第1話 高校の卒業式と引っ越し準備
本当にこれでよかったのかなって、今でも考える時がある。
なにかが変わったんだと思う。
けれど、なにが変わったのかは、実のところよく分かっていなかった。
高校生活最後の日。卒業式は涙も出ず、至極あっさりとしたものだった。
周囲は肩を寄せ合って、泣いて、また、とか、絶対、とか、約束しているのに。どうにもそういうやり取りを冷めて目で見てしまうのは性分なのかどうか。
感情的になるほど、親密な関係を作ってこなかったからかもしれない。もしくは、僕が冷めてる人間だからか。
固まる人垣を超える。校門では、『卒業式』と書かれた看板近くで、写真を撮っている親子が居た。同じように撮ろうと思っているのか、付近には何組かの待ちもあって、アトラクションかなにかと見紛う。
そのまま卒業証書を鞄に差したまま、一人歩道を歩く。
寂しいとか、虚しいとか、そういった感慨はなく、日常の延長線。至って、心は平坦だった。
けれど、マンションに近付いていくに連れて、少しだけ脈が早くなる。玄関のドアノブに手をかけると、手がこわばっているのに気が付いた。
まぁ、なるようになってるよなぁ。
そう思いつつ、玄関を開けて――あー。と、口から諦めの声が零れた。
「……終わらないよねぇ」
玄関にはダンボールの山が積まれていた。引っ越し用の物で、見たことのある黒い猫が僕を見てくる。
うげー、と肩を落とす。今日は式だけだったとはいえ、帰って早々これではやる気も出ない。開けっ放しの下駄箱の扉を避けるように靴を脱いで部屋に上がっていると、奥からスリッパの音が聞こえてきた。
「……おかえり」
ダンボールの影からひょっこり顔を出したのは、黒いノースリーブ姿の鎖錠さんだった。引っ越し作業をしていて熱いのか、額にうっすら汗が浮かんでいる。少し伸びた髪を後ろでまとめて、動きやすさ重視なのだろう。
つい、その姿に魅入ってしまう。
初めて出会ってからおよそ3年の月日が経っている。
高校生活のほとんどを一緒に家で暮らしてきた。それだけいれば、どんな美人でも見慣れて飽きそうなはずなのに、鎖錠さんに関してはどうにもそんな当たり前は通じないらしい。
時間と共に魅力は増していくばかりで、ふとした瞬間に見せる大人っぽさに呼吸を忘れるなんてしょっちゅうだった。
「なに?」と訊かれて、なんでもないと首を横に振る。こうしたやり取りは、何年経っても変わらない。
けど、と。
呼吸を忘れるぐらいならともかく、心臓を止められそうなんだよなぁ、とも思う。
比喩だけれど、そのうち本当にそうなるんじゃないかと危惧している。恐ろしい娘だと思っていると、いつの間にか視界一杯に鎖錠さんの顔が広がっていた。
なにもかも投げ捨ててでも眺めて続けていたくなる美貌。
「――」
時間を止められたように固まっていると、そのまま唇を押し付けられた。離れて、ふにゃっと崩れた。
「……おかえり」
「…………た、ただいま」
触れた柔らかな感触。手の甲で唇を押さえながら、鎖錠さんから視線を外す。どうにも、慣れない。
キスをされるようになっていた。
照れもなく、恥ずかしげもなく、ただ嬉しそうにその艶やかな唇を僕に押し付けてくる。
高校1年の秋。鎖錠さんと、彼女の母親が三者面談をした日から。
――好き
――――愛してる
そう言われて、キスをされた。
あれで箍が外れたのか、鎖錠さんは好意を隠すことはなくなったし、恋人みたいに甘えてくるようになった。
キスもその一環。
最初こそ慌てたし、なんだったらしっちゃかめっちゃか暴れて取り乱したけれど、毎日のようにキスをされてれば、どんなヘタレだって慣れる。いや、僕がヘタレってわけじゃないけれど。
とはいえ、不意打ちは未だに照れるし、そうでなくっても、鎖錠さんの唇が触れるたび、背筋を沿うようになにかが疼く。
「まだ、片付いてないから、手伝って」
「はい」
こんな大胆なことをしておいて、鎖錠さんは照れる様子もなく引っ越し作業に戻っていく。冷めた態度は相変わらずだった。
ルーチン作業かなにかとでも思われてるのだろうか。機械的に、と思うとちょっと寂しくなる。
まぁ、流石にそんなことはないってわかってるけど。
鞄を置きに、部屋へと向かう。
こっちはほとんど手付かずで、開いたダンボールが1つあるだけ。肩からかけていた鞄をベッドに投げる。弾む。
お帰りのキスとかしておいてなんだけど、僕と鎖錠さんは恋人というわけじゃない。多分、恐らく、そのはずだ。
明確に付き合ってと言ったわけでも言われてもいない。
友達なのか、お隣さんのままなのか。関係性は以前と変わらず曖昧なままだ。今日付けで、同級生でなくなったことは確かだけど。
高校1年生の時に、一緒の家で暮らすようになって。
そこから、なにも変わってはいない。ずっと、その延長線上を過ごしている。
お互いに成長していて、やってることも変わっているはずなのに、根本的な部分はそのままだ。
「それもどうなんかなぁ……」
思う。けれど、恋人という括りに収めたくなくって。今の関係に満足している自分もいる。
そして、鎖錠さんも、概ね満足していそうだ。じゃないなら、げしげし脛を蹴り飛ばしてくるはずだし。
「なにがどうだって?」
「……びっくりするから、急に声かけないで」
「驚いてないでしょ」
そうだけど。絆創膏の貼られた頬をかく。
独り言とわかってはいるんだから、ほっといてくれと鎖錠さんの背中を押して部屋を追い出す。そのままリビングに行くと、ダンボールや荷物が散乱していて、引っ越しの真っ最中そのものの惨状にうげーっと苦い声が出る。
「これさぁ……今日中に片付く?」
「片付けるしかないの」
「わかってるけどさぁ」
嘆息。
今日は高校の卒業式。そして、この家に居る最後の日だった。
荷物をまとめて家を出る。
引越し先は、これから通うことになる大学近くのアパートだった。大学はここから通えない距離ではないけれど、通学にバスや電車と交通費がかかるし、時間だって無駄になる。
それなら引っ越したほうがかしこいよね……――というのは、まぁ、半分建前みたいなもので。
実際は……。鎖錠さんを見る。
「……?」
一種のけじめなのかもしれない。
高校だけと定められた、マンションでの期間限定の同居が終わる。これから始まるのは、お互いに話し合って決めた、正式な同棲。
まさかこんな風に鎖錠さんと一緒に引っ越すなんて……と感慨に浸るには長く彼女と暮らしすぎた。
感動なんてない。
どちらかといえば、これまで住んでいた場所から引っ越すのが初めてな僕は、鎖錠さんとの同棲が続くことよりも、引っ越しに対する期待と不安ばかりがあった。
その心の動き方に、自分のことながら呆れもあるのだけれど。
一緒に居るのが当たり前になってるから、心配もなにも思わないのかなぁ、なんて。考えたら、妙な気分になる。
「……ん」
「…………いや、なんでさ」
見てたらキスされた。「違った?」と首を傾げられ、唇を真横に伸ばす。違うと言えば、全く違うのだけれど、否定する気にもなれなくて、「いや別に」と濁す。
甘い雰囲気があるわけもなし。なんだか飼い猫に甘えられている気分だ。猫、飼ったことないけど。
「これはいらない、捨てる……」
気にした素振りもなく、テキパキと引っ越し準備を進める鎖錠さん。
ダンボールよりもごみ袋に突っ込んでいるのが多いのは少し気になる。あ、それは修学旅行で買ったよくわからないけどなんだか格好良い龍の剣。それはとっと……、はい、いらないです。
見ているだけというのも悪いので、僕も手を動かす。
いる、いらないの仕分け……は、鎖錠さんがやっているし、手出しをすると睨まれるので、一杯になっているゴミ袋を縛っていく。
春先とはいえ、制服を着たままでは暑い。窓は開いて風は通っているけれど、ブレザーでは熱がこもってしまう。
ネクタイを緩め、ブレザーを椅子にかける。胸の花飾りを取って……手で弄ぶ。
「鎖錠さんはさ」
「なに?」
「本当に卒業式、でなくてよかったの?」
スニーカー文庫様より
『玄関前で顔の良すぎるダウナー系美少女を拾ったら』2巻
本日(6月28日)発売!
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