第1話 先生からのお礼と気付きたくなかった問題
10月に入り、秋も半ばを過ぎ去ろうとしていた。
落ち着いた天候と気温が続き、1年通した中でも過ごしやすい日々が続いていた。
ここから段々と寒くなっていくと思うと憂鬱な季節でもある。
早々にコタツを出そうか、と考えるぐらいには寒いのは苦手だった。
ただ、穏やかで過ごしやすいからといって、生活も快適とは限らないのが辛いところなのだけれど。
「日向さん、ありがとうー!」
睡魔が残り、瞼が開ききらない中、登校一番に呼び出された僕は廊下の隅で先生に涙ながらにお礼を言われていた。
例のごとく一緒に登校した鎖錠さんは、僕だけ呼び出されるとやや不機嫌そうにしながらも教室に入っていった。
お礼を言われた結果、鎖錠さんのご機嫌が下がる。
そんなことになるぐらいならありがとうなんていらないのだけれど、だからといって突っぱねるわけにもいかず、「はぁ、そうですか」としか口から出てこなかった。
そもそも、なんのお礼かもわかってないし。
「なに? その気の抜けた返事は」
ぶー、と良い歳した大人がアヒルみたいに唇を尖らせている。
最近、鎖錠さん関連で良く話すせいか、それとも生徒に泣きつくなんて情けない姿を見せてしまったせいか。
どうにも、こうして2人で話す時は子供っぽいというか、キリッとした大人らしい態度が鳴りを潜めることが多くなった。
新任で、元々そういった親しみやすさから生徒にも人気な先生だが、僕個人としてはもう少し頼りになる面を見せてほしいと思ってしまう。
まぁ、思ったところで、今更ではあるのだけど。
「気の抜けた返事と言われても」
熱血な感じでこっちも「先生! こちらこそありがとうございます!」と返すべきだった?
別にやってもいいけど、お礼の理由を知らないだけに白々しさばかりが目立つと思うのだが。
「なにに対してのお礼ですか?」
「わかってなかったのね」
やれやれしょうがないとでも言うように、両手を上げて肩をすくめられる。
その態度にイラァと。
クソガキ妹を相手にした時のような、苛立ちがこみ上げてくる。
この先生。実はお調子者だな? そして、失敗して泣くタイプと見た。
鎖錠さんの件にしても、他の先生たちに持ち上げられて調子の良いことを言っていたら、再び不登校になって泣きを見たんじゃないかと勘ぐってしまう。
新任の先生がベテラン教師に向かって鼻高々教師論とか語っていたら失笑ものだが、流石にそこまではないと思いたい。
……ないよね?
「三者面談のことよ。
鎖錠さんのお母様から連絡があって、出席する旨と日程を伺ったわ」
日向さんがプリントを渡してくれたんでしょう? と言われ、あー、と納得する。
同時に安堵も。
そっか。ちゃんと会う気なのか。
三者面談に出席する連絡をするのに。
一度離れてしまった娘と向き合う決断をするのに。
どれだけの恐怖があり、どれだけの覚悟が必要だったのか僕にはわからない。
ただ、それに並々ならぬ思いがあったことだけは理解できて。
逃げ出さなかったことに凄いなという感心と尊敬。そして、少しばかりの羨望を抱く。
鎖錠さん母と同じ立場になった時、多分僕は踏み出すことなんてできはしないから。
情けないなぁと自嘲する。
けれども、今だけは素直に良かったと喜ぼうと思う。……思ったのだけれど。
ん?
と、疑問が過る。
三者面談に鎖錠さん母が出席するのは良い。良い出来事だ。拍手を送りたい。
ただ、三者面談というのは鎖錠さん母だけの問題ではないというか、むしろメインは子供側なわけで……。
んん……?
眉を潜める。前髪の生え際からじわりじわりと汗が滲み、顔を撫でるように落ちていく。
虫の知らせというよりは、理解できるのに脳が理解を拒んでいる状態というか。
1+1の答えを問われて『なんだろう? 田んぼの田?』とか苦し紛れに誤魔化そうとしている感覚。
知りたくないなら考えなくてもいいのでは?
なんて。丸わかりの答えから目を背けようとしたけれど、空気を読まない先生が、先生らしく答えを合わせをしてくれる。
「本当に良かったわ。
もしかしたら鎖錠さんは出ないとか言い出すんじゃないかと思ってたから」
安心したと。大してありもしない胸を押さえて安堵の息を零す先生の前で、僕は脳が攣ったような痛みに襲われる。
頭を抱える。もしやと思っていたが、まさかのまさか。
これ……鎖錠さんまで話いってないよね?
僕は話していない。
鎖錠さん母とて、出席の連絡を先生に伝えただけだろう。
先生は……ないなと直ぐに希望を紙屑のように投げ捨てる。
そもそも三者面談の件を鎖錠さんに伝えておいてと縋り付いてきたのは先生だ。
母親から連絡があったからといって、鎖錠さんに確認するわけもなかった。
じゃあ、誰が鎖錠さんに『三者面談に出てね』と伝えるのかといえば、鎖錠さん母に『場を設ける』とか考えなしにほざいたどこぞのリヒト君なわけで……ぬおー!
「これで私の教師生活も安泰ね!
お礼に飴ちゃん食べる?」
「……いただきます」
先生からリラックスのど飴を貰い、その場で舐める。
ただ、いくら舐めようがリラックスするなんてことはなく。
名前詐欺だと八つ当たりをしつつ、どうやって鎖錠さんに話を切り出すのか今から頭が痛かった。






