第1話 友達のお母さんと喫茶店で話すのは気まずい
宝物……というには、強い抵抗を感じるが、それが割られた瞬間スッと心に挿し込んできた感情は虚無感で、あだばーっと膝から崩れて涙を流した近くも遠いあの日。
これから僕はなにを糧に生きていけばいいのかと絶望しながら、アカウントは見つからなくって良かったと安堵もしていた。
やはり時代はデジタル。物質は破壊や劣化に耐えられない。
ナニが、とは言わないけれど。
そんな悲しく、物の脆さ儚さというものを実感してから数日経ったある日。
「「あ」」
と、声が重なる。なにやら既視感を覚える。
コンビニのエスプレッソマシーンのヒーコーでも買いに行こうと家を出て、お隣さんの玄関前を通り過ぎようとした時のことだった。
マンション共通の廊下から見える空はモクモクした積雲が並び、夏だなぁと思わせる晴天。
周囲をスピーカーで囲んだようにセミが鳴いていて。
廊下の端を伝う排水用の溝には、セミが物言わずひっくり返っていて、夏らしさ増々だった。……飛ぶなよ?
そんな晴れやかな夏真っ盛りだというのに、隣室の玄関前では捨てられた猫のように煤けて、膝を抱えてしゃがみ込んでいる鎖錠さんが居た。
ただし、母親の方である。
これまで見かけた時とは違い、今日は化粧一つしていない。
格好も、数日前のようにスケスケエロティックボンバーなネグリジェでもなかった。
お手頃な服飾店でセット販売しているような上下のスウェットというラフな格好。
いや別に残念だなんて思ってないが。マジで。本当に。
エロさの減った服装だからか、はたまた化粧をしていないからか。
元から似ていた容姿に、溢れ出る雰囲気まで似通って、まるで双子の姉妹のように見えてしまう。そっくりというより瓜二つ。
鎖錠さん母が若々し過ぎる、というのもあるのだろうけれど。
十代の娘と姉妹どころか双子に見えるって、本当に母親なのか疑いたくなる。
鎖錠さんを生んでいることから三十歳以上だとは思うんだけど、皺はないし、毛穴も肉眼では確認できない。美魔女なんて形容すら生易しい、正しく現代に生きる魔女そのものか。
と、鎖錠さん母不老疑惑が上がったが、そもそも母親なのか確定はしていなかった。
すれ違った時にソックリだな、と思って僕が勝手に思ってるだけだし。
本当に姉か妹かもしれない。
鎖錠さんに家族構成を訊いたこともない。
その場合、相当失礼な勘違いをしていることになるが、言わなきゃ恥ずかしくないもんの精神で黙することにする。
恥を晒して笑いに変えるお笑い芸人の強メンタルはまだ持ち合わせていないのだ。
この前割られたばっかりだしね、メンタル。
そんな内心がバレる前に通り過ぎようと画策する。
なにより、この前見てしまった男性とのネチャビチャやスケスケエッチの件もあって気まずい。
「こんにちは」
と、軽く会釈して何食わぬ顔で横切ろうとしたら、「あのっ」とか細く、どこか躊躇うような声をかけられてしまう。
まさか母親扱いがバレたのか!?
心が読めるわけもないし……でも魔女だしと、内心焦りながらも表面上はにこやかに振り返ると、眉を八の字にして、困った様子の鎖錠さん母(押し通す)が、遠慮がちに尋ねてくる。
「その、……。
少し……お話できないかしら?」
「…………はぁ?」
庇護欲をそそる甘い声に、生返事をする。
また彼女との違いを見つける。
声質は似ているが、鎖錠さんの冷たく静かな声とは受ける印象が正反対だった。簡単に言うなら、キュートとクール。
第3のパッション担当の鎖錠イエローが登場するのも近いかもしれない。
それにしてもお話って。
友達の母親と話す。まんま気まずい状況に、なんとも言えない気持ちになる。
うちの娘とどういう関係なの? とか訊かれたやだなーと思いつつ、頷いて了承する。
■■
言われるがまま、連れていかれるがまま。
訪れたのはマンションからほど近い場所にある喫茶店だった。
バス停近く、畑に囲まれてポツンとある、掘っ立て小屋のようなプレハブのお店だ。
背景がだだっ広い畑の真っ茶色で、学校の帰りとかで通る時『なんでこんな所に喫茶店が?』と疑問符を頭の上に浮かべたのは1度や2度どころじゃない。
入り口側に窓もなく、中も伺えない。
分かるのは風に揺られたのぼりに書かれている『喫茶店』ということと、『ハンバーグはじめました。』ということだけ。コーヒーはあるのだろうか。
一見しておしゃれとはほど遠い、『本当にお店か?』と疑いたくなる外見は、入店する勇気を萎ませる。
なので、1年前に出来てから入店するのは初めてで、鎖錠さん母の背中を小さな子供のようにソワソワしながら付いてきたのだ。ママー。
初めて入る店内はプレハブ感満載の外観とは違い、中は至って普通だった。
僕が想像するような喫茶店そのもの。
木製でできた調度品類。机に椅子。なんか頭上でゆっくりグルグル回る扇風機の羽根みたいなおしゃれな奴。ものすごく喫茶店だ。
出てきた若い女性の店員さんに案内されて、原木をそのまま切って形作ったような小洒落た椅子にちょこんと座る。
なんか緊張。
対面に座る鎖錠さん母は何度も来ているのか、店の雰囲気にも慣れているように動作一つひとつにこなれた感がある。
店員さんに「いつもので」と常連さん感バリバリの鎖錠さん母に対して、卓上にあったメニューと睨めっこしながら「あ、えっと……、コーヒーで」と、なんというか初心者感しかない僕。
ホットですか? アイスですか? という店員さんからの問いかけにも「ア、アイスで……」とテンパってしまい、店内は冷房が効いているというのに身体の内側から高まる熱で氷のように溶けてしまいそうだった。
なにやってるんだろうなぁ。
情けなくて、乾いた笑いが漏れそうになっていると、急に鎖錠さん母が申し訳なさそうな声を出した。
「ごめんなさいね?
急に声をかけてしまって。
しかも、外にまでご足労いただくなんて。
家でも良かったのだけど……」
「い、いえ。大丈夫です」
本当に。色々と。
というか、家だともっと困る。
家に上がるか、それとも家に上げるか。
最初、鎖錠さん母には『上がっていって?』と誘われたのだが、丁重にお断りした。
理由は2つある。1つは鎖錠さんに悪いと思ったからだ。
お互い、相手の事情は訊かずにいるのに、彼女の知らない間に家に上がるというのは、神聖な不可侵領域を犯すように思えてならなかった。
踏み込んで欲しくないし、踏み込みたくもない。
こうして鎖錠さん母と思わしき女性と会うことすら心情的にはグレー寄りなのに、これ以上深みに嵌まるような真似は避けたかった。
で、もう1つはこの前あんなエロい姿を見てしまったお隣のお姉さんに自宅に誘われるとかどこの同人サークルのエロシチュですか? と思ったからだ。
いやね? 上がったからってそういうエロハプが起きるはずもないのだけれどね?
常識的に考えれば当然そんな都合の良いお色気展開は万に一つも起こり得ない。
けれど、世の中には未必の故意という言葉があるように、偶然、ワンチャン、そういうことも。
それこそ、マンション共有のゴミ捨て場にブラも付けないでタンクトップ短パンで巨乳のお姉さんがゴミ出しに来ちゃうぐらいの確率はあるかもしれないと、そう思う所存です。はい。
要約すると日和ったわけだが、童貞丸出しの思考を認めたくない自分がいる。
なんか、なにも話してないのに疲れた。背中がびっしょりだ。
というか、なんで誘われたんだろうね?
運ばれてきたアイスコーヒーを紙ストローで飲みながら訝しんでいると、鎖錠さん母がおずおずと口を開いた。訊くか訊くまいか、葛藤した末に、といった印象だ。
「その、ヒトリ……は、元気?」
「ヒトリ……?」
誰それ?
はて? と頭の中で疑問符が乱舞したが、そもそもとして目の前の女性が僕との間で話題に出す人物など鎖錠さんしかいないなと思い至る。
そういうば、そんな名前だったような、気が、……する。ちょっと自信ない。
鎖錠さんとしか呼んでいなかったから、下の名前とか完全に忘れていた。
あだ名で呼んでたら本名忘れるとか、多分そういうやつ。
名前を覚えていなくても一緒に居て困らないのが困るところだ。
そんな認識だからか、目の前の女性も鎖錠さん母。
適当すぎる。そう思うも、そういうものだろうとも思うのだ。
日本語はニュアンスで伝わりすぎて困る。実際に伝わっているかは諸説あるが。






