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EVORVER  作者: 風戸輝斗
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第一章

 ルスティカーナでは、月に一度〈エデンの塔〉と呼ばれる祭儀が催される。

 国の西部に鎮座する、国内のどの建造物よりも空に近い場所にある円柱状の白い巨塔。その頂上にたどり着いた者は、〈祝祭〉を享受し如何なる願いも叶えられる。

 以上が〈エデンの塔〉の概要だ。

 三年前に創設されてから現在に至るまでに、踏破した者はいない。

 直近の二回はツキクサが妨害しているが、それ以前はどのようにして攻略を妨げていたのだろうか。ほかの〈国政補佐官〉が、今の自分のように妨害公策を働いていたのだろうか。

〈輔弼連合〉もべガルアスも自発的に打ち明けてはくれなかった。それだけで充分だった。なにかしら不都合があるのだろう。そう注意を巡らせれば、大々的な行動を取る必要はなかった。

 参加条件は〈エボルボー〉であること。

 それ以外に必要とされる条件はなく、上記一点の必須条件さえ満たしたのならば、ルスティカーナに在住していない人でも、〈エデンの塔〉に参加することができる。

 ルスティカーナは大陸南部に位置しており、一年を通じて温暖な気候、発達した交通網など様々な好条件が手伝い、比較的足の運びやすい国となっている。近年では科学技術の進歩が目覚ましく、隣国からは〝科学の温床地〟などと呼ばれていたりもする。

「こちらの白紙は第一試練の際に必要となりますので、開始までなくさないよう注意してください。万一紛失した場合は、お早めに我々一同にお声がけください」

「ありがとうございます」

 特別小さくも特別大きくもない到って凡庸なサイズの白紙を、タイトなスーツを着こなした運営の女性から受け取る。

 はて、この白紙をなにに使うのか。

 祭儀の総括者はべガルアスであるが、ツキクサは試練が四つあること以外の概要は知らされていない。曰く、祭儀を参加者のひとりとして楽しんでもらいたいとのこと。そんな計らいよりも、任務を楽に遂行するための事前情報が欲しかったというのが本音だ。

 白紙を丸めてポケットに突っ込み、ざっと周囲を見渡す。

(相変わらずの盛況だな)

 参加者は軽く見積もっても千人以上いる。二千人に達しているかもしれない。

 塔の前にある広場に群がる参加者は、繁華なストリートに溶け込めそうな和やかな面持ちで、会話の応酬を繰り広げている。どこからきたんですか。どんな願いを叶えたいんですか。ツキクサの元に運ばれてくる会話のほとんどがそのようなもの。

 穏やかな空気が辺り一帯に揺蕩っていた。

(そんな風に笑う余裕があるのなら、ささやかな幸せに甘んじればいいものを)

 大多数の参加者は気づいていないのだろう。

〈エデンの塔〉攻略失敗が、人生の終焉、あるいは自由の喪失と同義であるということに。

〈エデンの塔〉にいる間は、とある運営の〈エボルブ〉で世界に存在した痕跡を尽く消去される。故に〈エデン塔〉の真実は世に漏洩されない。誰一人として、攻略者はいないのだから。

「まもなく入場を開始します。参加者のみなさんは塔の前に集まってください」

 アナウンスが入るなり、参加者はぞろぞろと塔に足を運びはじめる。

 大多数が武具を身に纏っていない中で、ちらほらと武器なり防具なりを身に着けた人間が見受けられる。ツキクサの感覚では、十人にひとりいるかいないかといったところか。

 武具が必要だと見込んだ時点で、その参加者は優秀だ。元よりこの試練の攻略者はひとりだと明言されている。つまり、対立なくして〈祝祭〉の権利を勝ち取れるはずがないのだ。当然、命の奪い合いになる。会話で穏便に事が済むなんていうのは綺麗ごとでしかない。限りある幸福を前にすれば、誰しもが獣と化す。幸福に隷属する。人間である以上、それは当然のことだ。

 前方からざわめきが運ばれてくる。恐らく〈転移装置〉で人が消滅したことに対する驚きだろう。毎度恒例、いつものお約束だ。

 外周に沿って歩けば気づくのだが、この塔にはおおよそ入り口と呼べる場所が存在しない。ボタンが隠されており、それを押せば隠し扉が開かれる、という仕組みがあるわけでもない。

 言わばこの塔は牢獄だ。

 入ったら最後、外に出るためには、塔の頂上にある〈転移装置〉を利用するしかない。

 人波が前に前に流れていき、やがてツキクサの瞳にも〈転移装置〉が見えてくる。

 直径二十メートルほどの光の柱を伸ばす真円は、足を踏み入れた参加者を数瞬の間に塔の中に――引き返せない地獄に、誘っていく。あっという間にツキクサにお鉢が回ってきた。

「今回で最後だ。もう少しだけがんばろう」

 癖で腰に携えた剣の柄をそっと撫でて、ツキクサは立ち昇る光に身を投じた。


 ◇


 目を開くと、まず困惑する参加者の姿が目に映った。見渡せど見渡せど、視界に収まるのは参加者の姿ばかり。視線を少し上に向ける。見渡せど見渡せど、視界に収まるのは塔の外周を象ったような白い壁ばかり……と、一部分だけ軌跡が断絶している部分があった。金網のかかった縦長の矩形。その奥の暗がりに、おぼろげながら階段が確認できる。上の階に続く階段だ。

(ここが会場か)

 極端に広く、しかしなにもない空間だった。

 ポケットに丸めて入れていた白紙の紙を引っ張り出す。両面白紙。第一試練で必要になると言っていたが、はて、どのように活用するのか。まるで使用用途がわからない。これまでの経験上、抜き打ちでペーパーテストを実施するなんてことはありえないだろう。ツキクサとしては、そうなってくれた方がありがたいが……と、喧騒をかき消す殊更に大きな声が響き渡った。

「本日は〈エデンの塔〉に参加していただきありがとうございます」

 運営からのアナウンスだった。

「皆様にはこれから、事前に告知した通り試練に挑戦していただきます。尚、開始前に一分ほど〈転移装置〉を用意いたしますので、気が変わって辞退したくなった、という方はそちらからご退場ください」

 デスゲームかよ、と、参加者の誰かが冗談めかしてぼやいた。

 その通りだ。〈エデンの塔〉は攻略不可のデスゲーム。辞退すればあたかも生還できるような言い回しをしているが、残念ながらそうはならない。頂上にある〈転移装置〉以外が転送する先は、決まって〈地下〉だ。落ちたら最後、今後陽の光を浴びることは叶わない。

「それでは、第一試練の内容を発表します」

 ごくりと生唾を飲み込む。体裁だけでも穏やかな内容を期待したい。

「第一試練は――受付の際に渡した白紙を三十分間、自分のものにしたまま終えることです」

 発表された直後、ツキクサは密やかな願いが潰えたことを悟った。

「先ほど渡した白紙を制限時間終了まで自衛した方を、第一試練の合格者とします」


 言わずもがな、第一試練の脱落者がもっとも多い。九割以上の参加者がここで脱落するよう、恐らく難易度は調整されている。少なくともツキクサが参加した前二回の〈エデンの塔〉では、大多数が第一試練で脱落――命を落とした。命を落とさずとも全員通過できる内容だったのに。

 今回も同じだ。

 白紙を持ったまま試練を終える。

 こう言い換えればわかりやすいが、この試練はそもそも参加者選別の役割を果たしていない。

 なにもする必要がないのだ。白紙を集めろとは言っていない。自衛しろとだけ言っている。

 単に言葉の綾で争いを煽っているだけであり、それは冷静に考えれば誰でも気づけることだ。

 参加者の多くがそのことに気づいていた。誰も巧妙な罠だとは疑わなかった。

〈転移装置〉が起動してからも、誰も辞退しようとはしなかった。第一試練がこの調子なら、残された三つの試練も恐れるに足らないと踏んだようだった。

〈転移装置〉が起動停止し、上空に3Dホログラムが浮かび上がった。ゆらりゆらりと、三百六十度踊るのはプルシアンブルーの四桁の数字。「30:00」。それはすぐに「29:59」となり、参加者一同は、ほどなくして試練がはじまったことを理解した。

「これが終わったら、次はなにすんのかな」「ぬるいもんだな、こんなのが試練だなんて」「おなか空いたぁ~、お昼ご飯しっかり食べてくるんだったなぁ~」「ふぁ~早く終わんねぇかな」

 緊迫した空気が沈殿したのは一瞬のこと。すぐに弛緩し、先ほどまでと変わらない穏健たる空気が場に広がっていく。

 わいわいがやがや、世間話が飛び交う。談笑が飛び交う。笑顔が飛び交う。

「きゃあッ!」

 ――一筋の悲鳴が、幸福の音色をかき消した。

「やはりこうなるか」

 集団から離れてひとり壁に背を預け、その瞬間に備えつつも杞憂で終わることを望んでいたツキクサは、ため息をついて壁から背を離した。

 束の間の平穏だった。遥か頭上できらめく数字に目を凝らせば、「28:47」を示している。安寧は一分と十秒ほどで淡く崩れ去り、代わりに絶望を引き連れてきた。

 平和はいつだって脆く、儚く、突拍子もなく崩壊する。ツキクサの人生を大きく揺らがせた、あの忌まわしき光の粒が降り注いだ日のように。

「聞け凡愚どもッ!」

 静寂の中、その重く濁った声はよく響いた。

 参加者の視線が、吸い寄せられるように声の先に向かう。顎髭を蓄えた男がいた。手には血に塗れたナイフが握られていた。ツキクサの位置からは、はっきりと凶器が確認できた。

「殺せば殺した分だけ、後々の競争相手が減るッ!」

 男は短いナイフを上空に突き出した。切っ先から滴り落ちた鮮血が、純白の床に赤いシミを作った。雪の絨毯に、鮮やかな真紅の花が咲いたかのようだった。

「お前ら願いを叶えにきたんだろッ!? だったら仲良しこよししてる場合じゃねぇだろッ!」

 言って、眼下で四つん這いになり喘鳴する無抵抗の女性の背中にナイフを突き刺す。深々と突き刺す。女性の顎がかくんと上がり、絶命寸前の眼が偶然にもツキクサを捉えた。それは絶望から悲しみに、悲しみから涙に、そして徐々に光を失っていき――事切れた。

 森閑とする会場に、人間の頭部が無抵抗に床に叩きつけられるけたたましい音が反響した。刹那の沈黙を挟んだのち、誰かの嗚咽を皮切りに、夥しい絶叫と悲鳴が部屋にこだました。

「間違ったこたぁ言ってねぇだろ?〈祝祭〉を享けられるのはこの中のひとり。となれば、遅かれ早かれ殺し合うのが必定だ。甘いヤツは死ぬ。シンプルでわかりやすいじゃあねぇか!」

 男が狂喜めいた表情で口にしたことは、しかしなにも間違っていない。理路整然としている。だから質が悪い。それは混乱する参加者を煽り、扇動するのに充分な力を持っている。

 二人目の犠牲者が悲痛な叫びを上げた。続く同情の慟哭はなく、代わりに声にならない叫び声がどこかから上がった。追従するように絶叫が上がった。

 まるでドミノ倒しでもするように、不幸の音色は連鎖する。白い床に赤が目立ちはじめる。

 そこに数分前までの和やかな空気の面影はなく、今あるのは殺戮と狂気と絶望だけだった。

「少しだけ期待していたんだけどな」

 ツキクサはつぶやいた。眼前の凄惨な光景は予測の範疇であったため、焦りはほとんど生じなかった。が、失意の念は沸々と湧き上がっていた。すぐに押し殺した。邪魔な感情だから。

「こうなった以上は、暴力に頼らざるを得ない」

 腰に携えた二本の剣のうち、一本の剣を抜いて構える。〈輔弼連合〉の名工がツキクサの身体能力や〈エボルブ〉を吟味した上で叩き上げた剣――『水鳴みずなり』。縹色の刀身が特徴的なのだが、その輝きは今、檜皮色の鞘に覆われて少しも垣間見ることができない。

 これでいい。刀身が参加者に露見することなく試練を終えるのが理想だ。

 なぜなら露見することは、誰かの命を奪わなくてはならない状況を意味するから。

 誰ひとり欠けることなく、第一試練を終えること。

 そんな夢物語が実現することを、心のどこかで期待していた。二度裏切られているのに、懲りることなく期待してしまっていた。

 迷いを払い、雑念を振り切るように、ツキクサは柄を握り締める拳に力を込める。

「一仕事するか」


 二千人近い参加者がいる中で被害を最低限に抑えるためにはなにをすべきか。

 思考を巡らすまでもない。とりわけ目立つ人物を手当たり次第に蹂躙していけばいい。

「な、なんなんだよお前はッ!」

 慄然とした面持ちで、額に唐草バンダナを巻いた男が身の丈ほどある槍を突き出してくる。

 洗練された所作だ。実際に目にしたことはないが、とある地方では魔物めいた異形が蔓延っていると聞く。

「くそッ! なんで当たらねぇんだよッ!」

 独学で磨かれたとは到底思えない槍術や、鈍色の目立つブレストプレートを見るに、男はそちらの方面で活躍していると見るのが妥当だろう。

「俺のッ! 槍はッ! 百発百中なんだよォォォ!」

 順当にいけば、最終試練まで到達する可能性が充分にある腕前だった。

「なのにどうしてッ! 掠めることもままなんねぇんだよッ!」

 しかし、不幸にも男は見つかってしまった。ツキクサの目についてしまった。

 ツキクサと対峙した時点で、男は敗北を喫していた。というのも、ツキクサは対峙した相手に負けたことがなかった。

「悪いが、少し眠ってもらうよ」

 刺突をいなし、男の動きを観察することしばし。小刻みに素早く槍の穂先を動かし、力強く槍を突き出して一区切り。その際に、呼吸を整えるための隙が生まれていることに気づいた。

「舐めるなッ! 眠るのはお前だァ!」

 ツキクサの言動が癇に障ったのか、その瞬間は予想よりも早く訪れた。

 胸部めがけて力強く突き出された一撃を躱し、間髪入れずに床を蹴り上げ男の懐に潜り込む。

「なッ!?」

 瞠目する男の側頭部に、弧を描くように鞘のついたままの剣で一閃。

 パンッ! と、おおよそ剣戟が見舞われたとは思えない乾いた音が轟いた。

「かッ……」

 目を剥いた男を担ぎ、ツキクサは乱闘する集団から幾分か離れた場所にそっと横たえる。ぱっと見、死人だ。誰も彼が気絶しているだけとは思わないだろう。胸鎧の隙間から白色が頭を出しているが、見るだけに留めて上空を見やる。「15:21」。

「折り返し地点か」

 言って、ツキクサは視線を巡らし、次のターゲットに照準を絞る。

 現時点で彼の脱落させた参加者の総数は、既に五十に達しようとしていた。

 いずれも、戦闘に長けているであろう〈エボルバー〉だった。


 雷を纏う鉄槌を振るう巨漢が遠目に見えた。一糸まとわぬ猛々しい上半身には数多の古疵が浮かび上がり、右眼は眼帯で塞がれている。

 男は愉悦の表情で殺戮に及び、絶命寸前の悲鳴を聞いては笑顔の皺を深く刻んでいる。

「悲しいものだな」

 無表情のままつぶやき、ツキクサは彼を次のターゲットに定めた。

 人間誰しも支配欲を宿している。〈エボルブ〉を持つか持たないかで簡単に上下関係が成立してしまう今の社会において、人間のその特性はより顕著なものとなった。強者は驕り、弱者は怯える。そんな社会構造が、いつからかこの世界において当然のものとなっている。

 鮮血を滴らせる鉄槌を担ぎ、男は呆れたように言った。

「なぁ嬢ちゃん、アンタも〈エボルバー〉なんだろ。だったら祈ってないで闘ったらどうだ。いくら祈ったところで、神様が助けにきてくれるなんて奇蹟は起きねぇよ」

 男の眼下では、小柄な少女が膝を折り、両指を絡めて祈るようにつぶやいていた。

「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」

 祈るというより、呪詛に近しい願望の羅列だった。

 少女は変わらず、一切の抵抗の意思を示すことなく、救済を願いつづける。男は、げんなりと間延びしたため息をついた。

「生に縋る弱者を嬲るのは趣味じゃねぇんだがな」

 言って、鉄槌を頭上に大きく振りかぶる。

 男は嗤っていた。愉しげな笑みだった。嗜虐のみで構築された笑みだった。

「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」

 変わらず少女は祈りつづける。不意に、声が止まった。

「……誰か、たすけて」

 悲哀と諦観が色濃く滲んだ願いが、少女の口から零れ出た。

 男は哄笑した。

「はははッ! いいねぇ~! さいっこうにそそるよ嬢ちゃん! 安心しなよ。すぐに俺が神様の元に送ってやるからさァ!」

 男が少女めがけて鉄槌を勢いよく振り下ろした直後、バチバチと電気が空気中で弾ける音が響いた。鉄槌を振り下ろすだけでも充分に命を奪えるだろうに、男は〈エボルブ〉を用いてより凄惨な虐殺に及ぼうとしていた。よくよく見れば、落下地点も頭頂部からやや外れた場所だ。端からひと息に息の根を止めるつもりはないのだろう。

 鉄槌よりも早く、虚空を切り裂く雷撃が少女に迫る。

 ――が、それは蝋燭の火が消えるように突如として消失した。

「なッ……!?」

 続けて部屋一帯を覆い尽くすほどの轟音が響き渡る。ガンっと、鉄槌がなにかと衝突した音。

「弱者を嬲るのは趣味じゃない、か」

 鉄槌は空中で動きを止めていた。――檜皮色の鞘が進行を妨げていた。

「お、お前、いったいどこから湧きやがったッ!?」

「なぁ嬢ちゃんのあたりから、ずっと後ろで話を聞かせてもらっていたよ」

 淡々と言って、ツキクサは静かな炎を湛えた琥珀の瞳を向ける。

「嬉々として殺戮に及びながら、よくもまぁ抜け抜けと偽善者ぶったことを言えたものだな」

 男はぶるりと、まるで水を払う子犬のように巨体を小刻みに震わせた。

 本能的に危険を察知したのだろう。男は激情に身を委ね、力任せに鉄槌をツキクサに叩きつけんとする。が、

「は?」

 鉄槌の向かう先にツキクサの姿はなかった。つい数秒前までそこにいたというのに……。

 鉄槌が地面を揺らすと同時に、男は白目を剥いて力なく倒れた。

「偽善の皮を被った悪は、純粋悪より質が悪い。お前は今一度、自分の在り方を問うべきだ」

 かくしてツキクサが姿を見せる。

 鉄槌と自身の姿が重なった刹那、ツキクサは男の死角に潜り、男の困惑と同時に攻撃態勢を整え、鉄槌が地面を震わせたと同時にうなじに強打を見舞った。

 以上が、ツキクサが数秒の間に行ったこと――の一部分だ。

 例に漏れず気絶した男を担いで安全地帯に運ぼうとすると、危うく男の愉悦の犠牲になろうとしていた少女が、呆然とこちらを見つめていた。

「少し待ってて」

 そう短く言い残し、男を戦地から離れた場所に横たえて白紙を破いたのちに、ツキクサは再度少女の元に足を運ぶ。

 ぺたんと脱力して座る少女の視線の高さに合わせるために片膝をつき、微笑みを浮かべてツキクサは問いかける。

「動けるかい?」

「……あ、はいっ」

 やや時間差があって威勢のいい返事をしつつも、少女が立ち上がる気配はない。ツキクサが手を伸ばすと、少女は稚い顔立ちに羞恥の朱を表出させた。目に見えて照れつつも、少女は小さな手のひらを絡めて、桜色のふたつ結びにされた髪を上下に揺らしながら立ち上がる。

「ありがとうございます。おかげで助かりました」

 早くも平静を取り戻したのか、少女の言動から焦燥は消え失せていた。

「礼には及ばないよ。君は偶然僕に助けられた。それだけのことだよ」

「それでも助けられたことには変わりありません。……私の白紙は徴収しないんですか?」

 ぱっと見、ウェイトレスにしか見えない少女だった。黒と白だけで構築された裾の短い衣服に、爪先から太ももまでを覆う薄地の黒タイツ。やや踵の高いパンプス。

 どれだけ穿った見方をしても、戦闘に適しているとは言えない身なりだった。四つ折りにされた白紙が胸ポケットに入っているが、本来そこにあるべきはバインダーだろう。

「選択は常に自分ですべきだからね。この先に進むも進まないも、決めるのはその人次第だ」

 しかし、ここに来た以上は誰もがなにかしら叶えたい願いを持っている。

 この第一試練を通して、これは願いを叶える権利を巡る争奪戦なのだと、誰もが理解したはずだ。チップは自らの命。そう理解した上でも、願望を手中に収めたいと思うのか否か。

 その選択に、ツキクサは一切干渉するつもりはない。辞退し〈地下〉に行こうが、進んで命を落とそうが、ツキクサの知ったことではない。責任は選択した当人に委ねられる。

「随分と他者を尊重されているんですね」

「他人に興味がない冷たい人間とも言えるけどね」

「いいえ、あなたは優しい方ですよ」

 微笑んで少女は言った。

「あなたに救われたこの命、これからも大切にさせていただきます」

 深々と頭を下げると、少女はきょろきょろと視線を四方に巡らせ、やがて部屋の中央部から壁に向かって足を進めはじめた。中央部が戦地。その外は停戦地帯。それは場を冷静に俯瞰すれば誰でもわかること。ツキクサが言わずと、少女も気づいたようだ。

 恐らく少女は、第一次試練終了と同時に身を引いて、〈地下〉に行くことになるのだろう。

〈地下〉は過酷な場所だが、命を落とす可能性は虚無に等しい。ツキクサとしては、この試練を耐え抜いた参加者の大多数には辞退を選択してもらいところだが、経験上そうはならないのだろう。第二試練以降も、残留した参加者としのぎを削り合うことになる。それが恒例だ。

「さて次は……」

 上空で瞬くプルシアンブルーは「04:12」の数値を刻んでいる。

〝死〟という形での脱落者をひとりでも減らすべく、ツキクサは悲鳴に耳を研ぎ澄ませる。まだまだ某所で無意味な殺戮が繰り広げられている。我関せずと傍観を決め込むという選択肢は、端からツキクサの中になかった。無碍にはできなかった。身体は無意識のうちに動いていた。


 ――第一試練終了のアナウンスが鳴り響いた。


 ◇


 死屍累々。そう形容するに相応しい惨状だった。

 ――参加者の半数以上が、〝死〟という形での脱落を余儀なくされた。

 第一試練終了後、まっさらの紙に指名と〈エボルブ〉を記載して階段を登るよう指示された。試練終了と同時にフェンスが持ち上がった先にある階段手前の通路に、長机が並べられていた。ペンは机上に置かれていた。ペンの本数は目に見えて攻略した参加者の総数よりも少なく、けれども予め試練時間外に暴力行為を働いた場合はその時点で〈エデンの塔〉に参加する権利を剥奪すると忠告されていたため、血飛沫が上がることはなかった。ほとんどのペンの持ち手に、生々しい血痕があった。吐瀉物をぶちまける少女がいた。介護する人はいなかった。誰もが自分のことで手一杯といった様子だった。ツキクサは嘔吐した少女に肩を貸して階段を登った。

 二十段ほどの階段を登り切ると、ダンスホールを想起させる煌びやかで広々とした空間がツキクサを歓迎した。しかし、鼻腔をくすぐる芳ばしい香りとずらりと並んだ机と椅子が、この場所は別の目的で使われているのだと強く主張する。等間隔に並ぶ吊り下げタイプの照明が淡いオレンジを放つ先では、豪勢な料理がこれでもかというほどの小山を築いて佇んでいた。

 集団の上で停滞していた暗雲が霧散したような気がした。

「うっひょっ、うまそうっすねぇ~」

 肩を貸している少女が、弾んだ声で興奮を露わにする。日常的に王城で高級料理を目にしているツキクサは豪勢の一言で片づけて平静を保てるが、大多数の参加者はそうはいかない。ありふれた日常生活の中ではまずお目にかかれないであろう、華々しい料理の数々は、意識を完全に絡めとっていた。誘惑が彼らの思考を鈍磨させているのは、表情を見れば一目瞭然だった。

「……」

 胸にわだかまりを覚えつつも、その鬱積がツキクサからまろび出ることはなかった。

「第一試練攻略、おめでとうございます」

 どこからともなく現れた運営が言った。慇懃に頭を下げると、右手を上げて続ける。

「こちらはクーリングダウンフロアとなっております。皆様のいらっしゃるこの部屋はレストランルーム。ルスティカーナ随一のシェフの方々が作られた料理の数々を、ビュッフェ形式でお楽しみになることができます」

 ざわざわと色めき立つ参加者一同。扇動の跫音がすぐそこにまで迫っていることに勘づいている参加者が、果たしてどれだけいるのか。

「ほかにも、フィットネス、エステサロン、スパ、バーをはじめとする一流の娯楽サービスをご用意させていただいております」

 部屋の奥にある巨大なスクリーンに映像を投影し、リアリティを補完することで興奮を煽る。

「これらはいずれも、第二試練に挑戦される方にのみ無償で与えられる特権となっております」

 浮足立たせてまともに思考する精神的余裕を奪った上で二者択一を迫る。

「先ほど書いていただきました書類を我々運営に渡すことで、皆様の第二試練への挑戦権と、挑戦期間中のサービス提供権が受理されます」

 果たして今この瞬間、第一試練の悲劇を脳裏に浮かべている人がどれだけいるのか。

 第二試練は忌避したいと強く願っている人がどれだけいるのか。

「また、辞退される方につきましては入り口付近に〈転移装置〉を用意しておきましたので、そちらからお帰りください」

 その一握り程度の運営の善意を、忠告を、どれだけの人間が危機的なものとして捉えたか。

「大したアジテーターだよ」

 ぼそりと、ツキクサはつぶやいた。

 完璧だった。

 表情。語り口調。演出。すべての面で文句のつけようのない完璧な意識誘導だった。

 話を締めくくった直後、大勢の参加者が運営に押し寄せるのは必然と言えた。

「自分ももう一試練だけ、トライしてみようかな」

 肩を貸している少女がぽつりと言った。

「料理もサービスも、この機会を逃したら金輪際縁がなさそうなものばかりだし……」

「その代償で未来が潰えるかもしれないよ」

 危険が待ち構えている。そう理解した上で自ら進むことを選択したのなら、ツキクサはなにも言わない。自分の命をどう使おうが自分の勝手だ。

「それでも、君は次の試練に臨むのか?」

 けれども、現状においては多くの参加者が一時の感情にあてられて命を賭けることをよしとしている。幸福とも不幸とも向き合って結論を導き出しているのではなく、不幸に暗幕がかけられて、幸福しか見えていない状態で、結論を導き出している。

 これは二者択一ではなく、選択の強制だ。

「……あー」

 だから口を挟んだ。このやり方は気に食わない。ツキクサのモットーに抵触する。

「自分、まだ十六なんで、大した実績も残さず夭折するのはちょっとなぁ……」

「だったら辞退することを勧めるよ。一時の感情で物事を正確に推し量ることはできない。感情任せにする選択は、たいていが間違いだからね」

「そうっすよね、はい」

 思考が正常な歯車と噛み合ったようだ。危うく死に急ぐところでした、と言って笑んでいる。

「ありがとうございます銀髪さん。おかげで骨ではなく命を拾うことができました」

「どういたしまして。〈転移装置〉までひとりで歩けるかな」

「あ、はい。もうだいじょぶぐっじょぶです」

 ぐっとサムズアップしたのち、少女はへへっと面映ゆそうな微笑みを漏らした。

「すいません。銀髪さんがやたらとカッコいいんで、つい甘えたい衝動に駆られてしまいまして。感情に流されるまま、体調が整っているのに身体を預けてしまいました」

 久しく手入れされずに雑然と生い茂った草木を思わせる金糸の髪をくるくると弄ぶ。前髪が長すぎて、瞳はほとんど見えない。

「ほら、自分って見るからに気持ち悪いじゃないですか。社会における私の立ち位置って、たぶん雑草とか微生物と相違ないんすよね。誰かに強く必要とされてるわけでもないし……。ですので、この機会に一生接点がないであろうイケメンさんの薫りを堪能しておこうと思った次第です。最高でした。ゴチです。そしてすいませんでした。ボロ雑巾の分際でイキがりました」

 ぺこぺこ頭を下げてくる。

「そんなことないよ」

「え」

 前髪を一房掴んで掻き分けると、きょとんとした紅玉めいた瞳がツキクサに向けられていた。

「綺麗な瞳だ。髪だって、整えれば道行く人が振り返るほどの美しいものになる。内面も素敵だよ。こうして僕に正直な気持ちを打ち明けて、感謝を伝えることができているんだからね」

「ちょちょ、な、ななななんすかいきなりっ! ほ、褒めちぎりとかやめてくださいよっ!」

 顔を真っ赤にして目をぐるぐるさせている。感情がころころ変わるのも、魅力として光るのではないだろうか。少なくともツキクサは、キノカの天真爛漫さを好いていた。

「自信の有無で人は見違えるほどに変わるものだ。君の恵まれた容姿に自分を肯定する自信が加われば、白月の下で舞い踊り人々を魅了する蝶のように、皆が一目置く存在になると思うよ」

「い、言いすぎじゃないすかね?」

「お世辞を言っているつもりはないが?」

「っ! ……あーはいはい、わかりましたわかりましたからっ」

 顔を片手で覆い隠し、もう片方の手を胸の前でぶんぶん忙しく左右に動かす。

「……私、今日で卑屈キャラ引退します。それでいいっすよね?」

「うん。それがいいよ」

 ふぅと長い息を吐き出すと、少女は前髪をくしゃっと掻き上げた。微笑んでいた。

「重ね重ねになりますが、ホント感謝です。……私、アリスって言います。また別の場所で巡り合えたら、ちょいと相談に乗ってくれたりとかしてくれませんかね?」

「うん。構わないよ」

「おっ、マジすか!」

 弾けるように破顔した。

「やたっ、人生初の逆ナンでイケメン釣るって、さては自分、そっち方面の才能が……」

 言ってる途中ではっと顔を上げてツキクサと視線を重ねると、すぐに目を逸らしてもじもじ長い前髪を弄びはじめる。

「すいません、自分、ぼっち故に独り言が多く思い込みが激しい質でして。……ルスティカーナの東区にある酒場で働いています。といっても、裏方でエール用意してるだけなんすけどね。……私は、エールとか不向きな笑エール日陰の人間っすから」

 ちらっと探るような視線を向けてきた。

「ん。どうかしたかな」

 なにを求められているのかわからず首を傾げると、アリスは「……はは、死にたい」と涙目で俯いて嘆いた。悲観的な子だと思った。

「それはともかくです」

 こほんと咳払いし、気を取り直す。

「基本朝から晩まで働いているんで……まぁ、その、気が向いたらでいいんすけどね? 足を運んでくれたら自分、ウサギみたくぴょんぴょん飛び跳ねて喜んじゃいますよ」

「少し大袈裟なんじゃないかな」

「いやいや、自分、嘘とか生まれてこの方ついたことありませんから」

 こんな風にと言って、口頭で説明されたことをわざわざ実演してくれる。ウサギのモノマネを終えると同時に、アリスは頬を真っ赤にして「殺してください……」と嘆いていた。喜んだり落ち込んだり忙しい子だ。

「じゃ、ここらでお暇します。銀髪さんは次の試練にも参加されるので?」

「うん。叶えたい願いがあるからね」

「そっすか。では、自分は草葉の陰からこっそり応援してます」

 そうだ、と手を叩き、アリスは紙の裏面に持参したペンでなにやら文字を走らせはじめる。

「……」

 なぜ、はじめからそのペンで文字を書かなかったのだろう。そうすれば、嘔吐することもなかっただろうに……。

 できた、と言って手渡された紙には、住所が書かれていた。先ほど言っていた酒場の住所だ。

「人間忘れっぽいものっすからね。念には念をってやつです」

「ここまでされたら出向かないわけにはいかないな」

「いやいやいやいや、別に強制しようとか退路を塞ごうとかそういう作為的なものは一切全然これっぽ~っちもないんすんよ?」

 嘘をつけない素直な性格のようだ。瞳がおろおろ忙しなく泳いでいた。

「では銀髪さん、また後日」

「あぁ。気をつけて帰るんだよ」

「はは、過保護すっねぇ。銀髪さんはお兄さんに向いてますよ」

「……」

 向いてるもなにも、ツキクサは正真正銘兄だ。けれど反論はしなかった。

 笑顔で手を振るアリスが〈転移装置〉に乗って姿を消したところで、ツキクサはピークの去った受付場に足を運んだ。書類を渡して受理が済み、個室のカードキーが手渡された。

「もうすぐだからな」

 そう決意を口にするのはこれで何度目のことか。

 約束を守りアリスの酒場に行くためにも、〈地下〉にいる彼らを救い出さなくてはならない。その瞬間までは、国王の言いなりに、国家の犬に擬態しなくてはならない。

〈特別国政補佐官〉ツキクサとして活動する日々に終止符が打たれる日は、そう遠くない未来にまで迫っている。腰に携えた『水鳴』の奥にある剣の柄をそっと撫でて、ツキクサは歓喜の濁流に呑まれる食堂へと足を進めた。


 ◇


「おにーさんっ」

 ツキクサは淡交に努めている。〈エデンの塔〉の期間だけ築かれる限定的な付き合いと雖も、離別には常に郷愁が付き纏うものだ。故に関わりから忌避していた。

 情。

 それが悲願を遂げるに即してなにより弊害となり得るものだと、ツキクサはこれまでの経験から深く学んでいた。

「驚いたな。てっきり辞退したものだと思っていたよ」

 が、無視して傷つけるのも申し訳ないので、食事の手を止めて弾んだ声に応じる。トレーを置いて差し向かいに腰掛けた少女は、知らぬ存ぜぬの他人ではない。稚さに象られた容顔。ふたつに結わえられた淡紅色の髪。そして、トレードマークとも言えるウェイトレスめいた衣装。

「実を言えば私もそうするつもりだったんですけどね。けど、なんて言いますか、その……湧き上がる欲望に屈してしまって……」

 第一試練でツキクサが助けた少女だった。

「恥じることはないよ。君意外にも同じ理由で進むことを選択した参加者が大勢いるはずだ」

 その根拠に、階段を登る前と登った後とで参加者の総数にほぼ変動はなかった。

「スパゲッティ、お好きなんですか?」

「あぁ。塩スパゲッティが好物なんだ」

「はは、せっかくの機会なんですから、もっといいものを食べればいいのに」

 美味しいものを食べたいという欲求は、ここ十年ほどツキクサの中で湧いていない。

「……この先も、あのような試練が続くんですかね?」

 少女の前に置かれたトレーには、スイーツがこんもりと盛られている。ショコラ。マカロン。タルトレット。カヌレ。マシュマロ。ガトーショコラ……。

「恐らくね」

 その幸福の代償に命を賭けている。遅かれながら自身の軽はずみな選択の重さを痛感したのか、スイーツの山に降りかかる失意の雨はなかなか上がる気配を見せない。俯き、無言で、少女は浅はかな自分にお灸を据えるように身を縮こまらせている。

「後悔したってなにも変わらないよ」

 スパゲッティをフォークに絡めてツキクサは言った。

「反省したって、過去の過ちが帳消しになるわけじゃない。それに、この選択によってもたらされたのはなにも不幸だけじゃない。しっかり幸福という対価を得ている。だから今は幸福を堪能しようよ。次は間違えなければいい。簡単な話じゃないか」

「おにーさん……」

 少女はしばし逡巡するようにスイーツを眺め、やがてええいままよとばかりにフォークをカヌレに突き刺した。そのままの勢いで、豪快に一口で頬張る。

「んん~っ、おいっしい~!」

 嵐が去って虹がかかるように、少女は華々しい笑みを浮かべた。

「おにーさんおにーさんっ、これものす~っごくおいしいですよっ! 一口食べませんか?」

 新しいカヌレにフォークを突き刺し、ツキクサの口元まで運んでくる。

「遠慮するよ。スイーツは自制しているからね」

「そうストイックなこと言わず、がんばった自分へのご褒美だと思って」

 光を吸い込み光沢を帯びる芸術めいた漆黒の円錐台。漂うまろやかなビターの香りが、食欲とは別の欲求をじわじわ刺激してくる。が、

「悪い。その要求は呑めない」

 その日が来るまで、スイーツに限らず食事で満足することは許されない。

「そうですか……」

 至極残念そうにつぶやくと、少女はカヌレからタルトレットにフォークを差し替え頬張る。失意に翳る幼さを残した顔は、瞬く間に至上の微笑みに転じた。なんとも切り替えの早い。

「私、モモエって言います。おにーさんはなんていうんですか?」

「……ツキクサだ」

 名乗ることに抵抗を覚えたのは、名乗ったところで募るのは虚しさしかないと感じたからだ。モモエと名乗ったこの少女が今後の試練で生存する確率は、ツキクサが思うに極めて低い。

「ツキクサさんは、どんな野望を胸に試練に挑まれているんですか?」

 食事のつまみ程度の感覚で話題を切り出している風だった。

「失われた日常を取り戻すこと。それが僕の叶えたい願いだよ」

「へぇ~、壮大ですねぇ。現状に不満を抱いているんですか?」

 レスポンスが速い。ほわほわした印象に反して、この子は機転が利くのかもしれない。

「不満というよりは、変化する前の世界が好きだったというべきかな。〈祝福の日〉が訪れる以前の、誰もが人間のままでいた世界。僕はその世界が好きだった。だから取り戻したいんだ」

「なるほど。……でもツキクサさん、〈エボルバー〉ですよね? 仮に〈エボルブ〉がなくなったとして。そのことを名残り惜しいとは思わないんですか?」

「かつての日常を取り戻せるのなら、どんな犠牲も厭わないよ」

「優越感には一切興味なしですか。……やっぱり優しい方です。普通はそうはいきませんよ?」

 お気に召したのか、モモエはひとえにショコラを食べ続けている。ショコラが一向に減らないのは、彼女が〈エボルブ〉を使っているからだ。〈エボルブ〉でお菓子を増やす。平和的な力の使い方に、ツキクサは頬を和らげる。ごくりと喉を鳴らし、微笑んでモモエは言った。

「ちなみに私は、スナック菓子を再び普及させたくて〈エデンの塔〉に参加しました」

 科学進歩に伴い、かつては高級菓子と呼ばれていたものが容易に製造できるようになった。そのために安価となり、安価が売りのスナック菓子は気が付けば市場から姿を消していた。

「ツキクサさんの大志とは比べるに値しない幼稚な願いですけど、私だけ黙秘するというのはフェアではありませんからね。念のため伝えておきました」

「いいや、立派な願いだと思うよ」

 同情でも社交儀礼でもなく、ツキクサは心からそう思っていた。

「どんな願いも等しく大切なものだよ。〈祝福の日〉は世界を大きく進歩させた反面、多くの宝ものを奪い去っていったからさ。……与えられるだけならよかったのに」

「ツキクサさん……」

 気遣わしげな声に顔を上げると、モモエが眉尻を下げて瞳に戸惑いを宿していた。

「悪い。至福のひと時に水を差すような真似をしてしまって」

「いえ、元を辿ればこの話題を切り出した私が悪いんです」

 気持ちを切り替えるように頬をほころばせて、モモエは言った。

「がんばりましょう、お互い」

「うん。がんばろう」

 もしも、モモエが最後のひとりまで残ったとして。

 そのとき、自分は躊躇いなく彼女に剣を突き立てることができるだろうか。

「うぷっ、も、もう限界……このカヌレ、どうしましょう? ツキクサさん食べます?」

「勿体ないが処分しよう。次からは食べきれる分だけ取るように」

「ごもっともな窘めです。……カヌレさんごめんなさい。少し胃袋を過信しすぎました」

 しょんぼり肩を竦めるモモエに、ツキクサは一切の感情を排した上辺だけの笑みを向ける。

 やはり情こそ、なにより懸念すべき難敵のようだ。


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