第2話 娘さんを僕にくださいに似ている
「もしかしてなのだけれど……。
違っていたらごめんなさいね?」
そう先んじて謝罪してくる鎖錠さん母にひやりとしてしまう。
コーヒーを飲み干したばかりだというのに、もう喉がカラカラで口がカサカサだ。唇を舌でなぞると、小さく皮が捲れていた。
リップクリーム塗らなきゃ。なんて、塗ったこともないのに考える。
現実逃避をしている場合じゃなかった。
あの母娘関係ならありえる。
引っ越しすることを、またはしたことを伝えないことも。ありえると思ってしまう。
それぐらいの、冷めきった関係性。
そもそも、会話したのが何年前なのかと記憶を掘り起こさなければいけないのではなかろうか。
母娘なのに。一緒に暮らしていたのに。
世の母娘全員が仲が良いなんてことはありえないので、そういう家族がいてさもありなん。
けどさ。
せめて妹は僕に伝えておくべきではないの?
そうすれば、事前に僕から鎖錠さん母に引っ越ししますと伝えられたのに。
……考えて、いやぁ、と口がへにょる。顔が熱くなる。
なんだか、……それは。
娘さんを僕にくださいみたいな、そういうシチュエーションに近しいものを感じ取る。
だって、家から出るし。僕の家に住むし。2人で同棲だしだし。
そうした事実を踏まえた上で、鎖錠さん母に引っ越しの事実を淀みなく報告できたかというと、ちょっと自信ない。
そして、事後報告になった今、ちょっとしかなかった自信はもはやガラスのコップの中で溶けて小さくなっている氷ぐらいのサイズしかないわけで。
もはや三者面談を伝えるどころじゃなかった。
緊張で呼吸がし辛い。これまで感じたことのない胃の痛みを感じる。
お腹を擦るが、痛みが引くことはなく、鈍痛のように奥底に残り続けていた。
「日向さん……?」
とはいえ、言わないわけにもいかない。
眉根を寄せてこちらを気遣ってくる鎖錠さん母に、僕は唾を飲み込んでどうにか口を開く。
「その……すみません。
仰る通り、娘さんは僕の家に泊まっているというか、引っ越して来まして。
……えっと、だからー、あの。
事前にお伝えできず、申し訳ありませんでした」
机に付きそうなぐらい、頭を下げる。
もはや誰が悪いとかではない。
深く考えず鎖錠さんの引っ越しを受け入れてしまった僕に責任があるのだ。
遅くなったとはいえ、せめて誠意は示したかった。
「あ……!
いえ、そうじゃないの。
ごめんなさい。
怒ってるわけでも、謝ってほしいわけでもないの。
頭を上げてくれないかしら?」
「でも、流石に保護者に無断で引っ越しというのはやり過ぎでしょう」
「日向さんは知らなかったのでしょう?」
「そうですけど……」
煮え切らない言葉を吐きながら、ゆっくり頭を上げる。
どんな表情をしているのか。
少し見るのが怖かったけれど、鎖錠さん母の顔に怒りの色はなく、穏やかで、けれどもやっぱり淋しそうな顔をしていた。
「うん、いいのよ。
そうさせてしまった私にこそ原因があるのはわかっているわ。
むしろ、良かったって思う。
居なくなって、生きているかどうかもわからないままあの娘の身を案じているよりもずっと良い。
だって、お隣にはいるんだもの。
まだ、会える距離にいる。
それだけで、私には救いだわ」
語る声は切実で、想いが込められている。
母親が娘を心配する。ただ、それだけの気持ち。
だからこそ、行方不明になって生死がわからなくなる事態がありえたという彼女の言葉に、複雑な感情を抱く。
叱ればいいのか、慰めればいいのかわからない。
ありがとう、と彼女は言う。
勝手をした僕にお礼を言わなければならないほど、鎖錠さんは危うかったのだと自覚していたように。
瞼を閉じる。目元に力がこもる。
「あー……」
不審に思われるのも構わず、顎を上に向ける。
首の皮が張って、喉仏が出っ張っていく。
……なんというか、受け止めきれない。
素直な感想だった。
優しい、とは照れくささがあって言えないまでも、ちゃんと面倒を見てくれている両親に。
ちょっと頭がぶっ飛んでいるとはいえ兄妹仲は至って良好な妹。
なに不自由せず、至って普通の家庭で育った僕には、この母娘の関係は理解できない。
わかる、なんて。安易に使っていいはずもなかった。
というか、普通に重すぎるんだよほんと。
母娘揃って、関係も、感情も。
喫茶店内を照らす淡い電光が瞼を通して視界を照らす。
グッと肩を後ろに反らせる。
はてさて。なんと言ったものか。
これが少女漫画に出てくるようなイケメンヒーローなら、冷え切った母娘仲をどうにかしようと心に燃料を投下して、燃えたぎる愛でもって奔走するのだろうけれど。
生憎と、僕はイケメンでもヒーローでもないのだ。
物語の主人公にはなれないし。なる気もない。興味すらなかった。
普通の高校1年生。それこそ、どこにでもいると、枕詞が付くような平凡さだ。
それがなんでこんな……どうしてこうなった。
頭の中で何百回と問い続けるけれども、決まって答えはあの梅雨。鎖錠さんを拾ったことに起因して。
なんだ。結局、因果応報じゃんと自分に返ってくるのだからもはや笑うしかない。
だらんと座っている椅子の下に両手を垂らして……はぁ、と。深く深く、ため息を零した。
あんまり、さ。
鎖錠さんの家庭事情に首は突っ込みたくなかったんだけど。
お互い相手の事情に踏み込まない。そんな暗黙の了解を破るようで罪悪感を覚える。
ただ、僕も悪いし。正直、鎖錠さんも悪いので。
しょうがない、と。少しだけ踏み込むことにした。
ゆっくり瞼を開く。ガタンッと椅子を鳴らしながら、だらけていた身体を起こす。
目を丸くする鎖錠さん母に、僕は言う。
「一度、鎖錠さん……娘さんも含めて話し合う場を設けませんか?」
そういうと、小さく開いた唇から「……え?」と零し、鎖錠さん母は瞳を大きく大きく見開いた。






