第1話 お隣さんの居ない教室
「ねぇ、日向君。
鎖錠さんと喧嘩でもしたの?」
クラスメートの女の子に、そう訊かれたのは9月中旬。
怠惰で、安穏とした夏休みが終わり、2学期に入ってから2週間後のことだった。
椅子に座り、天井をぼーっと仰いでいた僕は、緩慢な動きで彼女を見る。
おずおずと、どこか気を遣うようなクラスメートに、ゆるゆると首を左右に振った。
「してないよ」
……多分。と、心の中で付け加える。
「本当?」
疑わし気に彼女が見るのは、僕の隣。
ぽっかりと空っぽになった、鎖錠さんの席だった。
釣られて隣を見たら、心に隙間風が通ったように物悲しさを覚えて、かれこれ1ヶ月、毎日欠かさず口から零れてしまうため息をはぁっ、と今日も吐き出す。誰にも誇れないノルマ達成。
パッタリ、と。
鎖錠さんが姿を消した。
学校から。我が家から。突然。音沙汰もなく。
なぜだろうと考えても理由は不明瞭で、冷却機能のない頭は、夏の暑さにやられて早々に考えるのを止めた。
家に来なくなったのは8月半ば。
丁度、一緒にプールに入った時のことだった。
あの時のことを思い出すと、なかなかに大胆だったなと我が事ながらに思う。鎖錠さんと一緒にビニールプールに……うーん。今思い出しても黒ビキニから零れそうなおっぱいの迫力に唸ってしまう。
そこまでは良かったのだけれど。
恥ずかしかったのか、逃げるように帰っていった鎖錠さん。
黒ビキニのままマンションの廊下に飛び出すとは大胆な。その度胸に驚嘆を覚えたものだ。
その時はなにも思わず「ぼー……」と手足の指がしわくちゃにふやけるまで水の中でたゆたっていたのだけれど、夕飯時になってもピンポン一つならないことに「これはおかしいぞ」と疑問を抱き始めた。
それが2日、3日ともなるとその疑問は確信へと変わり、気付けば教室の天井を見上げて、魂を放流させてる今に至る。
なにか気に障ることしたかなぁ。
それとも、鎖錠さん側になにかあったのか。
連絡先一つ知らない僕は、確認する術も持たず、やきもきしながら授業を受ける日々を送っていた。もちろん、そんな状態ではまともに授業なんて訊いているわけもなく、当てても答える素振り一つ見せない僕に「……バケツに水を入れて、廊下に立たせるべきかしら?」と、額に手を当てて半ば本気っぽく零していた。
それはそれでやってみたいな、と拡散する意識の中で思ってもいた。
「……急に来なくなったから心配で。
十中八九、日向君が浮気したからって、女子達の間では噂になってるんだけど」
「…………いや、ちょっと待って。
なに神妙になって風評被害垂れ流してるの?」
あらぬ噂過ぎる。ちょっと煙が立っただけなのに、どうして直ぐ火事だ爆弾だと騒ぎ出すのか。
「男女の喧嘩は男が悪い……」
「そういう態度が男を頑なにさせるって気付いて?
それと、付き合ってないし、喧嘩もしてない」
「あ。カレカノについては、私達の中で○ックスまでイッてることになってるからどうでもいい」
「おい」
よくねぇよ。妄想を現実に落とし込むな。ナマモノは取り扱い注意だぞ。耳を塞ぐな。
「ちなみに2番目の噂は妊し――」
スパンッと、茶髪の癖にピンクな頭を思いっきり叩いた。
たとえ女子相手であろうとも許される。そのレベルの発言である。
うえーん叩かれたーと鳴き真似をして頭を抱える彼女に、まったくと疲労と共に息を吐き出す。
クラスの女子たちにも困ったものだ。
ただ、と。
本当に僕が悪くないか、というのは断言できなかった。
鎖錠さんに会えない以上、確認する術はなく、確信を持って言えることはここ最近顔を合わせていないという事実だけ。
鎖錠さんもなぁ。
いなくなるにしても、せめて理由ぐらい説明してくれればいいのに。
そう思うも、そもそもとして相手のことに踏み込まないという暗黙の了解を受け入れていたのは僕自身で、不都合になったからといって文句を言うのはお門違いなのはわかっている。
今更になってつくづく思う。
僕と鎖錠さんの関係は、一方的なモノだったんだな、と。
朝起こしてくれるのは鎖錠さん。
お弁当を作ってくれるのも鎖錠さん。
家に泊まっていくのも鎖錠さん。
そして――抱きしめてくれるのも、いつも鎖錠さんからだった。
だから、鎖錠さん側から接触を絶つだけで、一度も顔を合わせず日常を送れてしまう。
鎖錠さんからの触れ合い。けれど、僕側からなにか行動を起こすことはなかった。
彼女との関係が希薄になっている根本的な理由。それは僕にあった。
鎖錠さんが寄りかかっていたのか。それとも、僕が甘えていたのか。
まぁ、どっちもだろうなぁ、と思う。
そのことに僅かながらにショックを覚え、寂しいとすら思っているのに、なにもしようともせず、うだうだ教室で腐っている僕は薄情だなぁ、と自虐してしまう。
人付き合いは億劫だ。
親密になればなるほど、関係を保つには膨大なエネルギーが必要で、際限がない。
僕にとってそれはとてもとても面倒な代物で、適当に愛想笑いを浮かべた薄っぺらい関係を築いているぐらいが丁度良かった。
そんなんだから、これまでの人生で学校の外で遊ぶような友達もいなかった。親友なんて尚更で、一人家に帰ってレトロゲームに熱中するセピア色の青春を送っていた。
それは楽だったけど、同時に一人は寂しくて。
だから、ただなにもせずとも一緒に居る。
それが許された鎖錠さんとの関係は、僕にとっては理想そのもので、安息だった。
なんとかしたいと思う。
けど、鎖錠さんが望んでいないのなら、無理に引き止めようとは思えなかった。それは、人付き合いを億劫に思い、他人への執着が薄いからなのかもしれない。
相手の意志を捻じ曲げてまで『一緒に居たい』という心の熱量が欠けていた。
改めて分析した自分に、「薄情だなぁ……」と口から声が零れる。
まだ近くにいたクラスメートの女子が「やっぱりなにかやったの?」と眉をひそめて訝しむ。やってません。
せめて口実があればなぁ。
どこまでいっても他人任せ。そんな自分が嫌になる。
けれども、願わずにはいられなかった。
そこに、担任の先生がひょっこり顔を出すと、僕を見つけて手招く。
「ちょっといいかしら?」






