第3話 エッチな事はNGだけど、おっぱいを枕にするのはOKな理由。
「水商売……所謂、夜のお仕事、かな」
あー、やっぱりな、と。
納得するものがあった。
男の性欲を昂ぶらせるような甘い声に、肉感的な身体。その顔は美しく、今は化粧一つしていないというのに、目に焼き付いて消えてくれない。
一度触れると火傷のように身体に残り、忘れたくても忘れられなくなる女性だった。
……火傷どころか、身持ちを崩した男もいるんじゃないかと心配になる。
見た目や雰囲気だけじゃなく、玄関前で見てしまった若い男性とのネチョレロもある。
鎖錠さんが家にいたくない、いられない理由を合わせて考えれば……まぁ、そういうことなのかなって、脳の端っこで水が溜まるように無意識に情報をまとめて想像はしていた。
「この前見られちゃった男の人も、お客様。
夫じゃないのよ?」
僕の表情から察したのか、自嘲するように鎖錠さん母が笑う。
顔から内心を察するのは、職業から人の顔色を伺うことが多いからだろうか。
それとも、僕がわかり易すぎるのか。
よく何も言ってないのに鎖錠さんに脛を蹴られるのを考えると後者な気もするが、お前はわかりやすいなと言われているようで腹が立つので前者ということにしておいた。僕の周り、察し良すぎる人多すぎぃ。
「はぁ……。
そう、なんです、……ね?」
訊いておいてなんだけど、想像を肯定されてしまった結果、なんて返せばいいのかわからなかった。
まさか、どこのお店ですか? 1回いくら? オプションは!? なんて前のめりに訊くわけにもいかない。
そうなると、モヤがかかったような曖昧で、不明瞭な、なんとでも受け取れる相槌を打つしかなかった。
へー。そうなんだー。
興味のないフリをして、挙動不審な僕を見かねてか、今度は鎖錠さん母が水を向けるように話を続けてくれる。
「私、昔からバカだったから、なんにもできなくって。
普通のお仕事は上手くいかなくて、気付けば……ね?」
からん、と鎖錠さん母のグラスの氷が音を立てる。
彼女の言う『いつもの』はミルクティーで、話している間一度も口を付けることなく、表面に水の層が浮かんでいた。
というか、これ僕が訊いていいものなの?
鎖錠さん母の身の上話に興味はあれど段々不安になってきた。
知らず、階段を踏み外しているような、言葉にできない朧げな焦燥が胃に重く溜まる。
ただ、その憂慮は遅く、鎖錠さん母の薄い唇は閉じることはない。
「お客様と楽しく話して、……そういう関係になって、お金を貰う。
別に嫌いじゃないし、悪いことだとは思ってないの」
けど、娘はそういうの嫌いだから、と彼女と似た黒い瞳を伏せて切なげに言う。
だろうな、と思う。
別に男が嫌いというわけでもないが、鎖錠さんはそういう性的なことに対して人一倍嫌悪感を示している。
僕のAなヴィクトリーディスクを割る時も、羽虫を一匹一匹潰すように容赦がなかった。
……いやほんと、怖かったのよ。うん。
今思い出しても、ブルリと身体が震え上がってしまう。ガタガタブルブル。
潔癖症なきらいがある癖に、人恋しさは人一倍だから、懐くと猫のように擦り寄ってくる。
結果、抱きしめられて、おっぱい枕なんて夢の状態になっているだろうなーと思う。
僕にとっては幸せで、生殺しでもある。だから、ヴィクトリーディスクは唯一の発散場所だったのになぁ……!
Fアカウントだけは死守せねばなるまい。
エッチなのは拒否するのに、触れ合いたいなんて酷い女だな、と改めて思う。
だからと言って、伸ばしてくる手を跳ね除ける度胸も、押し倒す勇気もないのだけれど。
嫌われたらと思うと、どうしたって二の足を踏む。
そもそも、気持ちもなく、顔と身体が好みだからエロいことをするっていうのもなぁ……。
生物としては正しくとも、理性ある人間としては落第だろう。
下半身に本能はあっても、考え行動するのは頭なのだから。
「家に呼んじゃいけないっていうのはわかってるんだけど、押されると弱くって……。
だから、余計にあの子の居場所をなくしてしまったんだわ」
黒い瞳が夜露で濡れるように膜を張る。
こらえるように真下を向いた鎖錠さん母。濡れた瞳から零れてしまうのは、時間の問題だろう。
まるで懺悔だな。
悪いと思っているのに直すこともできず、
愛しているのに娘との関係はぐちゃぐちゃ。
どうにかしようと手を尽くしても、上手くはいかず娘は離れていくばかり。
どうすることもできはしない。
そこに現れた、少なからず娘が気を許している僕は、彼女にとって救い人なのかもしれない。
それはきっと、正しくもあり、間違ってもいる。
僕と鎖錠さんが共有するのは停滞であり、なにも変わってはいないのだから。
ひび割れたガラスは、ひび割れたまま。勝手に直ることなんて、ありはしない。
「だから――」
と、鎖錠さん母が続ける言葉は、言われずとも理解している。
だから僕は、彼女の言葉を遮るようにガタンッと大きく音を立てて、椅子から立ち上がった。
ビクリッと、音に驚くように顔を上げた鎖錠さん母。
その目元は赤くなっており、頬を透明な線が伝っていた。
怯えて、戸惑う彼女に「なにを言おうとしているのかは知りませんが、」と前置きをして言う。
「鎖錠さんと一緒にいるのは、僕の意志で、鎖錠さんの意志です。
頼まれる謂れはないし、お礼を言われる理由もありはしません」
だから、だからなにも言ってくれるなと、僕は言外に告げる。
余計なのだと。
邪魔なのだと。
心地良い関係に余分ななにかが差し込まれるような嫌悪感があった。
たとえ好意の行動であろうとも、宝物に触れる者に抱く怒りのような、脳の隅を焼く苛立ちがあった。
そんな大人に成りきれない、子供染みた感情を正確に察したわけではないだろう。
僕自身、ざらついた感情の形を把握できてはいないのだから。
けれど、完全ではなくとも伝わるモノはあって、
「……そう」
と、彼女は迷子の子供のような顔で、悲しそうに言葉を引っ込めた。
その表情に、罪悪感を覚え胸を締め付けらる。
だが、言葉を翻す気はなく、謝る気もない。
結局、鎖錠さん母と話した成果は重苦しい感情を持ち帰ることだけで、鎖錠さんとの関係になんら変化を及ぼすモノではなかった。
あー。来るんじゃなかった。
後悔しながら、透明な筒に入った卓上の伝票を抜き去る。
「払うわ」
という鎖錠さん母。僕は首を左右に振る。
親の仕送りで成り立つ一人暮らし。
コーヒー一杯とはいえありがたい申し出だったが、遠慮からではなく明確に僕は拒絶する。
「僕はいいですけど……いや、本当なら奢ってもらいたいんですけどね?」
過剰な未練が顔を出したがそれはそれとして、
「鎖錠さんは嫌でしょう?」
そう言う僕に、鎖錠さん母は「そうね」と、やっぱり寂しそうに笑った。
なお、
(意地張らないで奢ってもらえばよかったなー!?)
と、心の中で絶叫したのは、レジで確認した電子マネーの残高が1,000円もなかった時のことだった。






