プロローグ
「第20回 MF文庫Jライトノベル新人賞」にて、一次選考を通過した作品になります。
ハイファンタジー作品です。
――祝福。
幸福を謳うその言葉が仮に目に見える形となったのならば、それはきっと、たった今目の前に広がった光景のようになるのだろう。
「きれい……」
少年と手をつなぐ少女が足を止めてつぶやいた。
ふたりは兄弟だった。黒髪短髪の少年――ツキクサは七歳。黒髪挑発の少女――キノカは五歳。ツキクサの片手はキノカの手で、もう片方の手は手提げ袋で塞がっていた。買い物からの帰り道でのことだった。
日中だというのに、快晴の空には数多の星々が望めた。一面の青に斑目模様となって存在する白が、ひとつ、またひとつと地上に降り注ぐ。雪のように、ひらりひらりと降り落ちる。
光の粒がツキクサの頬に触れた。しかし濡れた気配はなく、どうやらそれは水分を含んでいないようだった。冷たくも熱くもなく、かといって痛みや痒みを催したわけでもない。光の溶けた頬を手のひらでそっと撫でるが、そこには普段と変わらない肌触りがあるだけだった。
青空から零れ落ちる滂沱たる光の粒が、緩慢と地上に吸い寄せられていく。
現実のものとは思えない幻想的な光景に、ツキクサは一割の戸惑いと九割の興奮を覚えた。絶景に視線と意識を鷲掴みにされていた。彼の七年間の生涯において、この瞬間に勝るほどの絶美たる風景は存在しなかった。一割の戸惑いは、瞬く間に興奮へと塗り替わった。
「あ、こっちきたっ! こっちきたっ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるキノカの周囲を、複雑な軌道を描いて光の粒が旋回していた。まるで意思を持っているかのような動きだ。えいっと声を上げて、キノカは光の粒を両手で捕まえる。手中に収まった瞬間を、ツキクサは確かに見た。
「あれ?」
ところが、キノカが手を開くとそこにはなにもなかった。キノカは首を傾げる。
「おかしいなぁ。捕まえたはずなんだけど」
「捕まえてどうするつもりだったんだ?」
「食べるっ!」
満面の笑みで即答した。ツキクサは苦笑し、捕まえられなくてよかったなと、心の中で安堵の息を漏らした。好奇心が旺盛すぎるのも考えものだ。
喧騒が鼓膜を突いてやまない。周囲の人も、陶然とした面持ちで空を見上げていた。
「にしても……」
しかしなんだろうこれは。天災地変の類だろうか。考えたところで、まだ幼い自分に結論を導くことなどできまい。ツキクサは十秒と経たずして、難しいことを考えるのをやめた。
「帰ろうキノカ。お腹空いてるだろ」
時刻は間もなく正午を回ろうとしていた。
「うんっ。もうぺっこぺこだよぉ~。兄様、今日のお昼ご飯は――」
――べとっ。
路上にクレープが落ちたような音だった。
音の発生源を見やると、黒い水溜まりのようなものがあった。
続けて視線を上に向けると、キノカが青ざめた顔をしていた。
――片腕がなくなっていた。
陽の光を吸い込んで光沢を放つ黒髪が、陽の光を照り返して光沢を放つ銀髪になっていた。
「え?」
ツキクサが困惑を露わにすると同時に、残されたキノカの片腕がてかてかと黒光りするジェル状の物体へと変化した。バルーンアートに用いられる横に細く、縦に長い風船のようだった。
重力に耐えきれなくなったのか、それは地面に滴り落ちた。弾けて黒い水溜まりとなった。
「……兄様、これはいったい」
怪現象は止まらない。キノカの右脚が玩具染みた異形に変化し瞬く間に地面に溶け落ちた。片足を失い体勢を崩して倒れるよりも早く、左足が飛沫を上げて爆散した。片足に全体重がかかったためだろう。
四肢を失ったキノカが、バチンっと痛そうな音を立てて腰を地面にぶつける。顔から落ちなかっただけ救いと見るべきか。あどけない顔は苦痛に歪んでいた。するとまもなく、フライパンの上でバターが溶けるかのように残された身体が黒い液体に変貌しはじめた。
瞬く間に下半身が消失した。
「たす、けて……兄様……」
瞳いっぱいに涙を溜めて、キノカが救いを求めてくる。
「……なんだよこれ」
周囲を見やる。
倒れている人がいる。泣き声を上げる人がいる。
されども、光の粒は降り注ぐ。一転して街が絶望に染まる中でも、変わらず希望を連想させる眩い輝きが街を包み込んでいる。
歓喜の声を上げる人間は、もはやひとりもいなかった。
「なんなんだよこれはっ!」
キノカの身体であった黒い液体を掬い上げる。粘り気を持つ液体だった。わかったのはそれだけだ。なぜキノカの身体が突然液体化したのか、まるでわからない。少なくともツキクサの周囲の人は、誰ひとりとしてキノカのように不可思議な現象に襲われていなかった。
「兄、様……」
掠れた声の先を見やれば、既にキノカの胴体は消失していた。堪らず、ツキクサは残された頭部を抱き抱える。液体化は止まらない。頭部も徐々にぬめりを帯びた黒い液体になっていく。
「キノカ! キノカ!」
叫ぶことしかできない。妹が消滅しかけているというのに、自分にできるのは叫ぶことだけ。
己の無力さを恨み嘆いていると、ふとツキクサの胸中に恐怖がもたげた。
(キノカがいなくなる?)
ツキクサにとって、キノカは唯一の家族だった。なににも代えがたい大切な存在だった。
その妹が、突然自分の元から離れようとしている。この世から去ろうとしている。
遅れながらに事態の深刻さを理解し、ぞぞっと全身が粟立った。
「キノカ! キノカ!」
目頭が熱を帯び、視界がぼやける。しかし奇蹟は起きない。キノカの消失の瞬間は、無情にも刻一刻と迫りくる。溶解という目に見える形となり、ツキクサに現実を突きつけてくる。
「……ふざけんなよ。なんで……なんでキノカなんだよ。殺すなら俺にしろよっ!」
「それはだめだよ」
雑踏に呑まれたらすぐに消えてしまいそうな、元気旺盛なキノカらしくない小さな声だった。
「兄様は幸せになるの。だからわたしでよかったんだよ」
キノカの頭部は、もう左半分しか残されていない。
それでもキノカは微笑んでいた。目尻に涙の残滓を輝かせながら微笑んでいた。
「なに言ってんだよ! こんな最期で悔いはないのか!? ……昼ご飯が、まだじゃないか。
あんなに……あんなに、楽しみにしてたじゃないか……」
いっしょにポトフを作ろうとしていた。正確にはポトフと呼べない代物かもしれない。コンソメスープの中に好きな具材を入れる。それくらいなら、まだ幼いふたりでも簡単にできた。
「それはちょっと名残り惜しいかもだなぁ」
蚊の鳴くような声だった。頭部はもう、ほとんど残されていない。
「早く帰って、昼ご飯食べようよ。キノカがいなきゃ、おいしくご飯食べられないよ……」
瞳から溢れた涙が、キノカの頬を優しく濡らす。キノカの瞳が細められた。
「これまでもこれからも、大好きだよ兄様」
その言葉を最後に、キノカの身体は余すことなく黒い液体となった。
◇
コンコンと、扉をノックされる音でツキクサは悪夢から現実に舞い戻った。上半身を起こすと、ぴきぴきと骨の軋む音が脳に響く。どうやら机に突っ伏して夜を明かしてしまったらしい。
姿見を見ると、白銀の髪に琥珀の双眸を携えた少年と目があった。今現在――十七歳のツキクサだ。手櫛で軽く髪を整えて、扉の向こうに声をかける。
「どうぞ」
失礼しますと、一言断りがあって扉が開かれる。
黒を基調とするフォーマルな衣装に身を包んだ怜悧な顔立ちの男が姿を見せた。引き締められた頬をわずかにほころばせ、男は恭しく頭を下げる。
「おはようございますツキクサ様。早朝から申し訳ありませんが、陛下がお呼びです」
淀みなく要件を口にし、返事を求めるように青瞳を向けてくる。
彼の名はリバル。十七歳であるツキクサより十歳以上年嵩であるのだが、社会的立場を絶対視しているために常に敬語を崩さない。良く言えば真面目、悪く言えば融通が利かない堅物だ。
彼は国王にもっとも近い場所に従事している。平たく言うと側近である。
「わかった。準備が整うまで少し時間をもらえないかな」
起き抜けのため、ふたつ返事で要望に沿うことはできない。
「承知いたしました」
涼やかに返事し、静かに扉が閉められた。
ルームウェアからいつもの余所行き――〈輔弼連合〉から支給されたスピア色を基調とする制服――に着替えてカーテンを開くと、陽射しが部屋を白く染め上げた。
ちりちりと瞼が焼かれる感覚と共に、脳が平素の感覚を取り戻していく。思考の濁りを感じなくなったところで大きく息を吐き出す。最後に窓に向かってつぶやく。
「おはようキノカ」
いつものルーチンを終えたところで、壁に立てかけた二本の剣を腰に携えて部屋を出る。
「待たせたね。いこうか」
リバルに先導されて瀟洒な廊下を歩くことしばし、
「此度の試練で決行に移す。前に頼んだことは覚えてるか」
「はい、覚えております。ありがとうございます」
「お礼なんていらないよ。偶然、目的が一致しただけなんだからさ」
皇室にたどりつくまでに両者が交わした会話はそれだけだった。
リバルが扉をノックすると、すぐに「入れ」と部屋の主から応答があった。
失礼しますと断りを入れてリバルが扉を開くと、赤銅色と黒色の入り混じった長髪の男が玉座に腰掛けていた。華美な装飾の施された衣装は、まるで彼の権威を顕示するかのようだ。
「おはよう、ツキクサ〈特別国政補佐官〉」
足を組み頬杖をついた男は、落ち着き払った微笑を湛えている。その風采からは、慢心していると断言して些かも問題ない、揺るぎない自信と矜持が溢れ出ていた。
彼の名はべガルアス。ルスティカーナ王国国王である。
「朝早くに申し訳ない」
片膝を床につけてかぶりを振る。
「いいえ。いつ如何なるときも国王陛下の望みを叶えるべく最大限の幇助をするのが、我々〈国政補佐官〉の使命ですから」
ふっと鼻で小さく笑うその姿からは、彼の傲慢な人となりを感じられる。しかしそれは短所ではなく長所だろう。王たるもの、常に尊大かつ寛容でなくてはならない。
その観点で推し量れば、べガルアスは理想的な国王と言える。臣下には高慢な態度で接し、民には慈愛さえも感じさせる柔和な態度で接する。
ひとつの欠点を除けば、彼は紛うことなき理想の王だった。
「まるで精密機械だな。責務を果たすためなら、感情の腐敗も諒とする。それは〈輔弼連合〉から前もって指南されたことなのかな。それとも汝の中で後天的に芽生えたものなのかな」
「後者です。故に私は〈特別国政補佐官〉となれたのでしょう。〈エボルブ〉が特別秀でているわけでもありませんから」
「〈アボルバー〉でありながら、よくそのようなことが言えたものよ」
愉しげに微笑み、足を組み替える。
「〈エボルブ〉とて、片方が欠損しても脅威であることには変わりない。余は、汝が史上最年少ながら〈特別国政補佐官〉に任命されるのは当然の成り行きだと思うよ」
「光栄に存じます」
血色のいい肌色の上で煌々ときらめく、生命力の充溢する鋭利な双眸。
この容姿でありながら実年齢は百歳を超えていると言っても、誰も鵜呑みにはしないだろう。
「余談もほどほどに本題といこう。……とは言ったものの、実を言えば余が話すことはほとんどない。ただ確認したいだけだ」
足組みを解き、身体を前に傾け、薄い笑みを張りつけたまま口を開く。
「余が何を確認したいか。聡明なツキクサ〈特別国政補佐官〉なら言わずとわかるのではないかな」
頷く。
「〈エデンの塔〉の踏破を阻止し、国王陛下にたまわる〈祝祭〉を保護する。以上が国王陛下ののたまいたいことかと思いますがいかがでしょう」
「ご名答。さすがだツキクサ〈特別国政補佐官〉」
背中を玉席に預けて足を組んだ。
「ありがたきお言葉。此度で三度目となりますが、私は変わらず国王陛下の期待に応えるべく最善を尽くす所存であります」
「うむ。汝の口から忠義の意を確認できて安心したよ。任務の失敗など端から懸念しておらん。此度も頼んだよ、ツキクサ〈特別国政補佐官〉」
「はい。期待に違わぬ成果を収めることをお約束します」
要件はそれだけのようで、帰りがけに食堂で軽い食事を済ませてツキクサは自室に戻った。
ルスティカーナ王城の一室。〈輔弼連合〉からルスティカーナに派遣されて以降、ツキクサはこの部屋で生活を営んでいる。
〈輔弼連合〉とは、その名の通り、政治の手助けを主として活動する機関のことだ。〈国政補佐官〉の育成と認定、並びに世界平和の希求を掲げて様々な面から政治的アプローチをしている。
ツキクサは〈国政補佐官〉のひとりであり、更に言うなれば〈特別国政補佐官〉である。
それは、〈国政補佐官〉の中でも抜きんでた才知を有することを意味する。
〈国政補佐官〉の使命は主にふたつ。
ひとつは、〈エボルブ〉を用いた犯罪活動の抑止。
ひとつは、国王の国家統治を潤滑化するための補助。
〈エボルブ〉とは、〈祝福の日〉に幾何かの人間に備わった異能のことである。
〈祝福の日〉、地上に生きる半数以上の人間が命を落とした。光の粒がカーテンコールさながらに降り注いだ様子から、あの日の出来事は〈祝福の日〉と名付けられた。
皮肉なものだ。実際は多くの人間があの出来事を忌み嫌っているというのに……。
〈エボルブ〉を宿す人間は、〈エボルバー〉と呼ばれている。
ツキクサはそのひとりであり、更に言うなれば〈アボルバー〉である。
ひとりで二種類以上の〈エボルブ〉を扱う人間がそう呼ばれるが、その数は極めて少なく、現状においては片手で数えられるほどしか確認されていない。
もっとも、ツキクサは〈アボルバー〉と認定されているだけなのだが。
時計を見やる。時刻は八時を回って間もない。
〈エデンの塔〉での任務がはじまるのは十四時からだ。任務がはじまれば、毎日拘束されて忙殺を強いられることになる。既に二度経験しているため、ほとほと精神面でも肉体面でも疲弊することは重々理解している。
未来を憂い、さして疲労はないが、身体をベッドに横たえて休息を取ることにした。
とある〈エボルバー〉がここ数日の間に連続殺人を引き起こしていて、その事件が解決されていないことだけが心残りではあるのだが、〈エデンの塔〉に出向くとなれば、この一件はほかの誰かに委任するしかない。出立前に、リバルに軽く話をしておこう。彼に任せれば大事には至らない。彼は正義の臣下であり、正義に従順だ。
今朝の寝つきがよくなかったからか、すぐに睡魔が押し寄せてきた。意識が混濁し、視界が輪郭を失っていく。
まどろみに呑まれる直前、ツキクサはぽつりとつぶやいた。
「もう少しだよキノカ」