第7話 妹を玄関前で見送る
「じゃあ、兄さん。
私、帰るから」
来るのも突然なら、出ていくのも唐突だった。
早朝。鎖錠さんが作ってくれた朝食を食べた後、妹はそのまま持ってきたキャリーケースを掴んで帰ると言い出した。
久々の帰省だというのに慌ただしいことだ。
僕とは違って、幼少の頃からあっちこっち転々と遊び回っていた行動的な妹。たかだか、実家と親の出張先の往復程度、散歩で足を伸ばすぐらいの気持ちなのだろうか。
玄関前で浮かべる表情に寂しさはなく、ちょっと出掛けてくるといった気軽さしか感じない。
そんな妹に対して、兄である僕が別れの寂しさを覚えているかと言えば、そんなこともなく。
どちらかといえば、ムスッと唇をキツく結んで、『兄は不満です』とこれでもかと表情で訴える。
妹が腰を曲げて下から覗き込んでくる。
その表情は相も変わらずからかい混じりで、によによ顔に腹が立つ。
「なに?
朝、起こしたのが不満?
でも、妹を見送るのは兄の努めでしょ?」
「そこじゃねーよ。
起こし方だ起こし方。
蹴っ飛ばしてベッドから落としたろーが」
あーそれ、と忘れていたように言い、この妹は、と増々眉間に力がこもる。
絶対覚えているのに、とぼけやがってよー。
寝癖の残る自分の髪を右手でぐしゃぐしゃとかき乱す。
「起こすのはいいけど、もっと違う起こし方があるだろう」
「え? でも、妹はあーゆー風に起こすらしいよ?」
「……どこで学んだんだよ」
やはり、北海道の肥沃な大地で、なにかよからぬ成長を遂げている気がしてならない。性欲や百合といい、魔境かなにかだろうか。
胡乱な目を向けていると、妹がなにか思い付いたように「あ」と声を出す。
「もしかしてー」
にやーと笑い、
「目覚めのちっすで起こしてほしかったのかにゃー?」
「そんなわけあるか!」
ケラケラ笑う妹。
気色悪いこと言うな。鳥肌びっしりだよ。
思わずげーっと1歩下がるとゲシッ、と横合いから軽く脛を蹴られる。
見ると、僕と同じように妹を見送りに玄関まで来ていた鎖錠さんが、非難めいた黒い瞳を向けてきていた。
違うんです僕は無実です。
途端に苛立ちは鳴りを潜め、萎縮する僕を見て妹は大笑する。
内心イラァっとするが、鎖錠さんが威圧的な視線を送ってくるので表に出すことはできない。くそぉ。
「あはは! 尻に敷かれてるぅ」
うっさい黙れ。
「まぁ、そういうのは妹じゃなくて、義姉さんにでも頼んでよ」
「……やらないから」
鎖錠さんが否定する。やられても困る。
朝、起こされる時。
瞼を開けてあの整い過ぎた顔が間近にあるだけで、心臓が止まりそうになる。
その上ちっすなんてされてしまったら、二度と目覚めない眠りに落ちることになるだろう。
童話で王子様にキスされたお姫様が目覚めるなんてシーンがあるが、実際にやられると逆効果でしかない。
よくあれで目が覚めるものだ。関心してしまう。……男女の立場が逆転しているのは、まぁ、うん、なにも言うまい。
「普通に起こせ普通に」
「次があればねー」
ひらひらと力なく手を振って適当な返事。
またやりそうだなと肩を落として、床にぶつけた額を撫でる。
腫れてはいない。まだ痛むような気がするのは、妹に文句を言いたいがために錯覚しているだけなのかも。
子供っぽいかなと自覚するが、これぐらいはいいだろうとも思う。兄妹のやり取りなんて、幾つ歳を重ねようとも、幼稚なものだ。
これ見よがしに渋面を作っておでこを擦る僕に、妹は「少しは頭良くなった?」と笑う。「脳細胞が死んだ」と唇を尖らせて返すと、重ねて笑うのだから反省の色はないし、僕自身ふざけ始めたのを理解する。
はぁ、とため息を零す。ただ、その口が緩むのは止められなかった。
ふと気付くと、鎖錠さんがこちらをじーっと見つめてきていた。一瞬、まだ怒っているのかなと思ったが、どうにもそういう不機嫌さは感じられなかった。
真っ黒く、虚ろな瞳。なにを考えているのかわからず、居心地悪くなって身体をすくめる。
「さ、鎖錠さん……?
なにか?」
「…………。
……別に」
いやに長い沈黙だった。なにかありますと、その間が物語っている。
けれど、追求したところで彼女が口を割ることがないのは、短いながらも長かった夏の間に経験済み。
憶測を重ねたところで意味はないので、(なんだろう?)と頬に汗をかきながら「?」と首を傾げるしかできない。
「んふふ」
妹がつい、といった様子で笑みを零す。
じろっと横目に睨む。
「なんだよ」
「べっつに~」
口笛でも吹きそうな、露骨な誤魔化し。
話す気はないくせに意味深な態度を取るのだから、ほんっとうに人の神経を逆撫でるのが上手な妹だ。その癖、ちゃんと限界線を認識しているのがたちが悪い。ぷっつんラインの上を、子供のように笑顔で歩く。
「時々からかいに来るからよろしくねー」
「来るなし」
からかい前提とか最低過ぎる。玄関どころか、マンションにすら近付いてほしくない。
というか、東京の地を踏むな。北の大地で雪だるまと友達になってろ。
「だいたい、そんな頻繁に行き来できる距離じゃねーだろ」
北海道だし。近所のノリで言うものじゃない。
そう言うと、いやいやと妹は首を左右に振る。
「北海道と東京なんて飛行機なら2時間よ。2時間。
日帰り温泉もできちゃうぜ!」
「東京に温泉はないだろ……」
いや、あるんだっけ? スパしかわからん。サラリーマンがサウナで整ってるイメージ。
まぁ、言っている本人も適当言ってるだけなので、事実確認なんてする気もないけど。
そもそもとして、わざわざ東京に温泉目的で来ることある?
「ま。言っといてなんだけど、頻繁には来れないけどねー。
残念ながら」
妹が当たり前のことを言う。
そりゃそうだ。時間も、あくまで北海道の空港から東京まで2時間というだけ。空港に向かう経路も考えれば、その程度で済むはずがなかった。
なによりお金かかるし。中学2年生の妹には、痛すぎる出費だろう。
……いや、娘に甘い父なら、『お父さんだ~い好き♡』とでも甘えれば毎日がお誕生日でお正月でクリスマスなんだろうけど。
僕? 僕がやったら『はんっ』と鼻で笑われた上で5円チョコを投げつけられた。娘と息子の格差社会が酷い。絶対許さん。
そんなわけで、頻繁に来れないなんて当たり前過ぎる常識なのだが、どうやら妹にとっての障害は僕の想像とは違ったらしい。訊いた瞬間、空いた口が塞がらなくなった。
「あんまり離れると、嫁が泣いて自殺しちゃうからねー」
「……よ、め?」
聞き慣れない単語を口の中でぎこちなく転がすと、「おうさ」と妹が満面の笑みを浮かべ――
「私は兄さんと違って彼女持ちだからな!」
薄い胸を張り、ふんすっと勢いよく鼻から息を吐き出した。






