第2話 駄教師の片鱗
呼び出されるまま教壇に向かうと、なぜか先生が困った顔をしていた。
先生から招いたというのに、どうしてそんな顔をするのか。
「……?
なにか?」
「なにかっていうか」
先生が頬に手を添える。
どうしたものかと細まる瞳。よくよく見ると、その視線の先は僕を向いていなかった。
やや斜め後ろ。肩越しに振り返ると、鎖錠さんの暗い瞳と目が合う。
なるほど。つまるところ、
「他の人には訊かれたくないと?」
「個人的な話だから」
ね? と、愛想笑いを浮かべる先生に、ヒトリは「そう……」とだけ口にして、あっさりと離れていく。
「下駄箱で待ってる」
そう言い残して、学生鞄を持って教室を後にした。
気にしてない素振りだったが、どことなく彼女の声に不機嫌そうというか、納得しきれないモノを感じる。
言葉にできないニュアンスだが、一緒に生活していると、自然とそういった機微も悟れるようになってくるものだ。未だに女心は理解不能だけれど。一生分かる気はしない。
「……怒ってなかったかしら?」
「大丈夫ですよ」
安易に否定しておく。
こういう時、素直に『不機嫌かもしれない』と言ったところで、先生の不安を煽るだけだ。そもそも、本当に機嫌が悪いかどうかもわからないのだから、適当に慰めておくのが吉。
本心を隠し、波風立てないのが人間関係の処世術というものだ。
「それならいいのだけれど」
先生の目が一瞬、鎖錠さんが出ていった入り口に向く。
気にしたところでしょうがないけれど、気になってしまうといった様子だ。
そこまで敏感になる必要はないと思うのだろうに。どうしてそこまで怯えているのか。
「それで、用件ってなんですか?」
不思議に思うが、あまり長く鎖錠さんを待たせたくないので、こちらから話を切り出す。「手早くお願いします」と伝えると、「そ、そうね」と慌てたように先生は頷く。
「大した用事ではないのだけど」
そう前置きして、
「三者面談のプリント、渡してくれたかしら?」
「………………あ」
言われて思い出す。
やっべー。忘れてた。
鎖錠さんと同棲する前。妹が帰ってきた日のことだ。
先生から鎖錠さんに三者面談のプリントを渡すように頼まれていたが、完全に失念していた。
やっちまったと、右手で口を覆う。
スッと先生の目が細く、鋭くなる。
「その様子だと忘れていたみたいね?」
「いやー。
忘れていたと言いますか、衝撃的な出来事の数々に処理が追いつかなかったといいますか」
「つまり、渡してないのね?」
「……はい」
先生の追求に、観念して力なく頷いた。
でも、しょうがないではないか。
あの日は妹が鎖錠さんの家から出てきたり、鎖錠さんがメイド服を着ていたり、まして引っ越しなんて超弩級の事件が発生したのだ。スーパーノヴァもかくや。
先生に無理矢理押し付けられた、鎖錠さんに会うキッカケ程度にしか思ってなかったプリントなんて、妹にお尻を蹴られた瞬間に頭から飛んでいるに決まっている。
今なお、三者面談のプリントは鞄の奥底で安眠中だ。
このまま先生に言われていなかったら、そのまま永眠していたことだろう。
男の子の鞄故、原型を留めているかはお察しだけど。アコーディオンに変形している可能性大。
とはいえ、そんな言い訳をしたところで『なにを言っているの?』と胡乱な目を向けられるだけに決まっている。
なにより、学校の先生にクラスメートの女の子と同棲することになりました、なんて。
バカ正直に言えるわけもなかった。別の理由で面談が始まってしまう。
今更ながらバレたらヤバいよなーと、乾いた笑いが零れる。そっと、視線を横に逃がす。
僕の反応を渡し忘れて気まずいとでも受け取ってくれたのか、先生はしょうがないというようにため息を零した。
「三者面談は11月からなのよ。
まだ1ヶ月あるとはいえ、他の子との兼ね合いもあるから、そろそろ予定を組まなくちゃいけないわ」
だから早いとこプリントを渡して、日程を教えてほしいと先生は言外に伝えてくる。
正直、プリントを渡しそこねていたとはいえ、どうして僕がと思ってしまう。
直接的に関係ないよね? 僕。
「鎖錠さんも登校してるんだし、先生が直接言えばいいじゃないですか」
なにも知らないならいざ知らず、鎖錠さんの母娘仲を知っている身としては、逆に言い出し難い案件だった。
鎖錠さんに渡したところで、くしゃくしゃ丸めてゴミ箱にポイッなのは目に見えているし。
彼女の母親に直接渡した場合、どんな反応を見せるかは予想できないが、どうあれ鎖錠さんとの関係が更にこじれそうで二の足を踏む。
できれば関わりたくなかった。
なので、今更ではあるが先生の責任を果たしてほしいと訴えるが、「嫌よ」と拒否されてしまう。
「嫌よって、あーた」
「だって、なんて話せばいいのかわからないんだもの」
眉尻を下げ、じわりと瞳に水の膜が張りぎょっとする。
「もし、鎖錠さんに下手なことを言って、『じゃあ、いいです。もう学校来ません』なんてまた不登校になったらどうすればいいのよ?
今度こそ私の教師生命が終わっちゃう!
この就職氷河期の中、ようやく手にした職を手放したくないのよ――ッ!」
先生の苦労は察するが、そんな情けないことを告白されても弱るのだ。
学校内で最も大人であるべき先生が、生徒に泣きつくとか止めてほしい。
男子生徒に縋り付いているこの状況の方が、よっぽどクビ案件だと思う。
「だからお願いよー!
鎖錠さんに渡して!
ついでに日程も訊いてきて!
なんなら三者面談代わりにやってよー!」
「仕事しろ先生」
妙齢の女性の見るに堪えない姿。
現実から目を背けるように、天井を見上げる。
新任教師ながら、生徒との関係は良好。
愛嬌もあり、しっかりとした先生というイメージは、雪像のように崩れて溶ける。
出来る女性とばかり思っていただけに、この変貌っぷりは地味にショックだった。
憧れていたお姉さんのだらしない一面を見てしまったような気分だ。
これで私生活まで仕事に疲れた干物OL風味だったら、駄目な教師、略して駄教師と呼ぶのだけれど。
そんな機会が訪れないことを切に願う。
いつ誰に見られるかもわからない状況で、いつまでも女教師に泣いて縋られているわけにもいかない。それこそ、鎖錠さんが戻ってきたらと考えるだけで、背筋に冷たい汗が伝う。
「はぁ……。
わかりましたよ。
やりますから離れてください」
プリントを渡し忘れた負い目もある。
仕方なしに受け入れる。
「本当に?
嘘付かない?
やっぱ止めるとか、酷いことしない?」
「言葉選び……。
しませんから離れてください」
納得してくれたのか、僕の制服から手を離す。
そして、距離を取ると少しは冷静になったのか、口元に拳を当てるとごほんっと取り繕うように咳払いをした。やや頬が赤い。表情筋を引き締め、取り澄ました顔をする。
なにもかも今更過ぎるが、またみっともない姿を見せられても困るので、敢えて指摘はしない。
「じゃ、じゃあ、お願いするわね?」
「はいはい、わかりましたよ」
おざなりに手を振って追い払おうとすると、先生がムッと唇を結ぶ。
とはいえ、これ以上恥ずかしい姿を見せられないと思ったのか、「気をつけて帰るのよ」と最後だけ先生らしいことを言い残して教室を出ていった。
「……なんだか面倒なことになったなぁ」
三者面談のプリントを渡すだけだったはずが、いつの間にか日程を確認するところまで任されてしまうし。
どうしたものか。
窓の外。水平線に沈んでいく夕日を見つめていると、
「約束だからね!」
「うあひゃいっ!?」
戻ってきた先生が念押ししてきて肩が跳ねた。
び、びっくりした。
バクバクと跳ねる心臓を押さえて振り返るが、先生の姿はどこにも見当たらなかった。






