようになった。

 今の自分は、間違いなく〈特別国政補佐官〉ツキクサだった。

 年下の女の子を泣かせてしまった。なにより伝えたいことはこの先にあって、その準備段階として切り出した話題だったのに、いつの間にか熱が入ってしまっていた。

 今更ながらに、強い罪悪感が腹の底から湧き上がってくる。

「うわ~女の子泣かせてやんの~。そういえば昨日もリナ泣いてたけど、さては今みたく言葉でボコボコに殴ったん? 君は無知がすぎる、とかなんとか言って」

「少し黙ってくれないか?」

 さて、どう慰めたものか。眉間を揉んで、思考をフル回転させる。

 モモエはギャン泣きしている。カリナが無言で向ける白い目が、ツキクサに精神的ダメージをじわじわと与えてくるのだが、全面的にツキクサに非があるので言い訳のしようがない。

「ほらほら~、早く手施さねぇとまた暗殺人形に戻っちまうぜ?」

「うるせぇな。言われなくてもわかってるっての」

「へ? 今、喋ったのリナじゃなくてツキだよな?」

 これまで淡交に甘んじてきたために、ツキクサは自分の不注意で相手を傷つけてしまったときの対処法を心得ていなかった。いや、感極まった相手の慰め方は学んでいるし、いくつか案も浮かんでいる。が、所詮は智慧に過ぎない。実行に移す応用力までは備わっていなかった。

「えーん! もうおしまいだよぉ~! 私、〈国政補佐官〉失格だよぉ~!」

「……いいんじゃないかなそれでも」

 こうなった以上、選択肢はひとつしかない。

「なにも〈国政補佐官〉にだけ生きる資格が与えられるわけじゃない」

「え?」

 真摯に想いを伝える。

 膝を折って視線を合わせて、まっすぐに瞳を見つめて、自身の想いの丈を打ち明ける。

 ツキクサはいつでも感情を乱さないために備えている。もっともここ数日は素の自分が稀に顔を出しているのだがそれはともかく。

 今、ツキクサは意識的に感情にすべてを委ねていた。

 どの口がモモエに説教していたんだと思う。自分も〈特別国政補佐官〉失格だ。

「生き方は無限にある。いつか言っていたね。スナック菓子を普及させたいって。あれはモモエの本音だろう?」

 あの時の瞳の輝きが偽物だとは、ツキクサには思えなかった。

「そ、それは……」

 恥ずかしさに耐えかねたように目を逸らし、モモエは沈黙することを選んだ。

 感情に正直な子で助かった。表情と仕草が、ありのままの心の内側を教えてくれる。

「あの時も言ったように、僕は素敵な夢だと思うよ」

 ぴくっと華奢な肩が跳ね上がった。

「……でも」

 俯いたまま、ぽつりとつぶやく。

「私以外の家族はみんな〈祝福の日〉に亡くなったのに、私だけが幸せを掴もうとするのはどうなんでしょう。天国にいる家族は、そんな私をよく思うんでしょうか?」

〈国政補佐官〉には選ばれた人しかなれない。誰もが敬うわかりやすい優秀のレッテルだ。

〈国政補佐官〉という肩書きは、モモエにとって自身の存在を肯定するために、必要不可欠なものなのだろう。家族に誇れる自分でなくてはならない。そうでない自分に価値はない。そんな強迫観念が、本来の彼女を束縛しているように思えた。

「ならモモエの家族は、君が感情を押し殺して〈国政補佐官〉としての責務を全うすることを望んでいるのかな?」

「そ、そんなことは……」

「〈輔弼連合〉は、モモエに生き方を教えたのではなく押しつけたんだ。君は〈国政補佐官〉であることを誇りに思い、生き甲斐を感じ、そこに自分の価値を見出した。家族を失ったことで生まれた虚無を、〈国政補佐官〉であるという華々しい名誉で埋め尽くした。違うかい?」

「……どう、でしょう」

 外された視線が一向に重ならないのは、モモエの心の迷いの現れだろう。

 忠誠心を抱き続けた〈輔弼連合〉。モモエの価値観の根底にあるもの。それに対してはじめて負の印象を抱き、モモエは困惑しているのだと思う。そうでなければ、ツキクサが〈輔弼連合〉を悪いように言った際に否定していたはずだ。

 モモエのような経緯で〈国政補佐官〉なった者は多く、かくいうツキクサもモモエと同じケースに該当する。

 大切なものを失って心にぽっかり穴の空いた人間は、その虚無を別のなにかで満たそうと試みる。正しいか間違っているかは関係なく、とにかくなにかで空白を満たそうと躍起になる。

 そのような人間は、得てして判断力が低下しているものだ。彼らはどんな言葉も聞き入れる。常識を逸脱し、良心という枷からも解き放たれているために、平然と犯罪行為にだって及ぶ。虚無を埋めようと足掻く人間ほど狂気に満ちた生物はいない。ツキクサはそう思っている。

 ある程度間違えた道を歩いたところで大人は正気を取り戻すが、人生経験の浅い子どもはそうはいかない。経験がそのまま人格形成の基盤となる。それが正しいか、間違っているかは問わずに……。

 つまるところ、放浪状態にある子どもは洗脳しやすく、英才教育を施すのにうってつけの人材だと言える。

〈輔弼連合〉に所属する半数以上がツキクサと同世代、あるいは年下である裏側には、そんな思惑があった。〈輔弼連合〉は身寄りのない子どもに〈国政補佐官〉の素晴らしさを説き、〈国政補佐官〉になること以外の選択肢を奪い、自分たちの言いなりとなる駒を日々増やしている。

 しかし、一概に〈輔弼連合〉が間違っているとも言えない。モモエのように、〈国政補佐官〉という生き甲斐を得なければ自分を見失ってしまう人もいただろうし、〈輔弼連合〉は正真正銘、世界平和のために活動している。少なくともツキクサは十年間、〈輔弼連合〉の掲げる正義を疑ったことはない。彼らは常に、利他的な行動を取っていた。

「もう一度問う。モモエの家族は、モモエが感情を押し殺して誇らしい振る舞いをすることを望むような人たちだったのか?」

「……」

「僕は、笑顔でぱくぱくお菓子を頬張るモモエが好きだよ」

 ぴくっと、肩が跳ね上がった。

「見てるこっちも幸せな気分になれる笑顔だった。君には周囲の人間を幸せにする特別な力があるんだよ。それは些細なことで、〈国政補佐官〉に与えられる栄誉とは比べものにならないほど陳腐なもので。けどね、そういったものが優しさに満ちた社会を創り出しているんだ。僕にはモモエのように幸せを振りまくことはできない。これは君にしかできないことなんだよ」

「私にしか、できないこと……」

 おずおずと視線が持ち上がり、つぶらな瞳にようやくツキクサが映し出された。

「いいんですか? そんな小さなことで満足してしまって」

「小さいだなんてとんでもない。誰かを笑顔にするのは難しいことだよ」

 それも一種の才能と呼べるはずだ。

「そこでスナック菓子の出番だ。〈国政補佐官〉に従事してだいぶ稼いだだろう? まずは、スナック菓子をひとつ復活させよう。恐らくモモエと同じようにスナック菓子を恋しく思っている人は大勢いるだろうから??」

「す、すすすストップですっ、ストップですっ!」

 すごい勢いで待ったをかけられた。

「だ、黙って聞いていればツキクサさん、私のこと、食いしん坊キャラだと思ってませんか?」

 おにーさん呼びからツキクサさん呼びに変化したのは、気を許してくれたからか。そうだといいなと、ツキクサは頬をほころばせた。

「あれだけスイーツを暴食しながら食いしん坊じゃないというのは少々無理がないかな?」

 まるで幼い頃のキノカを見ているかのようだった。キノカも美味しそうに食べる子だった。

「だ、だって美味しかったんだもんっ!」

 声を荒らげて弁明するモモエの顔は、いちごみたいに真っ赤だ。

「そうか」

「そんなクールな反応求めてないですよ! あとその優しい目やめてください! ほんと、は、恥ずかしくて……」

「やっぱりモモエは人を笑顔にする才能があるよ」

「私の声、聞こえてますか?」

 モモエが不満げに頬をぷくっと膨らませると、『万夏』が拘束を解いて元の剣の状態に戻った。

「あっ」

 四肢の自由を取り戻したモモエが、両手を握ったり開いたり、足首を回したりして、異常がないか確認する。どこも正常だった。ツキクサの鞘にはたかれて一時は動かなくなった左手も、時間という治療を経て回復したようだ。

「いいんですか。私、ツキクサさんの味方になったとは一言も言ってませんよ」

 やや反発的な態度とは裏腹に、感情の色濃く滲んだ声色から刺々しさは感じられない。

「いいや、モモエはもう仲間だよ。ふたりもそう思うだろう?」

 背後に座り、長らくやり取りを傾聴していたふたりに問いかける。

「ツキはアレだな、無自覚に女落とす一番質の悪いタイプの男だな」

「よぉピンク髪。てめぇは新参者だから、オレの指図は絶対だかんな」

 冷めた目でツキクサを見つめるレンと、ギラついた瞳をモモエに向けるカリナ。

「歓迎ムードをまるで感じないんですが……」

「まぁ遺恨はないようだし、親交を深めるのはおいおいってことで」

 双方が毛嫌いしていないだけよしとしよう。

 モモエの懐柔を終えたところで、ツキクサはようやく聞きたかった話題を切り出す。

「ところでモモエ、君は――」


「実に感動的ではないか」


 重たく腹の底に響くようなその声色は、ツキクサのよく知るものだった。

 声と拍手の先に目を向ければ、光の柱が立ち昇っている。〈転移装置〉の光だ。

「迷える少女を諭し、新たな道を照らし、尚も立ち止まる少女の背を押す」

 神々しい光の濁流に呑まれる人影の正体など確認せずともわかる。

「汝は先導者としても秀逸なる才を持っているようだな。半ば洗脳状態にある〈国政補佐官〉を正気に戻すことなど、並大抵の人間にはできぬ所業よ」

 やがて姿を見せた宿敵――ルスティカーナ王国国王べガルアスは、ツキクサを睥睨して酷薄な笑みを浮かべた。

「任務ご苦労。ツキクサ〈特別国政補佐官〉」

 恭順に返事をする必要はない。なぜならもう、ツキクサはべガルアスに献身する〈特別国政補佐官〉ではないのだから。

 べガルアスが武器を携えているということは、リバルは役目を果たしてくれたのだろう。ツキクサが反逆を企てている。その旨を伝えるよう、あらかじめリバルに指示を出していた。

 これからべガルアスと交戦するのは、ほかの誰でもない、ツキクサというひとりの人間だ。

「待ってろキノカ。今、助けるからな」

 ツキクサは口元に剛猛な笑みを携えた。

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