深夜のスタジオ
時刻は深夜2時を回った。東京の喧騒もすっかり鳴りを潜め、窓の外は霧のような静けさに包まれている。風花茉莉は、一人スタジオの片隅でピアノの前に座っていた。
机の上には、カフェインの残り香を漂わせる空のコーヒーカップと、手つかずのまま放置されたスナック菓子の袋。楽譜の上を走らせていたペンが止まり、茉莉は小さく息をついた。
「…これじゃダメだ。」
自分のつぶやきが思いのほか大きく響いて茉莉は少し驚きながら視線を落とした。ピアノに置いた手が、どこか自信を失ったように震えている。
新曲の締切は目前。だが、何度手を加えても、「これだ」という確信が持てない。音楽は茉莉にとって言葉そのものであり、心を映す鏡だ。それだけに、妥協は許されなかった。
「どうしても何かが足りない…」
茉莉がもう一度ペンを取ろうとしたその時、スタジオのドアが静かに開く音がした。
「お疲れさま、茉莉。」
現れたのは、高校時代からの親友である桐島美月だった。カジュアルなパーカー姿で、片手にはコンビニ袋をぶら下げている。
「またこんな時間まで作業してるの?少しは休まないと倒れるよ。」
美月は茉莉の疲れた顔を見て、小さく笑いながら袋をカウンターに置いた。
「これ、差し入れ。夜中だから軽いものにしておいたよ。」
と言いながら取り出したのは、カップラーメンと真っ赤なタバスコだった。
茉莉はそれを見て、思わず眉をひそめる。
「また辛いもの?美月、前も言ったけど、それ食べると頭がパンクしそうになるんだって。」
美月は気にした様子もなく肩をすくめた。
「そこがポイント。辛さで感覚をリセットしなさいってことだよ。」
茉莉は苦笑いしながら、ピアノの横に腰を下ろす美月を見た。
「で、どうなの?」美月がじっと茉莉を見つめる。
「どうって?」茉莉は曖昧に答えるが、美月の目から逃げられない。
「新曲の進み具合。顔に出てるけど、詰まってるんでしょ?」
茉莉は深いため息をつきながら、机の上の楽譜を指で軽くトントンと叩いた。
「…どうやって肩の力を抜くのか、そもそも分からないんだよね。」
「茉莉らしいね。」美月はくすっと笑ったあと、真剣な表情に戻った。
「茉莉の曲は、ちゃんとみんなに響いてるよ。少なくとも私は、いつも助けられてるし。」
茉莉は一瞬目をそらし、小さく首を振った。
「そうだといいんだけど。でも、私にとって音楽は、感情そのものだから。中途半端なものじゃ絶対に伝わらない気がして。」
その言葉を聞いて、美月は一瞬黙った。やがてコンビニ袋を漁るふりをしながら、ふと口を開いた。
「ねえ、それってさ、気持ちを詰め込みすぎてるんじゃない?」
「詰め込むのが私のスタイルなんだよ。」
茉莉は言いながら微笑んだが、その言葉には確固たる信念があった。
美月はその表情を見て、しばらくじっと考え込むような顔をしていたが、やがてニヤリと笑った。
「歌は私の言葉、音楽は私の心。だから、どちらも譲れない――ってやつね。」
「え、それ、何でわかったの?」
「天才シンガーソングライター様の決意表明を今ここで聞きました、ってこと。」
美月の冗談に、茉莉はようやく張り詰めていた肩の力を抜き、笑いながら頭をかいた。
「ほんと、美月がいてくれて助かるよ。」
スタジオに笑い声が響き渡り、少しだけ重苦しい空気が和らいだ。その瞬間、茉莉の頭の中に一筋のメロディが浮かぶ。
「あ…!」
思わずピアノに向かい、鍵盤に触れる茉莉を見て、美月は満足げに頷いた。
「ほらね、辛ラーメンとタバスコの効果だって。」
「絶対関係ない!」
茉莉は笑いながらも、ピアノから響く音に集中していた。音楽はまだ未完成だけど、確かに続いている――そう感じながら。
次回の更新は
1月8日(水)0時00分です!お楽しみに!