第7話 最初から鎖で繋がっていた
考えてもみなかった。「そ、そう、なのか……」。動揺で声が震えている。
ただ、普通に考えれば当然の提案で。
考えなかったのではなく、考えたくなかったんだというのは、自分のことながら直ぐに理解できた。
「……今の仕事も辞める。
男とも関係を持たないからって」
鎖錠さんが心底嫌っていた母親。その根本となっている部分を直すと、鎖錠さん母は約束したらしい。
元に戻りたい。娘とより良い関係を築きたい。
そう望むのであれば、当然の選択で、最低限のライン。
実際どうなるか。
約束を守り切るのか。それとも、反故にしてしまうのか。
それはこれからの鎖錠さん母の努力次第だけど、その前に鎖錠さんが母親の提案を飲むのかどうか。
鎖錠さん母娘のことを考えたら、一緒に暮らすべきなんだろうけど。
それが母娘というものだし、普通の家族だ。
鎖錠さんの幸せを一番に据えるのであれば、背中を押すべきなのだろう。
でも、なぁ。
躊躇いがある。
鎖錠さんとの生活は楽しくって、もう僕の日常の一部と言っていいぐらい浸透している。
飲み込みきれない苦味が口の中に広がった。
「どう……答えたの?」
肯定か、否定か。
上から僕を見下ろしながら、鎖錠さんは言う。
「もう会うつもりはない」
と。
彼女の言葉に安堵と。
本当にそれでいいのか? という疑念が生じる。
考えようと眉間に力を込めるけど、鎖錠さんは待ってはくれない。
「今更なにを言われようが、養われるつもりはない。
……それに絶対に止められないから」
目を伏せ悲しそうに。けれど、吐き捨てるように言う。
「一時的に止めたとしても、また同じことを繰り返す。
あの女はそういう人」
――今度は、もうないんだ。
あぁ、これは絶縁の言葉だ。
ジョキン、ジョキン、と。
どこからかハサミの閉じる幻聴が聞こえてきた。
血という名の縁が、確かに僕の前で断ち切れた。
鎖錠さんの黒曜にも似た瞳に反射して、苦い顔をした僕が映り込んでいる。
嬉しいとも、悲しいともつかない表情。
「大嫌い。だいっきらい。顔だって見たくない。
なのに、あの女に似ている自分を鏡で見ると思い出したくないのに記憶が呼び起こされる。
本当に、嫌い……」
けど、と。
「……ここまで育ててくれたことには、お礼を伝えた」
義務は果たしたとでもいうように、鎖錠さんは言った。
その言葉は、誰への救いなのだろうか。
鎖錠さんか。
鎖錠さん母か。
……それとも、僕か。
脱力していた腕を持ち上げ、手の甲をコツンッと額に乗せる。
……どう受け止めればいいのか。
鎖錠さんの顔が目の前になかったら、ため息ぐらい零していただろう。吐き出せない感情が内に溜まり、心を重く沈ませる。
良かったね、なんて喜んでいいものじゃないし。
だからといって悲しいね、なんて同情することでもない。
なんでかなぁと考えて、あぁ……と実感する。
こうして巻き込まれ、あれこれ悩んでいるけれど、結局のところ僕は第三者でしかなかったからだ。
決意も決断も。
全ては鎖錠さんのモノで、僕は傍観者でしかないのだから。
そりゃなんも言えないわな。できることといえば、感情移入するぐらいか。
はは……と内心乾いた笑いを零すと、不意に頬に手を添えられてドキリとした。
驚く。外していた視線を天井、鎖錠さんに合わせる。
彼女は笑っていた。
自嘲するような笑顔ではなく。
初めて笑った幼児のように、拙く、けれども純粋に。
「私とリヒトは違うけど」
そっと頬に添えられた手が動く。彼女の親指がつーっと首を切るように撫でてくる。
「リヒトが家族よりも私を選んでくれたように、私もリヒトを選んだ。
リヒトさえいればいい。リヒトさえいれば……他になにもいらない。
必要は――ない」
ぎこちなく、子供のように無邪気に笑う鎖錠さんの言葉に、ぞっと背筋になにかが走った気がした。
ようやく理解した。
社交的になったと思っていた。
今までズレていた世間との価値観がカッチリ嵌ったように。普通になったと。
厭世的で、擦れていて。
なにもかもが嫌になっていた彼女の世界が少しずつ広がっていく。
僕から巣立つように離れていっていると、……そう思っていたのに。
実際にはその真逆で。
「これからも一緒に居よう……ずっと」
僕と一緒にいるためだけに、行動していたの?
家を出たのも。
学校に行くのも。
勉強するのも。
バイトを始めたのも。
全部、全部全部……。
僕と一緒にいるためだったっていうの?
嬉しいなんて感情は湧いてこない。
ただただ困惑ばかりが胸の内を渦巻いている。
心に重く沈んだ感情が黒く濁り、表に出すべき感情がわからなくなる。
きっと今でも鎖錠さんは母親のことが嫌いなはずだ。
それでも向き合おうとしたのは、彼女が精神的に成長したからだ。そう思っていた。
だけど、そうじゃない。既に鎖錠さんの中で母親は二の次になっていただけだ。
かつて、生きることを諦めようとした原因である母親が、だ。
縛っていないなんて、繋いでいないなんて嘘だった。
全ては勘違いで、勘違いしたままここまで来てしまった。
最初からずっと。あの雨の日。
隣室の玄関の前で蹲る少女を拾った時から――僕は鎖錠さんを縛りつけていた。
きっと、彼女はもう……僕なしでは生きられないのだと悟る。
人一人を支える。
自覚もなしに預かってしまった命に目眩を覚える。視界が明滅し、今にも気を失ってしまいそうだった。
このままなにも考えたくない。眠ってしまいたい。
薄く瞼を閉じて、熱でのぼせる頭の電源を落とそうとしたけれど、鎖錠さんは許してくれなかった。
「リヒト……」
名前を呼ばれる。
鎖錠さんの黒く輝く瞳がだんだんと大きくなり、瞼で塞がった。
「……っ」
「……ん」
――キスをされた。
唇と唇が触れ合うだけの、幼い口付け。
なにをされたのかわからない。抵抗なんてできやしなかった。
ただ酷く柔らかく、冷たかったのだけは覚えている。
唇を離し、視界に映った鎖錠さんが嫣然と笑う。
「好き……愛してる、リヒト」
愛を口にする鎖錠さん。
その想いになんて返せばいいのかわからないまま、無意識に口を開こうとしたけれど、それは叶わなかった。
言葉なんていらない。
そう言うように、二度目のキスで唇を塞がれたから。
初々しい口付けだったろうか。
それとも、荒々しい貪るような接吻だったか。
どんなキスだったかなんて、記憶に残らないほどに。
鎖錠さんは唇と愛を、無我夢中で僕に押し付けた。
◆第3部_fin◆
__To be continued.
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