第5話 謝るのは2人で
口を開いたが、声なんて出なかった。
偶然母親と会ったなんて言い訳は最初から意味がなかったのを悟るには十分過ぎる威力があった。
たった1枚の小さなメモ紙が、今の僕には断頭台の刃に見える。
というか、どこで見つけたんだ?
そもそもどこかにしまっていたのか、それとも捨てたのかすら覚えていない。
はからずも、僕の疑問に答えたのはウサギの耳をひらひら揺らしている鎖錠さんだった。
……その眼光は、とてもウサギとは言えない鋭さだけれど。
「隠すつもりならもっと上手く隠して。
あと、ポケットに物を入れたまま洗濯に出さないで」
洗い物が大変なことになるからと鎖錠さんは言うが、大変なのは僕の頭である。
自分の間抜けっぷりに泣きたくなった。
そりゃ、気付くよね。見もするよね。バレバレだよね。
そんな前から気が付いていたのかと、己の鈍さを今更になって恥じる。
顔を隠しておぅおぅと声なき声で恥じていると、鎖錠さんが「一応訊くけど」とチクリと棘のある声で確認してくる。ワントーン、声が低くなったのが余計に怖い。
「……あの女とそういう関係って、わけじゃない……よね?」
「違うよっ!?」
ブンブンブンと顔を隠した両手を突き出して横に振る。
「違う違うほんっっっっっっとに違うからねっ!?
いや、この状況で信じてとか言えるほど、信用が残っているかわからないけど!
自分のことながら浮気男みたいだなーなんて思うけどもね!?
それだけは、違うからっ」
力強く言い切る。
同居している女の子と母親と関係を持っているなんて誤解をされたら、色々な意味で生きていける自信がない。
同居的にも。社会的にも。
鎖錠さん母に魅力がないというわけではない。鎖錠さんと良く似た容姿だし、胸はおっきいし……でも、肉体関係を持つというのはそういうことではなかろうと、経験のない僕は思うのだけれどどうでしょう?
「その……最初はほんとに偶然で。
鎖錠さんのことを相談されて、さ。
黙って会うのはどうかとは思ってたけど、鎖錠さんに言ったら気にしそうだし。
なんか、なにも言わずに娘が引っ越しさせちゃってるのは申し訳なかったし…………」
言葉が途切れる。
最初から最後まで。
もう少し詳細に説明するのが誠意かとも思ったが、多分、そういうことじゃないんだよなと。
震える唇を抑えるように噛み、顔を上げる。
じっと見つめてくる鎖錠さんに負い目を感じながら、僕は頭を下げた。
「隠していて。
勝手なことしてごめんなさい」
誠心誠意の謝罪。
言葉を尽くすのではなく、言葉に思いを込める。
「……そう」
と、頭の上を短い返答が通り過ぎた。
僕の思いが伝わっている……なんていうのは、謝った側のそうなってほしいという願望でしかないだろう。
ただ、声に怒っている様子はなかった。
頭を上げるタイミングがわからず、おっかなびっくり顔を上げる。
「怒ってない……?」
上目気味に問う。
まるでイタズラした子供そのままの態度。
自分自身に情けなさを覚えつつも確認すると、ジト目になった鎖錠さんがキッパリと告げた。
「怒ってる」
「ごめん」
再び頭を下げようとすると「別にいい」と静止がかかる。
テーブルに両手を付き、背中を丸めた半端な態勢。
この『いい』というのは、謝罪を受け入れたということ? それとも、頭を上げてもいいっていうこと?
わからないまま固まっていると、「早くそのみっともない行為を止めて」と言われて慌てて背筋を伸ばす。
すると、目に入ったのは口元を片手で覆い、黒い瞳だけ横を向く鎖錠さん。
バツが悪そうというか、なんとも言えない反応をする鎖錠さんが言う。
「……リヒトがそういう気遣いをする人だってのはわかってた。
わかってたのに、甘えて、知らないフリをして過去を清算をしなかった私の責任でもある。
最低でも、引っ越しについては私が伝えるべきだった。ごめん。
私に言い難かったのも……まぁ、わかるから。
謝らないで」
「鎖錠さん……」
思ってもいなかった言葉に、なんだか感動してしまう。じんっと心が震える。
少し前まで、こんな風に言える余裕なんてなかったのに。
ちゃんと現実と向き合って折り合いをつけようとしていることに驚きとともに嬉しさも込み上げてくる。
同時に、淡い寂しさも。
もしかしたら、この不思議な同居生活は――
「でも、今度同じことをしたら…………こう、ぐちゃっと」
「なにその潰す音!?」
鎖錠さんが持ち上げた手をぐっと握り込む。
潰す気っ!? 僕のナニを潰す気ですかっっっ!?
ガクガク震えながら絶対にしないと約束すると「なら、いい」とコクリと頷く。
こわぁ。今日一番の恐怖を感じた。どこがとは言わないが、ヒュンってした。
額に浮かぶ脂汗を拭うと、「……夕飯、準備するから」と何事もなかったように鎖錠さんが立ち上がる。
話は終わりということらしい。
テーブルを周り、僕の横を通り過ぎてキッチンに向かおうとする鎖錠さんを見上げて。
1つだけ、言い忘れたことを思い出した。
「鎖錠さん」
呼び止めると、僕の丁度真横で立ち止まった彼女が見下ろしてくる。
下から見上げると、夜の天幕のようにも見える瞳を見つめて、僕は口を開く。
「お母さんが鎖錠さんを心配しているのは本当だから。
僕が言うことじゃないんだろうけど、訊くだけ訊いてあげて」
そういうと、鎖錠さんは毒を吐くように「……お人好し」と零す。
余計なことを言ったかも。
蛇足だったかなぁと心配になったが、続く彼女の言葉でそれが杞憂だと直ぐにわかった。
「安心して」
僅かに頬を緩め、鎖錠さんは小さく微笑む。
「あなたに拾われる前。
びしょ濡れの捨て猫みたいに玄関の前で丸まっていた私とは違うから」
ちゃんと言う、と。
それだけ言い残して、今度こそキッチンの影に消えていった。
――そして、日は過ぎ。
隣室同士でありながら、これまで会うことのなかった母娘が再会を果たす。
……僕のいないところで。






