第5話 魔王(服飾部)からは逃げられない!
逃げたいな、と思った。
けれど、それは今更で。今日は帰りたくないの……なんて彼氏の家の前でデートの後を期待する乙女のようなことを考えて、放課後の教室にウダウダと残っていた罰かもしれない。
さすりさすりと。
少女は握手している手の指先で、僕の手首を撫でてくる。
ぞわりと手首から広がるように身体が小さく震えた。
地味な攻撃。だが、僕には効果覿面で、下唇を噛んで塞いでいた口をわななかせながら開いてしまう。
「……別に」
なんて、鎖錠さんのようなことを言いながら逃げようとしたが、
「まぁ、どーせ鎖錠さんのアルバイトのことなんだろうけど」
あっさり図星を刺されて押し黙る。聞こえてたんかい。
なんだか恥部を晒したような気分で、頬に熱が集まった。
照れ隠しも合わさり、ぶすっと唇を尖らせる。
「……男らしくなくて悪かったな」
「んー?」
喉を鳴らした少女は、首をゆるゆると左右に振った。
「いやぜんぜん?
私は良いと思うよ。
素晴らしい。むしろもっと頂戴?」
ウェルカームと掴まれている手を引っ張り上げられて、立ち上がる。
勢い余って級友女子に倒れ込みそうになってしまう。「おっとっと? ごめんね?」と照れる様子もなく軽く謝罪する彼女に、なんとも言えない気持ちになりながら、繋いでいた手を離す。
そして、疲れたように、落ちるように椅子に座り直した。
正直、この娘に打ち明けるのは不安でしょうがないんだけど。
ちらりと少女の顔を伺う。
わくわくと目を輝かせる野次馬ちゃん。
辟易するも、ここまで内心を見透かされていては今更かと諦める。
根も葉もない噂を流されるよりはマシだろうと思うことにした。
それに、誰かに話したいというのも、本音だった。
口にするのが躊躇われ、「……その」と意味のない言葉を吐き出したが、一度話し出すと唇に油を塗ったように滑らかで、抱えていた不安や寂しさがスルスルと吐き出されていく。
「……ちゃんとやれているか心配っていうか。
鎖錠さん、こういうの初めてだろうし、そもそも人付き合い苦手だし。
接客なんてちゃんとできんのかなとか、変な奴に絡まれてたりしないよなとか考えるとどうにも。
それに、なんというか、離れていくようで……」
「寂しい?」
彼女の合いの手に、こくんと頷いた。
クラスメートの女子になに言ってんだ僕は。
そう思う反面、吐き出した分だけ溜まっていた石を吐き出すように心が軽くなる。
単純だなぁと思う。
けど、そういうモノなのかもしれない。
抱えれば抱えるほど、想いは重くなって心に淀みを生むけれど。
相手が誰であれ、一度吐き出してしまえば、その分だけ軽くなるのは当たり前のように思えた。
正直、野次馬根性丸出しの級友女子にお礼を言うのは癪なのだけど。
まぁ。うん、と。
理由はどうあれ、助けてもらったから『ありがとう』と口を開こうとすると――
「美人だからきっとナンパとかされちゃうんだろうねー」
――ビシリッ、と。
身体が石になってヒビが入ったような音が鼓膜を打った。
ナン、パ……?
想像したくなくても、強制的に頭の中に思い浮かぶ光景。
喫茶店で働く鎖錠さんに、声をかける男。
『きみかわうぃーねー? ぼくちんとおちゃしなぁい?』なんて軽いノリのクソ野郎を想像した途端、プツンッと心の奥でなにかが音を立てて切れた。
それがなんだったのか、僕にはわからなかったけれど。
身体は即座に反応して、立ち上がっていた。
無意識だった。無造作に鞄を掴み、そのまま教室の出口を目指すように足が動いていた。
頭の奥の奥。どこかでなにかが蠢いている。
「……そのまま行くと鎖錠さんにバレちゃわない?」
どうしたの、でもなく。どこ行くの、でもなく。
全てわかっていますよと言うような級友女子の言葉に、自動で動いていた身体が電池切れを起こしたように固まった。
急に関節が錆びついたように動きが鈍くなる。
そうだ。
なんで鎖錠さんのバイト先に向かうのかはともかく。
このまま行っては鎖錠さんに見つかってしまう。それはなんだかよろしくなかった。
『……なにしに来たの?』
と、冷めた目で見られる未来が容易に想像できる。
素直に不安だったからと口にしようものなら、『子供じゃない』と突っぱねられそうな気がする。というか、そうなると思う。
そして、機嫌が悪くなって、重苦しい空気の夕飯。カチャ……カチャと食器の音だけが響くリビングを脳裏に描く。
離婚秒読みの夫婦の図。
それは嫌だなぁ。手から力が抜けてドスンッと鞄が音を立てて落ちた。
そうならないためにも、わざわざ鎖錠さんのバイト先を覗きに行くなんて止めたほうがいいのだろうけど。
――美人だからきっとナンパとかされちゃうんだろうねー
級友女子の何気ない言葉がリフレインされる。
ねー、ねー、ねー……と頭の中で反響するのがうざったらしい。
気になる。けど、行ったら絶対怒られるし。
カツカツと、苛立たし気に踵で床を叩く。猫のようにその場をグルグル回ってしまう。
なにかしてないとどうにも落ち着かなかった。
「ふふふ」
不意に少女が笑う。
鬱陶しげに睨みつける。
そもそも、こんな悩みを抱えることになったのは、級友女子の不用意な発言のせいなんだからな? と強めの視線で訴えるが、猫口にして「にゅふふ」と笑う彼女には効果がなかった。
僕の視線なんて気にも止めず、級友女子はえっへんと出っ張りの少ない胸を張る。
「あなたのお悩み、服飾部の私にまっかせーなさい!」
トンッと手の平を胸に添える級友女子改め服飾部部員。
あ……なんだか嫌な予感と思った時には、魔王が世界征服を成し遂げてしまったぐらい手遅れで――
両手を顔の脇まで持ち上げ、怪しい手つきでワキワキさせてにじり寄ってくる。
「じゃあ、ちょーっとお着替えしましょうねー?」
「あ、や、わっ……!?」
あ――――――――――――――――――――――――――――――ッ!?
■■
「いらっしゃいませー」
喫茶店。
ドアベルの涼やかな音色と共に店員さんに出迎えられたのは、薄ピンクのブラウスと黒のスカートで身を飾った――僕。
「…………なにやってるのかしら、私」
と、喉を痛める高音ボイスと女性言葉で泣き言を漏らした僕は、晴れやかな笑顔を浮かべ、心の中で涙を流した。
しくしくしく。
◆第3章_fin◆
__To be continued.






