第5話 ビニールプールでゆらゆら揺られてクラゲよりバカになった
「~~……っ」
ちゃぷんっと、小さな水音を響かせながら、鎖錠さんは慎重に足先を水面に付ける。
思いの外冷たかったのか、ブルッと身体が一瞬震えた。
口元が引きつる。
けれど、意を決したのか、残りの足もビニールプール内に入れると、静かに腰を落としていった。
最初こそ強張っていた顔は水温に慣れていくにつれ緩んでいき、夏の暑さも相まって心地良さそうな表情を見せる。
なんか、水を怖がる子供がいざ入ってみると気持ちよかったみたいな、そんな雰囲気がある。口にすれば蹴られるので言わないが。
ただ、浴槽より広いとはいえ、ベランダに置けるようなサイズのビニールプールだ。
2人で入るには少しばかり狭い。
膝を抱えるように畳んでいるのに、ふとした瞬間に足先がぶつかってしまう。
「ん。ごめん」
「……っ、いい、けど」
口では大丈夫と言いながらも、外気に晒された肌は薄桃色に色付いている。
広く露出した肌は隠しようがなく、その色合いが彼女の羞恥を視覚的に伝えてきた。
鎖錠さん自身そのことを理解しているのか、肩を抱きながら「~~ッ」と恥ずかしさに身を震わせる。体育座りのように胸に膝を引き寄せて小さくなってしまう。
そのおかげで足先が触れることはなくなったが、その分膝の内側で潰れた胸が大変なことになっている。
元々ギリギリ収まっている状態だったのに、水着がたわみ横から零れてしまいそうだ。
普段は自分から抱きまくら宜しく僕を抱きしめてくる鎖錠さんだけど、さすがにお互い水着だと勝手が違うようだった。
僕も先程まで鎖錠さんの黒ビキニ姿にテンションを上げていたが、いざ同じビニールプール内に入り、足とか手とかがちょいちょいぶつかると平静を保てなくなる。
見ている分には眼福なのだが、触れると生々しさが増すというか、気後れしてしまう。
こういうところが童貞っぽいのかねぇ、と顔を逸らして自嘲気味にため息を零す。僕に性行為の経験があるかどうかは関係なく。
まぁ。
そんな羞恥心も最初だけで。
煌めく太陽に照らされ、程よい水温のプールに浸っていれば、徐々に洗い流されていくものだ。
「……(ぽけ~)」
「……」
適度な距離。適度な水温。
意識がクラゲのようにゆらゆら~と揺れて緩くなっていく。
悩み事も、心労も。
洗って干されて、汚れが落ちるように心から消えていく。
当然、それは幻想で、白昼夢。もしくは現実逃避にしか他ならないのだけど。
今だけはいいよなー、と。
蒸発して霧のように霧散して広がっていく意識をそのまま手放していく。
ここ最近、重みを増していた頭が軽くなっていくようだ。
「…………。
なにか、あった……?」
ミーン、ミーンと蝉の鳴き声と混ざりながら、不意に鎖錠さんが話しかけてくる。
その声はどこか慎重で、見れば膝を抱えながら僕の反応を伺うように見つめてきていた。
普段纏っている陰鬱さや棘が削ぎ落とされ、珍しく気遣う感じ。
自分のことで精一杯。
他人の顔色を伺うことなんてまずしない彼女が心配するほどに、今の僕の顔は酷いのだろうか。
確認しようと頬に手を触れると、鎖錠さんの目が細められた。
余計な行動だったかもしれない。内心失敗したと反省する。今のはなにかあると言っているようなものだった。
鎖錠さんの憂う黒い瞳から逃げるように、ガクンっと頭を後ろに倒す。
喉が突っ張って引きつりそうだ。首の内側で骨がゴキッとなる。
光が視覚化したように強い西日が目を焼く。
眩しいと目の下の肉を持ち上げて薄目になりながら、彼女の問いかけを考える。
なにかあったと言えば……あったよな。
思い悩み、頭が痛くなって、胃は重くなる。
風邪の症状にも似ているが、病気じゃないのはわかりきっていて。
問題を解決しない限りどうしようもないことも理解していた。
で……考えたくなかったので、今水の中。
夏だし。暑いし。定番だし。
少しは気が紛れるかなぁという思い付きだったのだが、こうして水に沈んで日に干されていると、色々とどうでもよくなってくる。
日光浴でストレスが消えると耳に挟んだことがあるが、こうも効果があるものだろうか。
それとも、水に浸かることでお腹の中にいることでも思い出して、安心しているのかもしれない。
もしくは、自分で思っていたよりも、僕が能天気だったか。一番ありそうで嫌だなぁと思う。理由が一番バカっぽいから。
ただ、本当はよくないんだろうなーとも思う。
考えるべきことを放り投げて、後回しにして。
ぬるま湯に浸かって、なにもせずそのままでいようなんて。
怠惰で、愚かで。
後ろ指をさされて非難されるべき行いだ。
だからといって、人間誰しもが現実を前にして頑張れるかというとそうでもなくって。
頭を前に倒す。鎖錠さんを見る。戸惑うように首を傾げる彼女を見て思う。
逃避も必要で、逃げ続けることが悪だなんて、思いたくはなかった。
閉ざされた箱庭の中で耽溺するのも悪くない。
最近は、そう思うようになっていた。
いや、最近というか……。
改めて鎖錠さんを注視すると、どうしてか眉間に皺を寄せていた。
なんか怒ってない?
「さっきからなに?
思わせぶりな、なにかあるような態度。
ムカつく……」
「そういうつもりはなかったんだけど」
頬をかく。
ただまぁ。
プールでゆらゆらしている時に、一つ決めたことがあった。
ので、それを伝えることにした。
「今、家族が出張で家に居ないのね。
それで、出張先に来ないかーって、この前電話で言われたんだけどー」
「え…………や、な、……だ…………ぃ?」
僕の言葉を聞いて、見るからに狼狽する鎖錠さん。
何を口にしているのか不明瞭で、赤く色付いていた肌は元の白さを通り越して蒼白だ。
このまま見ているなんて、悪趣味がすぎるし、気分も悪い。
過呼吸で倒れたりしないうちに、さっさと結論を述べることにした。
「うん、でも。断るわー」
気持ち軽く告げると、鎖錠さんは息の仕方を忘れたように目を見開き、口をぽかーんっと開く。
見慣れない鎖錠さんの間の抜けた顔がちょっと愛らしく笑ってしまう。
「へ、や……な、なんで?」
抜けた魂が戻ってきたのか、再起動した鎖錠さんがたどたどしく問うてくる。
手と手を擦り、落ち着かない様子。身体が左右に揺れ起こる小さな波が、彼女の心情を表しているようだった。
なんで。なんでねー。
「なんでだろうなー」
正直、あんま考えて出した答えじゃないから、訊かれても困ってしまう。
選択肢を迫られて、時間もなかったからなんとなく選んだというか。
時間切れで、ツモ牌が切れてしまった麻雀ゲームというか。
適当な例えと言葉は自分の中にすらなかった。
後付の理由なら色々ある。
引っ越しが面倒臭いとか。
転校が面倒臭いとか。
北海道寒そうでやだなーとか。
振り返ると、面倒とかやだばかりで前向きな理由が1つもないのが気にかかる。
減点方式のテストみたいだ。
ただ、しいて前向きな理由を1つ上げるとすれば、
「ヒトリと一緒に居たいからかなー」
「――――」
言って、違和感を覚える。内容ではなく、呼び方に。
「やっぱり、ヒトリは変だな。
鎖錠さんのままで」
なんだか思考まで海に漂う昆布みたいになっていて、まるきり安定しない。
それもいいかなーっと思ってしまうのは、怠惰の極みなのだろうが、これが幸せというものだと前向きに考える。
幸せになるではなく、幸せにする。
うん。いいことだ。(適当)
なんて、海面に浮かぶクラゲ以上になにも考えていないでいると、バシャリッとビニールプール内が大きく波打つ。
「ふあ?」
のっそり顔を上げると、水を滴らせた鎖錠さんがぷるぷる身体を震わせて立っていた。
その身体は茹で上がったように全身真っ赤で、俯いた頬から流れる水滴がまるで悔し涙のように見えるほどに、歯を食いしばっていた。
「……っ、~~っ。
なんなの、ほんと……意味わかんない……っ!」
水を蹴るように飛び出していき、ドタドタと室内を慌ただしく駆けていく。
蹴られて舞い上がった水を顔面に被る。
前髪の先からポタポタと雫を落としながら、鎖錠さんを呆然と見送った僕は、濡れた視界の中、目を瞬かせて呟いた。
「……名前呼びがいけなかったかなぁ」
やっぱり次からは元に戻そう。
そう思いながら、顔から水面に倒れ込んだ。
ばしゃーん。






